花と徒然なるままに

四季の移り変わりは植物が一番感じさせてくれます、
少しでもそれに触れられたらと思っています。

高校時代の日記が出て来た!(1960年~62年)

2022-01-11 | 雑記
今年に入り叔母(正確には叔父の配偶者)が亡くなった報に接しました。
娘さんの介護も虚しく、納骨は暖かくなってから田舎のお墓に納めるようです。
とうとう私の近しい親戚には、私よりも年長者はいなくなりました。
昨年も先輩、知人で鬼籍に入った人も多く、何だか難病指定を受けている自分が
残っているのが、申し訳ないような気持ちになる時があります。

21/11/22に終活についてブログをのせました。
21/4/2に55歳で備忘録のことを、
21/1/27に小学校3年生の時の”花ごよみ”の詩集を、
今回は整理している中から高校時代の日記ノート3冊が出て来ました。
実はこの日記を書いた記憶は全くありません。全て忘れていました。
高校1年の時の11月1日から書き始めていました。
ノート3冊で、最初の3カ月位は毎日書いていたようですが、その後は休んだり、
書き続けたりしていたようです。
1962年の虎年の書き出し部分です。(60年前の話です)
流石に3月に卒業したら東京に行くことになるので、大事な年になる覚悟を
していたようです。(他人事のようにいいますが)

細かい字でびっしりと書いてあるので、学校の行事の事や友達とのこと等で、
計算尺検定試験があったり、映画「戦場にかける橋」「尼僧物語」や冬スポーツでは、ザイラー等。
あまり内容がなさそうなので読み返すこともしてません。
しかし、卒業前にこんな文がありました。
どちらかと言えば文化系ではないものの集まりです。 文はどうかな?

卒業記念号として2号目のものです。
全て手書きでガリ版印刷したものです。
わが高校は普通高校でしたが、1クラスのみ工業過程の電気通信科がありで
私は、男子だけの同級生40名でした。
残念ながら全員からの原稿が集まりませんでしたが、30名位と関係した先生及び
普通科からの女子からの原稿等で、みんな好き勝手なことが書かれていました。
冒頭は担任からの「あるとき」 、、、こう考えた。
今読んでも若い担任の先生は、素晴らしい感性を持っていたんと思います。
(この当時はそんなことはわからなかった
ある時、生徒にワイワイ言われた時、こう考えた。
 「ずい分俺にも関心を持っているんだなぁ」、、と。  
ある時、金が欲しいと思った時、こう考えた。
 「俺もやっぱり人間だ」  、、と。
川端先生は最後は小樽に住まわれていました。
卒業後の何度目の同級会を小樽で行おうと言うことになり15名位参加したと思います。
先生は、周りの人から同窓会と聞いて北海道の学校と思っていたが佐渡の高校と聞いて
ビックリされたと話していましたが、今は既に鬼籍に入っております。

又、日記の中にこんなものがありました。
おお~ 英語で書いているのか!!
待てよ、確か俺は英語が苦手なはずだが、、、
なんて書いていたんだと思って読むと、なんと英単語が僅かで、すべてローマ字でした。
なんだ筆記体の練習をしていたのか、安心(?)しました。
"gannbatte  go" とは驚きました。(この時代は英語辞書は持っていませんでした)

だって就職先への願書に、嫌いな科目:電子計測、英語 と書き、
担任に、お前計測器メーカーを志望するのに、電子計測はまずいだろうと
諭されて、英語だけ残した記憶があります。

人生は不思議ですね、計測器メーカーに入社して2年後に米との合弁会社が出来て、
そこに移籍したのです。
しかも最後は、合弁会社ではなく、100%外国資本の外資会社になったのです。
計測と英語が不得手な俺が、一番向かない会社勤めをすることになったんです。
実は、私の出身校は既に廃校で、辛うじて佐渡高校相川分校となっています。
何でもがどんどん変革していくんですね。

汚れた写真と文章ベタで、表現が上手く出来ず、少し冗長になりました、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー