「知らぬが仏」
なんと的を得た言葉だろうか。
最近この言葉が妙に胸に響く。
例えば誰かの悪意、
例えば過去の自分の失敗、
例えば犬の糞を踏んでしまったこと。
飽くなき好奇心とそれに伴う科学技術の発展は、空っぽの満腹感を人々に与えた。
そこかしこに情報が溢れ、地球の反対側のニュースであろうと一瞬で知ることができる。
皆ネットの中の異次元に魅了され、その世界の住人まで現れるようになった。
このような高度情報化社会はどこまでも膨張し続け留まるところを知らない。
私が小学6年生になった頃、家に初めてのパソコンが届いた。
丸っこくて可愛らしい青色のMacだった。
それからネットという夢の世界を知り、私自身も夢中になった。
そして現在、ソーシャルネットワーク(SNS)が発達し人と人とを繋ぐ架け橋となっている。
FacebookやTwitterがその先駆けと言えよう。
今やたくさんの人が画面の中で繰り広げられる言葉の往来に取り付かれているかのようだ。
私もFacebookやTwitterの利用者のひとり。
画期的なシステムはアナログ志向の私でさえ楽しく利用出来る。
きっといろんな人に合った有益な使い方があるはずだ。
私にとってSNSは人間関係の円滑化というよりも情報収集の手段としての役割が大きい。
だから今まで大事な情報を取りこぼさないよう、まめにチェックしていた。
しかし、最近なかなかそれらを開く気にならない。
というのもあまりに情報量が多く、言葉の海に溺れそうになるからだ。
文字で人の感情に触れれば触れる程、「そこまで知る必要があるのか」という疑念が大きくなっていく。
今まで知らなかった事なのに、
今まで知らなかった事だから、
今まで知らなかった事だけど…。
知らなければ生まれなかった憎しみだってあるだろう。
しかし知ることで得た喜びもあるのだから難しい。
デカルトからはじまった科学的思考は全てのものを素粒子まで細分化し、記号化し理解しようとしている。
はて、今まで知り得なかった細菌の存在が高機能顕微鏡により視覚化されたが故に、
今まで全く気にされなかった随所にわたり「殺菌」という言葉が叫ばれるようになった。
まるで自ら悪をつくり退治することで正義を奉る安っぽい自作自演だ。
なんだか変な感じがするのだ。
これを嫌な予感というのかな。
当初の好奇心を忘れてしまえば、知るという事が「満足」ではなく「勘違い」や「驕り」をよびよせる。
多くを「知る」ことは「分かる」にすりかわり、いつしか「全てを理解できる」と錯覚してしまう。
感覚的な話だが、知り得ないことや分からないことをそのままにしておく勇気も必要だと思う。
曖昧であることは人と人、あるいは人とそうでないモノとの間でクッションのような役割を果たす。
梶田隆章さんがニュートリノに質量があることを発見しノーベル賞を受賞したニュースは真新しいが、
そういう話に心からワクワクするのは梶田さんの笑顔が子どもみたいだからかもしれない。
頭にばかり刺激を与えて、麻痺しはじめた脳。
最近書いたメディアリテラシーの話に繋がるかもしれないが、毎分毎秒増え続ける膨大な情報を前に、
いかに冷静でいられるかということがとても重要になってくる。
それは中立や客観性を保つということではなく、情報との向き合い方の話。
ネットの膨張は既に人間がコントロール出来ないところまできてしまったのではないだろうか。
基本的に発信は無責任な行為だから、特に受信する際に私たちの真価が問われるというわけだ。
垂れ流された情報を浴び続ければ、本当に必要な情報も取りこぼしてしまう。
私自身も多くの矛盾を抱えながらこの問題と対峙していかなければならない。

余談だが、父は昔信号機に従うのが嫌いだった(今はわからない)。
子どもの頃、理由を尋ねたら「なんで機械の命令に従わなきゃいけないんだ。自分で考えられるんだから自分で考える。」と言っていた。
やっていることはめちゃくちゃだが、言っていることは大事なことのような気もする。
何も疑わず与えられる環境を与えられるままに受け取っていると、考える力が衰退してしまう。
情報に関しても同じこと。
なんと的を得た言葉だろうか。
最近この言葉が妙に胸に響く。
例えば誰かの悪意、
例えば過去の自分の失敗、
例えば犬の糞を踏んでしまったこと。
飽くなき好奇心とそれに伴う科学技術の発展は、空っぽの満腹感を人々に与えた。
そこかしこに情報が溢れ、地球の反対側のニュースであろうと一瞬で知ることができる。
皆ネットの中の異次元に魅了され、その世界の住人まで現れるようになった。
このような高度情報化社会はどこまでも膨張し続け留まるところを知らない。
私が小学6年生になった頃、家に初めてのパソコンが届いた。
丸っこくて可愛らしい青色のMacだった。
それからネットという夢の世界を知り、私自身も夢中になった。
そして現在、ソーシャルネットワーク(SNS)が発達し人と人とを繋ぐ架け橋となっている。
FacebookやTwitterがその先駆けと言えよう。
今やたくさんの人が画面の中で繰り広げられる言葉の往来に取り付かれているかのようだ。
私もFacebookやTwitterの利用者のひとり。
画期的なシステムはアナログ志向の私でさえ楽しく利用出来る。
きっといろんな人に合った有益な使い方があるはずだ。
私にとってSNSは人間関係の円滑化というよりも情報収集の手段としての役割が大きい。
だから今まで大事な情報を取りこぼさないよう、まめにチェックしていた。
しかし、最近なかなかそれらを開く気にならない。
というのもあまりに情報量が多く、言葉の海に溺れそうになるからだ。
文字で人の感情に触れれば触れる程、「そこまで知る必要があるのか」という疑念が大きくなっていく。
今まで知らなかった事なのに、
今まで知らなかった事だから、
今まで知らなかった事だけど…。
知らなければ生まれなかった憎しみだってあるだろう。
しかし知ることで得た喜びもあるのだから難しい。
デカルトからはじまった科学的思考は全てのものを素粒子まで細分化し、記号化し理解しようとしている。
はて、今まで知り得なかった細菌の存在が高機能顕微鏡により視覚化されたが故に、
今まで全く気にされなかった随所にわたり「殺菌」という言葉が叫ばれるようになった。
まるで自ら悪をつくり退治することで正義を奉る安っぽい自作自演だ。
なんだか変な感じがするのだ。
これを嫌な予感というのかな。
当初の好奇心を忘れてしまえば、知るという事が「満足」ではなく「勘違い」や「驕り」をよびよせる。
多くを「知る」ことは「分かる」にすりかわり、いつしか「全てを理解できる」と錯覚してしまう。
感覚的な話だが、知り得ないことや分からないことをそのままにしておく勇気も必要だと思う。
曖昧であることは人と人、あるいは人とそうでないモノとの間でクッションのような役割を果たす。
梶田隆章さんがニュートリノに質量があることを発見しノーベル賞を受賞したニュースは真新しいが、
そういう話に心からワクワクするのは梶田さんの笑顔が子どもみたいだからかもしれない。
頭にばかり刺激を与えて、麻痺しはじめた脳。
最近書いたメディアリテラシーの話に繋がるかもしれないが、毎分毎秒増え続ける膨大な情報を前に、
いかに冷静でいられるかということがとても重要になってくる。
それは中立や客観性を保つということではなく、情報との向き合い方の話。
ネットの膨張は既に人間がコントロール出来ないところまできてしまったのではないだろうか。
基本的に発信は無責任な行為だから、特に受信する際に私たちの真価が問われるというわけだ。
垂れ流された情報を浴び続ければ、本当に必要な情報も取りこぼしてしまう。
私自身も多くの矛盾を抱えながらこの問題と対峙していかなければならない。

余談だが、父は昔信号機に従うのが嫌いだった(今はわからない)。
子どもの頃、理由を尋ねたら「なんで機械の命令に従わなきゃいけないんだ。自分で考えられるんだから自分で考える。」と言っていた。
やっていることはめちゃくちゃだが、言っていることは大事なことのような気もする。
何も疑わず与えられる環境を与えられるままに受け取っていると、考える力が衰退してしまう。
情報に関しても同じこと。