歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

エンドレス・ドビュッシー

2015年02月03日 | 音楽
クラシックに関してはほとんど無知である。

ショパンとかバッハとかヴェートーヴェンとか、

本当に有名な作曲家の名前を知っているくらいだ。



もともとの音楽の聞き方も結構適当でこだわりがない。

いいと思えば聞くし、好きじゃなければ聞かない。

気になれば調べるけど、名前と曲しか知らないアーティストもたくさんいる。

ジャンルは関係なく、クラシックも例外ではない。

でもやはり敷居が高いイメージがありBGMに流すくらいの関係しか持ってこなかった。

出会わなければ能動的になるのも難しい。



最近エンドレスで聞いているのが、ドビュッシーの「Clair De Lune」。

邦題は「月の光」、1890年制作のベルガマスク組曲の第3曲である。

ドビュッシーの曲の中でもとりわけ有名で、親しみやすい曲想で知られているらしい。



ある日なんとなく静かな曲で作業がしたかったので、

iTunesの中にあるクラシック曲をランダムに流していた。

そしてある曲がかかった瞬間、作業部屋の空気が一変したのだ。

カップが、スケッチブックが、本が、筆箱が一瞬にして

瑞々しさを帯びそれらが何かを訴えてくる。

何も分からないまま私は感情の深淵に沈吟する。

それがまさにドビュッシーの「月の光」であり、奏者フジコヘミングであった。



それからというもの飽きる事なく思い立ったらこの曲を聴いている。

何か大切なものを思い出させてくれる様な、

私が大切にしているものを守ってくれる様な、

それでいて儚くいつ崩れてもおかしくない安寧を与えてくれる。



他の人の演奏を聴いた事がないから今はこの曲が好きだという印象だけれども、

他の人の演奏を聞いてやはりフジコ・ヘミングの演奏が好きだっていう風になるのも面白い。

クラシックの扉が数センチ開いたかな。


電車の中から夕日が見えた。
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ノー・タイトル

2015年02月03日 | 日記
悲しみの連鎖。

2月1日の朝から流れていたニュース。

丸一日そのニュースに触れる事ができなかった。



後藤健二さん解放の誤報が流れたりしたのもあるけれど、

きっと彼は助かるのだと安易に考えていた。

FacebookなどのSNSで流れてくる果てのない情報。

その中で少しだけ見えてきた後藤健二さんという一人のジャーナリストの生き方。

自費で戦地に赴き、弱き者たちの生活を命がけで伝えてきた人。



「自己責任」とか「自業自得」という言葉はあまり好きじゃない。

まして人の命に関わる事で自業自得なんてことはありえない。

亡くなっていい人なんていない。



悲しみは連鎖している。

戦いの始まりを探しても見当たらない。

武器を使っているのは過激派組織も先進国の部隊も同じこと。

武器を持ち続ける限り戦いは終わらない。



今日は国会で共産党の小池晃さんがその事について質問していた。

湯川さんや後藤さんが拘束されている事を知っていたのに、

なぜ1月17日カイロでの演説でイスラム国対策としての2億円の資金提供を表明したのか。

人の命に関わる事なのになぜもっと慎重にできなかったのかという趣旨だった。

願わくば、もっと慎重にしてくださいと言わんばかりの鬼気迫る質問だった。

安倍首相の返答は「テロに屈してはならない」の一点張り。



予算にないお金を国民の是非を問う事なくテロ対策として外国に提供。

背景にアメリカがいる事は誰が見ても分かる。

被災地への支援もままならない今、内側に目を向けなければならないのは自明だ。



日本がかかえる最大の問題はアメリカの軍産複合体と

巨大バイオ産業を天辺においたアメリカ式のヒエラルキー。

がんじがらめにされた構造的資本主義の鎖をほどかなければならない。

斧ではなく鍵を探そう。



それは砂漠の中で一本の針を探す様な途方ない話かもしれない。

でもそこに目を向けなければもう何もかもがめちゃくちゃになってしまう。



話をしよう。

怒りは怒りしか生まない。



今本当に大事な事は「テロに屈しないこと」ではないはず。

どうか後藤さんと湯川さんの命を、この戦争に利用しないでください。

どうか中東で生きる人一人の命を軽んじないでください。


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