大半が旧知の仕事仲間ながら、久しぶりの顔ぶれとの楽しい飲み会の昨夜だった。旧盆の中日ではあったが、もう、年齢的に世事との縁が稀薄になって、あるいは定年を機に俗塵をダンシャ(断捨離)った身軽な人もあって底抜けな楽しい笑いに満ちた夜だった。
帰り道、家の近くの駅まで一緒だったダンシャリアンのひとりが、別れ際、「断捨離して身軽になるって、こんなにいいものかと思う。早くこちらへいらっしゃいよ」としみじみ語っていたのが印象的だった。
もし、ぼくが彼の立場だったら、愛犬の死までも断捨離することができるだろうか。さすがに、昨夜は「犬が死んでしまい、心が晴れない」などとは口が裂けてもいえなかった。彼らのせいではなく、楽しい場にふさわしくない話題だと、ぼくのほうで臆したからである。
その点、女性たちは(家人から聞くかぎり)、どうやらまるで様相を異にするらしい。家人の友人の多くがイヌやネコ、ウサギなどを見送った経験をもち、それぞれにつらい想いを経験している。そんな同士が、それこそ堰を切ったように語り合うのだという。
悲しみに打ちひしがれた日々の自分の悲しみを、彼女たちは赤裸々に、包み隠さず明かしてくれるらしい。
悲しむばかりでなく、愛しいパートナーの死によって身体に不調をきたした方も珍しくない。家人の友達の中にも一年後に突発性の難聴をきたしたという方がいる。それだけいつまでも哀惜の想いを断ち切れずにいたわけである。
腕に残った抱いたときの感触が忘れられない。夢の中へやってきた子に喜びつつ、憂いに沈む。日常、ふと感じる気配に「あ、そこにいるのね」と涙する。そして、何年経ってもどこからか不意に出てくる毛に悲しみを新たにするそうだ。
男同士では、さすがにそんな話はしたことがない。男であれ、女であれ、秘めた想いは同じだろうが……。
俗にペットロス症候群といわれる心身の疾患は、ときとして、当事者を自死にさえ至らしめる。それほど深刻な事態に陥る可能性も秘めているのである。
一方で、かけがえのない相棒を失って悲嘆にくれるそんな人を、「たかがイヌやネコが死んだくらいで……」と嘲笑う哀れな人も世の中にはいる。
もし、いま、ぼくが本心を明かしたら、同意してくれる人ばかりではなく、「男のくせに…」「いい年をして…」などとの冷笑にさらされるリスクも覚悟しなくてはならない。
わが家にはまだシェラがいる。
哀しみはようやく幕が揚がったばかりである。次の辛さを迎え、耐えていくためにも、いましばらく、千々(ちぢ)に乱れる心模様はひとり秘めていこうと思う。
まことにもって、男は生きづらい。