このところ、夜、気が向くと写真の整理をしている。写真とといっても、もちろん、デジカメやケータイで撮影したものだからデータの整理といったほうが正しいだろう。
バックアップ用のハードディスクのフォルダーに放り込んであるたくさんのデータの中からシェラとむぎの写真だけを、新たに作った専用のフォルダーにコピーし、iPadへもコピーしている。
作業の手を止めて写真に見入ってしまうことがしばしばで整理は遅々として進んでいない。
愛する相棒を失い、部屋中に写真を飾って在りし日をしのぶ方もおられるが、わが家には写真のたぐいは一切飾っていない。ぼくの部屋の机の上にあったむぎの写真も額に入れたまま、最後まで身につけていた遺品のカラー(首輪)とともに大判のバンダナに包んでデイパックにしまってある。
このデイパックをぼくは、会社以外の外出時に背負って出かける。非常時にもまずはこのデイパックを持ち出すだろう。中に写真とカラーがあるだけで、いつもむぎを背負っているような気分になれる。
家の中にむぎの写真がないのは、家人の希望でもある。「辛いから見せないで……」というのが彼女の言い分であり、彼女の携帯電話の待ち受け画面もシェラ単独の写真にしている。
ぼくのほうは以前から通常の携帯電話はシェラ、iPhoneはむぎでいまも変えていない。
自室のデスクからむぎの写真を外したのは、iPhoneだけでじゅうぶんだからだ。
むぎの姿が消えてしまった直後、寂しくて、寂しくて、あまりにも寂しくて、デジタルフォトスタンドを自分の部屋に置いて寂しさを埋めようと考えた。何度か大型電器店へ足を運んではどれにしようかと物色したものの、かえって虚しさが募るだけのように思えてとうとう手が伸びなかった。
ああいうものは幸せを再現するツールであって、悲しみを映してはいけない。それがぼくの結論だった。代わりに、いつも持ち歩いているiPadにむぎとシェラのたくさんの写真を入れた。ぼくにはそれでよかった。
これまでシェラとむぎのたくさんの写真を撮ってきたつもりだった。気が向いたときカメラを向けてきただけにしては、確かに枚数は多い。だが、まったく足りないのだ。
ぼくの記憶にあるむぎはもっと多彩な表情だった。それはシェラの写真にしてもいえる。もっといろんなシェラがいるはずだ。
写真なんて、記憶に比べたら所詮はそんな程度のものでしかない。数は少ないが、動画もある。この動画にしたって同じだ。やっぱり思い出の前には色褪せる。
むぎがいなくなってから、シェラにカメラを向ける頻度が減った。それに気づき、なぜだか考えてみた。
理由はすぐにわかった。どの顔にも空虚さが見える寂しげなシェラを撮るのが忍びないからである。
シェラに元気が戻ってきたら、写真の限界を承知でまたシェラの写真を撮ろうと思う。
だが、その前にぼくたちが明るい顔を取り戻さないと、いつまで経ってもシェラの顔の寂しさは拭い去れない――これを書きながら、そんな気がしてきた。