経済至上主義、たまにこの言葉を見るけれど正規の言葉かどうかは知らない。
意味は、「経済的利益が最優先される社会」という感じだろう。
国策とかそう言ったレベルでこの言葉を謳ってるかどうかは知らないけれど、日本はその気が強い。
資本主義社会は少なからず経済的利益を追い求めなければ成り立たない。
戦後70年間、まっすぐ突き進んできた経済の形は今や日本の隅々にまで浸透している。
多くの職場では効率性・利便性というものが最優先され合理的でないものは排除されてきた。
いつでも仕事ができる人は賞賛され、要領の悪い人や頑張らない人は蔑まれてきた。
好み云々は置いておいて私もこの形には慣れていたし、あまり疑問を持った事がなかった。
なんといってもそれがお金を生み出す一番の方法だからだ。
しかし近頃そういう考え方に疑問を持つ様になってきた。
ここでの問題点はこの社会の仕組みというより、経済至上主義的思考が蔓延しいつしかそれが絶対的価値観として人々に重宝される様になってしまったこと。
何かを崇める様に、何の疑いもなくその理念を信じること、あるいはそれを信じるが故にそれに当てはまらない価値観を認めないこと。
資本主義社会において経済的利益を追い求めた結果、人々は経済至上主義を妄信することになった。
大げさな表現に聞こえるかもしれないけれど、身近な話を例にとれば誰でも思い当たるだろう。
職場において優秀な人頑張る人がいる一方でできない人頑張らない人(ひと事ではないが以後そこは考慮しない)というのは必ずいる。
「できない」と「頑張らない」とでは少し印象も違うだろうけどここでは曖昧なままにしておく。
その「できない」や「頑張らない」というのはもちろん経済的利益を生み出すか否かという判断基準に基づく。
そしてそういう人は他人から冷淡な視線を受けることになるだろう。
誰しもが誰かができない事に文句を言った事があると思う。
しかし、できた方がいい頑張った方がいいというのは誰が決めたことなんだろうか?
資本主義社会においてこれが可笑しい問いであることは重々承知だ。
そもそもこのことを考えるきっかけになったのは、幼なじみとの会話だった。
当時幼なじみは東京で荷揚げ屋の仕事をしており、その仕事を始めた当初はてきぱきと要領よく働く人、または頑張る人に一目を置いていたらしい。
そう言う人は職場の人々から信頼されており、一般的に善とされる。
しかし時間が経つに従い、仕事ができない人・頑張らない人の方に興味がわく様になったと言っていた。
頑張るというのは普通の事で、頑張らないというのは勇気のいることだからとかそういった理由だった気がする。
幼なじみのこの考え方が面白くて、その後もそれついて何度か考えた。
だからといって仕事ができないと言われる人を擁護したいわけではない。
今考えるのは、あまりにも当たり前に享受してきた一方的な価値観をこれからも疑う事なく信じるのかという自分自身への問いである。
世界は今を生きる人間の数だけあると思っている。
見えているものが全く違うのに、人に何かを押し付ける事ができるだろうか。
そんな事をいちいち考慮したら何も言えなくなるね。
もちろん言いたいことは言ったらいいけど、人と違うからという理由で誰かの存在を踏みにじることはしたくない。
善し悪しの二極化はとても危険だ。
コップのふちこさんはやっぱりコップのふちに座って私に問いかけてくる。
「当たり前ってなんですか?」
「仕事は頑張るべきものなのですか?」
すみませんが、わかりません。
意味は、「経済的利益が最優先される社会」という感じだろう。
国策とかそう言ったレベルでこの言葉を謳ってるかどうかは知らないけれど、日本はその気が強い。
資本主義社会は少なからず経済的利益を追い求めなければ成り立たない。
戦後70年間、まっすぐ突き進んできた経済の形は今や日本の隅々にまで浸透している。
多くの職場では効率性・利便性というものが最優先され合理的でないものは排除されてきた。
いつでも仕事ができる人は賞賛され、要領の悪い人や頑張らない人は蔑まれてきた。
好み云々は置いておいて私もこの形には慣れていたし、あまり疑問を持った事がなかった。
なんといってもそれがお金を生み出す一番の方法だからだ。
しかし近頃そういう考え方に疑問を持つ様になってきた。
ここでの問題点はこの社会の仕組みというより、経済至上主義的思考が蔓延しいつしかそれが絶対的価値観として人々に重宝される様になってしまったこと。
何かを崇める様に、何の疑いもなくその理念を信じること、あるいはそれを信じるが故にそれに当てはまらない価値観を認めないこと。
資本主義社会において経済的利益を追い求めた結果、人々は経済至上主義を妄信することになった。
大げさな表現に聞こえるかもしれないけれど、身近な話を例にとれば誰でも思い当たるだろう。
職場において優秀な人頑張る人がいる一方でできない人頑張らない人(ひと事ではないが以後そこは考慮しない)というのは必ずいる。
「できない」と「頑張らない」とでは少し印象も違うだろうけどここでは曖昧なままにしておく。
その「できない」や「頑張らない」というのはもちろん経済的利益を生み出すか否かという判断基準に基づく。
そしてそういう人は他人から冷淡な視線を受けることになるだろう。
誰しもが誰かができない事に文句を言った事があると思う。
しかし、できた方がいい頑張った方がいいというのは誰が決めたことなんだろうか?
資本主義社会においてこれが可笑しい問いであることは重々承知だ。
そもそもこのことを考えるきっかけになったのは、幼なじみとの会話だった。
当時幼なじみは東京で荷揚げ屋の仕事をしており、その仕事を始めた当初はてきぱきと要領よく働く人、または頑張る人に一目を置いていたらしい。
そう言う人は職場の人々から信頼されており、一般的に善とされる。
しかし時間が経つに従い、仕事ができない人・頑張らない人の方に興味がわく様になったと言っていた。
頑張るというのは普通の事で、頑張らないというのは勇気のいることだからとかそういった理由だった気がする。
幼なじみのこの考え方が面白くて、その後もそれついて何度か考えた。
だからといって仕事ができないと言われる人を擁護したいわけではない。
今考えるのは、あまりにも当たり前に享受してきた一方的な価値観をこれからも疑う事なく信じるのかという自分自身への問いである。
世界は今を生きる人間の数だけあると思っている。
見えているものが全く違うのに、人に何かを押し付ける事ができるだろうか。
そんな事をいちいち考慮したら何も言えなくなるね。
もちろん言いたいことは言ったらいいけど、人と違うからという理由で誰かの存在を踏みにじることはしたくない。
善し悪しの二極化はとても危険だ。
コップのふちこさんはやっぱりコップのふちに座って私に問いかけてくる。
「当たり前ってなんですか?」
「仕事は頑張るべきものなのですか?」
すみませんが、わかりません。