歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

最近観た映画云々

2022年05月06日 | 映画
ここ最近またちょくちょく映画を見始めている。

大学では映画研究部に入っていたし夫との出会いだって映画だし、20代半ばくらいまでは貪るように映画を観ていた。

以前は映画好きを自称していたけど、ここのところ映画に対する特別な熱を失っていた。

明確な原因は不明だけどちょうど動画ストリーミングザービスが普及したころと被る。

海外ドラマやアニメを気軽に観れるようになり、惰性で映像作品を観ることが増えた。

そこにきて映画は濃すぎるのだ。観るのに気合がいる。

言い方を変えれば海外ドラマに出会った数年であったとも言える。




私の好きな知識人たちは飽きもせず映画の話をし続けている。

映画ファンというのは根強い。

彼らのお勧めする映画を身始めて少しずつリハビリテーション。

そんなこんなでまた映画の面白さに再会したというわけだ。

今日は最近見て面白かった2作の話。

以下ネタバレあり。



『1917 命をかけた伝令』

監督:サム・メンデス
脚本:サム・メンデス、クリスティ・ウィルソン=ケアンズ
製作:サム・メンデス、ピッパ・ハリス、カラム・マクドゥガル、ブライアン・オリヴァー
製作総指揮:ジェブ・ブロディ他
出演者:ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン、マーク・ストロング、アンドリュー・スコット
    リチャード・マッデン、クレア・デュバーク、コリン・ファース、ベネディクト・カンバーバッチ
音楽:トーマス・ニューマン
撮影:ロジャー・ディーキンス
公開年:2020(日本)



出た、サム・メンデーーース。

勝手に相性がいいと思っている監督の一人。

しかししばらく映画熱が冷めていたので当時こんな映画が話題になっていたことも知らなかった。



この映画本当に超好き。

観てから1ヶ月以上経つけど、今でもほとんどの場面が目に焼き付いている。

無数の人の命がたった二人の男に託される。

相棒を失って一人になり、どれだけ困難に見舞われようとも折れることを許されない。

責任の重大さと主人公の孤独を思うと今でも泣けてくる。

主役の俳優はぴったりだった。

言葉少なく淡々と前に進む誠実な男がよく似合う。

主役の二人が無名俳優で脇にスター俳優を置く演出がにくい。

孤独や苦痛に満ちた映像の中にパッと花が開くようだった。

特に最後に出てくるカンバーバッチね。



この映画を語る上で外せないのがワンカット演出だろう。

でもこれらは語り尽くされてるだろからあまり触れないでおく。

もれなくメイキング映像が観たくなる映画であることは間違いない。

撮影規模のあまりの大きさに日本とは映画の概念が違うなと改めて確認し感服。

映画の力を見せつけられました。

何度も観たくなる映画です。





『ベルファスト』

監督・脚本:ケネス・ブラナー
製作:ケネス・ブラナー、ローラ・バーウィック、ベッカ・コヴァチック、テイマー・トーマス
出演者:ジュード・ヒル(英語版)、カトリーナ・バルフ、ジェイミー・ドーナン、ジュディ・デンチ
音楽:ヴァン・モリソン
撮影:ハリス・ザンバーラウコス
公開年:2022



これ、夫が見たいというので映画館へ観に行ったのだけど、映画館でボロ泣きしました。

私が泣くかどうかは作品の良し悪しに関係ないけれど、映画館でこんなに涙が止まらなかったのははじめて。

反対に夫は「面白いのだろうことはわかるけどピンとこなかった」とのこと。



舞台は60年代のアイルランドの都市ベルファスト、主人公はそこに暮らす少年だ。

監督の自叙伝的映画だとラジオかなんかで聞いた。

宗教闘争による分断と翻弄される町、そして一つの家族の物語だ。

夫と話していたのは切実な宗教観を日本人が理解するのは本当に難しいということ。

欧米の映画では驚くほど多くの作品に宗教が密接に関わっているし、

よくわからんなと思ったら宗教のメタファーだったなんてことも多々ある。

ただこの物語を今作ったという意味では「分断」という主題が強いんじゃないかと思う。

相容れない対立。

冒頭から経済難や宗教闘争による閉塞感が充満している。

それでもこの作品が軽やかなのは子供の視点で描かれているからだろう。



この作品では家族が幾つかの選択に迫られる。

プロテスタントかカトリックか、町を出るか居続けるか、離婚するかしないか。

私は途中からこの家族は壊れるなと思っていた。

ここまで来て壊れないなんてセオリーから外れてる、と。

だからお葬式後のパーティーでお父さんがマイクをとりお母さんへ愛の告白したときはびっくりして涙が出た。

家族が一緒にいるという選択は必然的に町を出るという道につながる。

一見単純そうで困難な道を選ばせたことに監督の願いのようなものを感じた。



一番胸にきたのは最後だ。

町を出て行く家族を見送るおばあちゃんの顔と言葉に涙が溢れてエンドロールが滲んでいた。

町を出る者、居続ける者、どちらの困難も続いていくのだ。

淡々と描かれる前半から後半の意外性と突きつけられる現実に感情がブワッと溢れた。

このおばあちゃんがあまりにも作品に馴染んでいるものだから最後までジュディ・デンチだって気づかなかった。

おじいちゃんのかっこよさとなんといっても音楽ヴァン・モリソンが効いていた。

ヴァン・モリソンはベルファスト出身とのこと。



余談だけど『ベルファスト』を観た後に『テネット』を観たら重要な役でケネスブラナーが出ていてなんだか笑えた。

『テネット』はあまりピンとこなかったな。

キャラクターが魅力的でなかったのが一番の原因だと思う。

あと面白いアイディアもたくさんあったけど、わかりやすい伏線とその回収にドーパミンが消失した。

面倒くさい女になってしまったかな、いやもともと面倒くさい女か。

評価は高いようだから、私がずれているのかも。
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逃げる常識、久々の親戚

2022年03月31日 | 日記
夫は非常識な人間だ。

よく言えばマイペース。



先日法事で夫方の地元へ帰ったとき、5分ほど遅刻した話だ。

夫主導で動いて親戚の集まりに間に合ったことがない。

いつも2〜5分ほど遅れる。

余裕を持って出ても、だ。

私が主導すればいいのだが、口を出すとどうしても嫌な空気になる。

それでも二人して非常識な夫婦になるよりは口喧嘩したほうがマシかもしれない。



私は時間にうるさい方だと思う。

よく言えば常識的だけど悪く言えば小心者だ。

でもよく考えて欲しい、一般的に夫方の親戚の集まりに遅れるということがどういうことなのか。

夫はお父さんやおばさんに「ごめんごめん」といえば済むかもしれないが、

私の場合は「遅れて本当に申し訳ありません」と頭を下げなければいけない。

非常識な嫁を持ったと陰口を叩かれるかもしれないし、社会的な信用を失うかもしれない。

そんなことを考えると憂鬱な気持ちになる。



だからもう間に合わないと気づいた時どうしても夫を責める気持ちになる。

なんでいつもこうなるんだろう。

ほんと嫌だ。

悠長に口笛を吹く横っ面に思いっきり蹴りをかましたくなる。



なんでこんな初歩的なことができないんだろう、、、。

あれ、そもそも私は常識的な人間なんだっけ。

変な奴とずっと一緒にいるおかげですっかり常識的な人間だと思い込んでいたけれど、

よく考えると私の育った環境は街の人が目ん玉を落とすくらい非常識だったような。

一生懸命常識の鋳型に体をはめ込もうと頑張っている。

その型はとても小さくてどうしても体がはみ出てしまう。

だいたいその鋳型はどこ由来で誰が管理しているのだろう、ふとそう思った時とても変な気持ちになった。

なんでそんな得体の知れない窮屈な型に体を押し込めているのだろう。



「そういえば私もともと非常識な奴だったわ、お手上げ。
なんでいちいちヤキモキしなきゃいけないんだ。
二人して非常識なんだよ、認めるよ。」

肩をすくめ両手をあげてそう言うと夫は笑っていた。

もうヤケだ。

もしかしたら夫と言い合いもしたくない、自分も責めたくないってところからくる自己防衛なのかもしれない。

こんな態度にずっと身を委ねられたらきっと楽だろうなと思うけど案外そうでもないらしい。

夫が自分のマイペースさにおける周りとの軋轢に何も感じていないというわけではないからだ。

結局みんな自分の地平で周囲との摩擦に悩んだり苦しんだりしている。

驚くほど見えている世界が違うのだということを知りたいしわかりたい。

私が追いかけている「常識」は厳格なものではないしやすやすと逃げていく。



ちょうど5分ほど遅れて本堂に入るとお坊さんが説法していた。

どうやら待ってくれていたらしい。

お義父さんはじめ夫方の親戚は驚くほどあたたかく迎えてくれた。

遅れてきたことに心配すらしてくれたのだ。

そうすると不思議なもので、やはり遅刻はよくないなと猛反省。

開き直るのは違う、この優しさに甘えてはいけないぞ、と。

私は結婚相手の親戚に恵まれた。

本当にありがたい話だ。


なぜそこに座る。
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あのバンドに再会

2022年03月07日 | 音楽
TBSラジオの「ジェーンスーの生活は踊る」を聞いていたら、聞き覚えのある曲が流れてきた。

なんか知らんけど身体中の毛穴が開いてブワーっとテンションが上がる。

なんだっけこれ??

バンドもタイトルも思い出せないのに私の体の片隅に染み着いている。

ものすっごい知ってる。

すかさずシャザムで調べたらすぐ出てきた。

メンアットワーク!!

曲は『It's a mistake』。

これには笑った。

スーさんが曲終わりにいい選曲だと褒めていて、メンアットワークが名の知れたバンドだったことを初めて知った。



メンアットワーク(Men at work)は80年代に活躍したオーストラリアのロックバンドだ。

今調べたところによると83年にグラミー賞最優秀新人賞を受賞したらしい。

私とメンアットワークとの関係性はとても希薄だ。

自分でCDを取り出しプレイヤーに差し込んだこともなければ、インターネットで検索したこともない。

私が子供だったある時期に母が執拗に聞いていたのだ。

母は決まって「この軽さがいいんだよな」とか言っていた。

その言葉に影響されてか、ボブディランと比べたからか、私はメンアットワークをどこかで侮っていた。

軽薄さに魅力を感じるほど早熟でもなかった。

それがなによ、今聞くと「こんなによかったの?」と驚いた。

名曲だ!という感慨深い感じではなく、これ最高じゃん!と私まで軽くなれる感じ。

音の浮遊感とは別に案外メッセージ性もありそうではある。

この人たち好きだわ〜。

MVもふざけていて面白い。

それにしてももう15年くらい聞いていないのに覚えているものだね。

ラジオで選曲している高橋芳朗さんに感謝だな。



Down Under


It's a Mistake
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戦争について

2022年02月26日 | 社会
ここのところニュースを見るのが辛い。

24日、ロシア軍のウクライナ侵攻によって戦争がはじまってしまった。

これは遠い国の話、なのか?

違うよな。

命に危機が迫る恐怖を、大切な人を亡くすかもしれない恐怖を、

日常が脅かされ故郷を追われる悲しみを想像すると胸が締め付けられる。

この足元から地続きの世界で実際に起きていることだ。

政治が、イデオロギーが、宗教が、お金が人を殺す。

いったいなんなんだ。

アフガニスタンもパレスチナもシリアもミャンマーも全部この地面は繋がっている。

ずっと前から世界中で戦争が起きているのに、

国連の常任理事国に名を連ねる大国が戦争をはじめて再認識する。

そして社会がいかに危ういものに支えられているのかを実感する。

ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』で書いたように社会は神話という虚構で成り立っている。

国、倫理、法律、宗教、経済、企業、、、。

一方で固持し、他方で簡単に捨てる。

国を堅持するために、人という根元あるいは実存をないがしろにする。

神話が捻れていく。

ビデオニュースで廣瀬陽子さんは「プーチンはエモーショナルなメンタリティーで動いている可能性がある」と言っていた。

要はプライドの問題だ。

「ウクライナはロシアの一部なのだ」であるとか、

「世界がアメリカと中国ばかりに気を取られている、ロシアを無視するな」だとか。

それもつい1週間前の話だ。

この1週間で世界は変わってしまった。

私は歴史を知らなすぎる。

軍事評論家の小泉悠さんはラジオで「戦争が始まってしまった以上どんな道へ進んでも最悪の事態は免れない」と言っていた。

ロシアがウクライナを制圧し世界に暴力の効力を見せつけるにしても、

アメリカがウクライナ側に武器を渡して泥沼のゲリラ戦を展開するにしても。

どうか人々を守ってくれと、祈る先もないのに祈るしかない。



人とは一体なんなのだろう。

この期に及んで私はそんなことを頭の中だけで考えている。

個人が世界にコミットする方法はあるのだろうか。

フェイスブックで知り合いがウクライナの人々への寄付を呼びかけていた。

小説家の平野啓一郎さんはNPOほうぼくの理事長奥田知志さんとの対談で、

「日本人は寄付だけをすることに後ろめたさを感じやすい」と言っていた。

奥田さんは「社会には寄付は必要だ。寄付は社会参加の原点なのだ。」と常々おっしゃっている。



土曜日の昼下がり、窓からはランニングやサイクリングをする人たちが見える。

その風景は『ストレンジャーシングス』における平和な世界の裏側に張り付く負の世界を連想させる。

それよりもっと悪いのは、今起こっていることはこっち側の世界の話なんだということ。

何かに寄りかかるな、立ち続けろ、自分に言い聞かせる。

でも疲れたら少し休んでください。

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ブルースウイルスはどうしてるかな

2022年02月19日 | 日記
夫に頼まれて夜に大切な書類をポストに出しに行った。

自転車で行こうとも考えたが、ゆっくり夜風に当たりたい気分だった。

歩いても5分かからない場所だ。

家の密集地を抜けると急に空が広くなり、右上が少し欠けた月が見えた。

雲一つない晴れやかな月夜だ。



月は昔から私の妄想を刺激する。

実家は家から離れた場所にお風呂場があり、子どもの頃よくお風呂から出て外のベンチで涼んでいた。

月が出ている日は薄闇の中に畑や小屋がうっすら見えるのでそれをぼーっと眺めるのが好きだった。

雲が多くなってくると、雲の奥から魔法使いの集団が飛んでくるという妄想をよくした。

頭の中ではペジテの船からナウシカが飛び立つときのデデデデ、デデデデという音楽が鳴っている。

当時ハリーポッターの本が大好きで、この世界にただならぬ危機が迫っていると考えると胸が高鳴った。



月を見ているとこの世界が同時進行していることを実感することがよくあった。

アメリカの人は、ヨーロッパの人は、アフリカの人は、ブラジルの人は今頃何をしているだろう。

見知らぬ人の名もなき営みを想像するととても幸福な気持ちになった。

目の前の小さな日常から抜け出すおまじないや慰めみたいなものだったのかもしれない。

グーグルアースがある一点をフォーカスするように私の妄想も詳細がはっきりしていた。

パリの街角のオープンテラスで笑いあう人、同じ月の元ベッドに入る黒髪の女の人、

アメリカのガラス張りの邸宅の中で佇むブルース・ウイルス。

映画『キッド』の一場面だ。

『キッド』がどんな内容で面白かったのかどうかは全然思い出せないのに、

なぜかこの妄想をするときは決まってあのガラス張りの家を思い出す。

映画を観た当時確かにあの家に衝撃を受けた。

こんな家が存在するのかと驚き、将来アメリカでこんな家に住みたいと強烈に憧れた。

でもガラス越しのブルース・ウイルスはうつむき加減だったんだよな。

当時はそのことなど気にもかけなかったけど。



右上が少し欠けた月を見て、久しぶりにブルース・ウイルスのことを考えた。

今頃彼はどうしているだろう。

私は結局アメリカにもガラス張りの家にも住んでいない。

今日もそれぞれの場所で営まれているそれぞれの暮らしのディティールを想像して自分の位置を確かめる。

子どもの頃と少し違うのは、その妄想の中に苦しみや悲しみが多く含まれていること。



昔は「ウイルス」で通っていたのに久々に調べたら日本語表記が「ウィリス」になっていた。

英語の発音により忠実に従ったのだろうけど、私の見てきた彼はウイルスだからそのまま行こうと思う。

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