歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

Louisiana

2011年06月05日 | 音楽
今日は日曜日。
今日の神奈川は曇り。
昨日の洗濯物は湿り気のとれぬまま、また部屋の中に戻され、梅雨独特のじっとりした空気を強調する。

一人で街を歩いた。
どこへ行ってもあくまで横浜、人が次から次へと現れる。
その姿をぼーっと眺めた。

本当は同じ人がただ右へ行ったり、左へ行ったりしているだけで、実質的な数ってのはそんなに多くない。
みんな意志のないまま、誰かに指示されて同じ場所を右往左往している。
ただ誰かが都会をつくらなければならないから、そうせざるを得ないのだ。
彼らについていけば分かるはずだ。
その先には何もないと言う事が。
ある地点までいくとみんなそのままUターンして帰ってくる。

そんな妄想をはたらかしてみる。
そこでショート・フィルムが創れそうだと考える。
タイトル「大都会創造大作戦」。
街を都会らしくするために、同じ所をぐるぐる回ってお給料をもらう仕事。
そんな人が増えすぎて、都会が空っぽの場所になっていく。

そうやって自分の世界に浸っていると、耳にはめていたイヤホンを通してiPodから「Louisiana」が流れてきた。
Underwordのわりあい新しい曲である。

その曲が流れると同時に、歩いていた人々の動きがスローになる。
時間が、空間が、自分さえもが静止する。
まるで目の前に広がる風景が、映画か絵かそんな芸術作品のように見えてくる。
そうした画が、嫌味のない素直な形で自分の中に入ってくる。

そしてなんだか哀愁が漂うのだ。
「Louisiana」は私にとってそういう曲だ。
Underwordの曲はElectronicaやDanceなんてジャンル付けされるけど、そんなジャンルの枠に収まらない不思議な力を持っている。

「Louisiana」が入っているアルバムBarkingにはいい曲がいくつも入っている。
私が個人的にお勧めするのは、「Always Loved A Film」と「Diamond Jigsaw」かな。

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eiga.『モーターサイクル・ダイアリーズ』

2011年06月05日 | 映画
たんぽぽのわがまま映画批評No.9
『モーターサイクル・ダイアリーズ』配給アメリカ/2004
監督:ウォルター・サレス
製作総指揮:ロバート・レッドフォード他
脚本:ホセ・リベーラ
音楽:グスターボ・サンタオラヤ

キャスト:ガエル・ガルシア・ベルナル(エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ )、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ(アルベルト・グラナード)、 ミア・マエストロ

映画に関して、最近本当にはずれない。
この映画は、いろんな人に見てほしい。
おおげさな表現もなく、シンプルな映画だけど響くものは大きい。

原作はエルネスト・ゲバラの若き日の南米旅行記『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』。
後のキューバの革命家チェ・ゲバラである。

「これは偉業の物語ではない。
同じ大志と夢を持った物語である。」

エルネストとアルベルトの旅はちんたらかんたら平和にはじまる。
2人はおんぼろバイク(ポデローサ号)にまたがり、アルゼンチンからチリ、ペルーを回り南米の最北端ベネズエラを目指す。
苦難に強いられるその長旅は、2人の青年を少しずつ変えていく。
現実の世界を自分の目で見て、エルネストのまっすぐな目はその深さを増していく。
女のことばかり考えて旅をしていた頃が遠い昔に思えるのは、それがもう戻る事のできない場所だからだろうか。

優しくバカ正直であったエルネストが、少しずつ統率者としての頭角を現してくる姿は得も言わせぬ説得力がある。
ペルー時代、大きな川を泳いで渡りきり川で隔離された患者達のもとへいく象徴的なシーンがある。
患者達は彼をたたえるように、彼の後に続く。
じわじわと静かに心に語りかけてくる。

「僕らの視野は狭く偏りすぎていただろうか。
僕らの結論は頑すぎたのか。
かもしれない。」

この映画は、チェ・ゲバラの大いなる人生の序章である。
淡々と進むロードムービーだが、だからこそ若かりし彼の余韻にいつまでも浸っていたくなる。
映画のすべてが印象的だった。
エルネスト扮するガエル・ガルシア・ベルナルの誠実な演技とやさしい笑顔、アルベルト演じるロドリゴ・デ・ラ・セルナのひょうきんで哀愁漂う後ろ姿と最後の顔。
忘れられない。



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見る力

2011年06月04日 | 日記
昨日、相方マツゲ君と夜道を歩いていた所、いきなり相方の様子がおかしくなった。
目を見開き、大口を開け、その口を手で押さえている。
歩き方もフラフラ。

彼は慢性的な頭痛持ちで、頭が痛くなったときはもうどうしようもない。
それ以外にも、彼の体はなかなかにデリケートなのだ。
以前からそんな感じだったので、今回も特に驚かなかった。

「どうしたん?頭痛いんか?具合悪いんか?」
「ア、ア」
「大丈夫か?」
「今、福原美穂トスレ違ッタ。」
「…。」

彼は興奮しすぎてもはや片言。
福原美穂は若き有名なシンガーソングライター。

私としては、彼女に対して背の高いおしゃれな女の人だなという印象だけで、顔まで見ていなかった。
しかし私の場合は顔をちゃんと見たところで、福原美穂とは結びつけられなかったと思う。
よくある話だが、考えもしない場所に知り合いが突然現れてもなかなか認識できないという事がある。
つまり、自分の想定しうる範囲外で物事が起きると、判断に少々時間がかかるのだ。
すれ違うだけの短い時間では、「見る→考える→認識・判断する」ための時間には短すぎる。
「道端で有名人と出会う」なんていうシチュエーションは、もともと私の頭の中には用意されていないわけで、そのため大抵は気づくことなくやり過ごす。

しかし、彼は違う。
今まですれ違った著名人を言い当てたこと、数多。
キャスター、芸人、俳優、アーティストとジャンルを隔てない。
大人計画のマイナーな俳優に握手を求めて、本人にとても驚かれたという話もあるくらい。

私は、彼のその一連の行動を突出した能力なのだといいきかせ自分を納得させる。
なぜかって、私には到底不可能な所行だからである。
私が「特に有名人に興味ないからね。」と言い訳した所で、彼もそこまで興味がないのである。
ひとついえるのは、彼は仕事上有名人をよく目にする立場にいる。
そのため、有名人といえどそこまで遠い存在とは思っていないのかもしれない。

私は並以上に視野が狭いとよくいわれていた。
大学時代は後輩の挨拶をしかとしたと、何度となく後輩自身からクレームをいただいた事もある。
友達にもお前の視野の中に入るのに苦労すると言われたし、いつも自分の世界に入っているとも言われた。
もっとアンテナはって広く物事を捉えないといかんね。
コメント (2)
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否決

2011年06月02日 | 社会
内閣不信任案が今否決された。
小沢氏欠席。
鳩山氏反対。
賛成152、反対293で管総理当面続投が決まった。
自民党議員は民主党に対し「茶番だ」と批判するが、彼らも含めての茶番だろう。

これは政治家達の自己満足なのでは。
今の内閣の対応が遅いというのは否めないだろう。
確かにだめな所もたくさんあるわけだし、はなから今の政権を擁護するつもりはない。
ただやり方が気にくわない。

今日は民事連の第4回勉強会があったんだとか。
彼らの事はそこまで知らないが、そこに参加していたらしき河野太郎が「民事連、第四回勉強会。政局がいろいろある中で、今日来ている民主党議員は本物だ。」とツイートしていた。
発言一つとっても面白い、彼は自民党にして党なんてあまり関係ないところにいるわけだ。

それにしても、政治家の議論は全体的に非建設的で嫌になる。
今、TBSでぴーちくぱーちく管政権をやめさせろと頭ごなしにいう自民党議員に対して、
キャスターや評論家が「管政権を辞めさせるのが目的じゃなくて、今の状況をどう乗り越えていくかが重要なのでは?」
と半分なだめられる感じで説かれている。
まぁもちろん聞く耳持たずだが。

これで自民党に対する批判も増えるだろうが、同じように民主党内の分裂に関しても批判の目は向くだろう。
何をやっているんだ。
本当ばかばかしい。


そういえば、6月27日にな、なんと田中優と飯田哲也とFUNKISTのトークライブが行われるらしい。
場所は下北沢シェルター!
入場料は2000円。
これは行かねば!
これこそ本当の意味で建設的な議論が期待できる。

<速報!>飯田哲也×田中優×FUNKIST!@下北沢6・27←ここから


また今夜22時55分からのNHK「爆笑学問」のテーマは「間違いだらけのエネルギー選び」。
出演は飯田哲也さんと室山哲也さん。
もともと「爆笑学問」は好きなので楽しみ。
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あくまで政治家

2011年06月01日 | 社会
バカな考え方かもしれないけど、なんで政治は政治家なんかに任されているんだろうか?
なんで政治家にあんなに権限があるんだろうか?
政治がこんなにだめなのは、政治家を選挙で選んだ我々の責任なんだろうか?
文句をいうなら自分が政治家になるべきなのか?

誰に責任を押し付けるにしても、誰がこれからの社会を変えるにしても、日本の社会構造は複雑になりすぎた。
なにが民主主義なものか。
だからといって、現状を受け入れただうなだれているわけにもいかない。

今の混沌とした時代において、インターネットを利用する人しない人の間には大きな壁がある。
それは、ツイッターなどで田中優さんが言っていた事だ。
3.11の大震災を受けて、今日本ではネットを中心としメディア革命なる動きが生まれ始めている。
今や多くの若者は、テレビよりネットを主流の情報源としているといえよう。
そうした環境下で、多くの真摯なジャーナリストが自身の信じる情報をネット配信している。
そこからエジプトのFacebook革命(大げさかな)のような、おもしろい何かが始るかもしれない。

以前にも書いたが、今回の原発問題などについてネットとテレビの発信する情報の温度差には違和感を覚える。
少しずつテレビや新聞もまともな情報を流すようになってきたといわれているが、私は未だに全くもって信用できないでいる。
極端な考え方かもしれないけど、最初からテレビなんてヤラセだと思っていた。
だからやはりテレビは何かを知る場所ではない。
(もちろん例外もあるが。)
あんなにも影響力があるというのに。

とにかく、私も及ばずながら自分の信じる情報を発信していきたい。
田中優さんはウィングを広げろという。
また、今日のツイッターでこうも言っていた。
「僕は2050年の子孫たちに「こんな良い社会になったのは2011.3.11がターニングポイントだった」と言ってもらいたい。その選択権は我々の手元にしかなく、何を選択するかによって子孫たちの未来は決まる。僕は子孫のために生きたい。」
自分一人に何ができる?
でも、ただうなだれて文句いうばかりじゃきまりが悪い。

ところで、政治家はなんであんなに力を持っていながら、国会で足の引っ張りあいしかできないのだろうか?
今日ニュースで明日内閣不信任案が国会に提出されるとかされないとか言っていた。
しかもその戦陣を切っているのが、小沢と鳩山。
こんなときに彼らは何を考えているのだろうか。
こんなときに国民に選挙をさせるというのだろうか。
小沢さんが「国民が期待した民主党を取り戻す」とか言っていたそうだが、正直な所、彼自身がその期待を裏切った中心人物ではないか。
管さん云々の話ではない。
本当にどうにかしたいと思うなら、全力で協力することとかできないものだろうか。
今の政治は文句をいう事しかできない。
政権や首相が変わったところで、誰が今に変わる政治をつくる事ができるのか、甚だ疑問だ。

国会もひどい。
ちょっと前の国会でのもっぱらの話題は、3月12日の東電福島第1原発への海水注入中断問題、あるいはそれを管さんが指示したのか、他。
はっきり言って、時間がもったいない。
福島や他の被災者も呆れていた。
本当に彼らは雲の上にいるのだと感じる。
国民の声など届かないのだ。
彼らはいつ見ても冷静でない。

やる気のある政治家が党を超えて、一緒にがんばってくれないものかな。
そのためには日本の政治構造は複雑になりすぎた、か。

なぜいつも影響力を持っているものは、地位や権力に左右されてしまうのだろうか。
これはある種宿命のようなものなのか。

地道にウィングを広げていくしかない。
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