歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

雪やこんこん

2018年01月23日 | 日記
年明けに祖母が亡くなり2週間ほど実家に帰っていた。

明るい葬式だった。



真冬の実家に帰るのは久しぶりだ。

実家のある北陸の雪は大雪警報が出される関東のそれとは全く形相が異なる。

最近は昔程多くないみたいだけど、それでも積もるときは一晩で積雪50cm、70cmという世界だ。



帰省中に北陸地方も丁度大雪に見舞われて「これぞ冬」という景色を拝むことができた。

朝玄関の扉を開けると道がないのだ。

近所の寺の留守に犬のアキの散歩を任せられていたから雪かきしながらアキの元へ向かうのだが、

約200メートル先にある寺の本堂にたどりつくまで1時間半以上かかった。

秋田犬のアキには大雪などなんら問題ないようで、こっちまで嬉しくなるくらいはしゃいでいた。


秋田犬のアキ。


関係ないけど実家のイタリアン・グレイハウンドのカント。




改めて真っ白な雪景色はいいものだと思った。

寒いのになんだかほっこり。


実家の二階の窓から見た新雪。


アキの小屋から見た新雪。


アキの小屋から見た朝日。


実家の二階から見た朝日。



一歩外に出れば一面真っ白だけど、

家の中では薪ストーブを囲んで家族や近所の面々と団らんというのがいいですな。


こてつ。
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4年ぶりの幻

2018年01月23日 | 日記
4年ぶりに都心の交通網をパンクさせた大雪は1日も待たず溶けてしまった。

昨日の夜に夫婦で敢行した雪かき合せんはあまり意味がなかったらしい。

本格的な雪だるまをつくろうと息巻いていたが、

陽に当たり水分を含みすぎた雪はもうそれには向いていない。

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台無しだわ

2018年01月23日 | 音楽
純粋に音楽を聴くということは意外と難しい。



例えばここに一つの曲があったとして、それを聴くにあたり私たちは様々な情報を受け取っており、

聴くという行為の1割くらいはその情報を得ることに置き換わっている。

ジャンル、年代、肩書き、ルーツ、作者、メジャー/マイナー、評価、アーティストのバイオグラフィー、客層。

ペタペタと貼られたそのラベルをかき分けてやっとこさ曲本体に出会えるというわけだ。



カテゴリー化の必要性は十分わかっているつもりだ。

もしこの世に存在するすべての曲が散らばったビーズのように他とつながりを持たない個として散在していたら、好きな音楽を探すのは一苦労だ。

好きな曲に出会うまで総当りするしかないというのは合理性を求める我らにはちと酷な話。

だからカテゴリー化することで「音楽」を整理整頓し、なんとなく聞きたい曲をわり合い簡単に探し出せるようにしているし、自然とそうなっている。

(実際は音楽が簡単にカテゴリー化できるような明確なものかは疑わしい。)



それはそれとして、ただラベルを無視して単純に曲を聴くという行為に対しどこかで不安を感じるのもまた然り。

「曲 対 自分」というシンプルな構図に慣れておらず、どうしても身辺調査をしてしまう。

それを積み重ねることで、言葉で構築されたうんちく音楽ができあがるというわけだ。



しかし、難しいとはいえ純粋に曲と出会うこともある。

それは大抵自分の意思とは全く関係のない唐突な出会いだったりする。

ラジオや映画で流れた曲に一目惚れならぬ一耳惚れしたとき何とも言えない晴れやかな気分になるが、まさに純粋な「対曲」構図を体現しているといえる。

そしてもう1パターン、何にも左右されない圧倒的名曲に出会った時全てのしがらみを取り払って純粋に曲を聴くことができる。

誰もが納得せざるを得ない光り輝く名曲が確かにある。

ここ数年で言えばMark Ronsonの「Uptown Funk ft. Bruno Mars」やSam Smithの「I'm Not The Only One」がそれに当たると思う。

曲を目の前にしてメジャーとかミーハーとかそういうことがいかにくだらない基準であるかを思い知らされる。

自分がいかにちっぽけな人間かを思い知らされる。

何回効いても新しい。







つい先日自分のもやもやした気分を整理したくてSam Smithの「I'm Not The Only One」を流していた。

もやもやも心の澱みをつくっている原因も幻想ならば、思いっきり泣いて洗い流してしまえばいい。

そういう時に手助けしてくれるのは音楽だ。

曲に身をゆだね、頭を空っぽにする。

体に溜まったおりが少しずつ血管を伝って上ってくる。

きっとそれが涙に変わって目から溢れ出すのだ。

ああなんてこの世界は…

ーゲプッ



ん?

隣を見ると夫Kが間の抜けた顔でこっちを見ている。

途端に体中から涙じゃなくて笑いがこみ上げてきた。

1メートルの距離を隔てて方や悲しみのシチュエーションに浸り、方や夕食を食べ過ぎてゲップを吐き出す。

もっと大きくひっくるめて丸ごと幻想だわ。

そこから引き上げてくれるのは、馬鹿みたいな日常かもしれない。
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