愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

振り返るだけの日々

2011-08-05 23:23:48 | 残されて
 毎朝の散歩でときたまお会いするご近所のおふたりの方から、久しぶりに逢った今朝、むぎへのご丁寧なお悔やみをいただいて恐縮した。

 むぎの命日からちょうど4週間、ご近所の方々のお耳に広まっているのだろう。
 これまでも、シェラの横にいるはずのむぎの姿がないので、いつもは朝の挨拶くらいしかしたことのない方まで、「あれ? チビちゃんは……?」と訊かれてきた。
 ぼくからむぎの死を聞いて、皆さん、眉を曇らせて慰めてくれる。最初はその言葉をいただくのさえも辛かった。

 唯一の例外は、「あの子、死んでしまったんです」というぼくに、「ああ、そうですか」とヘラヘラと笑って返した輩もいてあきれたが、礼儀知らずというより、こういうとき、どう対処していいのかわからないだけの人なのだろう。
 自分の家のわんこに何かあったら、ヘラヘラ笑ってなどいられはしないだろうが、そのときの自らの無神経さに気づいたとも思えない。

 ご近所の方々からの「お寂しくなりましたね」などとの慰めの言葉に、ぼくは「ありがとうございます。まだ、この子のためにしっかりしませんと……」と、シェラを指し、作り笑顔で振る舞ってきたけど、そこでむぎのことをほめられるといまだに悲しみが沸き上がってくる。
 昨日のエントリーでも書いたが、うれしくも誇らしいのではあるが……。

 昼、会社から少し離れた場所にある店へひとりでランチに出かけた。帰りがけ、レジの前で、「お忙しいみたいですね」と、お店のママさんからいわれたとき、久しくきていないことを咎められたかのように思い、「それほどじゃないのだけど、つい、足が遠のいてしまって……」と曖昧に言い訳した。
 「いえ、そんなことはよろしいのです。少しお元気がないようにお見受けしたものですから、お疲れでなければとよろしいのにと余計な詮索をしてしまいました。お気を悪くなさらないでください」
 さすが客商売である。心の内を見抜かれていた。

 「バレてましたか。実は……」
 ぼくは手短にむぎの訃報を話した。「情けないな。もうひと月経つというのに気づかれてしまったんですね」
 実は、ここのママさんともわんこ仲間であり、彼女は二匹のレトリバーを飼っている。
 「それはさぞお寂しいでしょうね」との慰めに続き、「お話ししてなかったと思いますが、昨年の暮れとこの三月にウチの子たちも亡くなってしまったんです」
 その言葉を聞いてぼくは衝撃を受けた。年明け早々にも、また、春先にも何度となくこのお店にきていたからである。だが、ママさんの悲しみにぼくはまったく気づくことができないでいた。

 あらためて、ぼくは口ごもりながら気づかなかった不覚を詫び、ママさんの気丈さを称えた。
 「上の子は14歳ですからレトリバーとしては大往生でしたし、下の子はまだ10歳とはいえガンでしたから苦しまずに逝けたのが何よりの慰めでした。それに、ずっと前から覚悟はしておりましたから……」
 犬であれ、猫であれ、動物を家族に迎えたときから、先立たれる覚悟はしていなくてはならないし、ぼくもまた、いつも意識していたつもりだった。
 
 老いたとはいえ、この子たちがまだいてくれる現在(いま)がいちばん幸せなときなのだと、日々、何度となく意識して生活してきた。それを反芻するたびに身近のシェラやむぎに声をかけ、手を伸ばして撫でてやっていた。シェラやむぎのためではなく、自分のために……。いちばん幸せな現在(とき)にある手応えをたしかめるために。
 
 いまや、いちばん幸せだった時代(とき)は過去のものとなってしまった。振り返るだけの昔は、それが楽しかったからなおさら寂しく、辛い。
 むろん、ぼくだけではない。たとえ犬であれ、愛する伴侶を失い、涙にくれた人が目の前にもいた。

 「あの子たちにどれだけ癒されてきたかわかりません。ですから、もう悲しまないことにしています」
 潤んだ目で笑顔を見せるママさんにぼくは返す言葉を見つけることができなかった。彼女もまた振り返るだけの日々に想いを馳せている。