週末、昼間は暑さにすくんで部屋にこもって過ごした。
このところ手にしていなかったカメラのバッテリーをチェックしたついでに、使っているメモリーの残量も調べてみた。
そのうちの一台のSDカードからむぎの写真がたくさん出てきた。中でも、リビングのテーブルの下、ぼくの足元で熟睡している一連の写真を目にしたとき、思わず熱いものがこみ上げてきた。
そこには、腎結石の手術以来、すっかりデブになってしまったむぎが眠っていた。外からの光が射し込んでいるから、昼間の写真である。ほとんど同じショットが16枚連続していた。
撮影日は3月20日午後2時過ぎ。なぜ、同じような構図の写真ばかりをこんなに撮ってしまったのだろうか? いまとなっては、きょうという日のために撮っておいたようにさえ思えてくる。
それにしても、無防備な、なんというかわいい姿だろうか。手を伸ばしてその身体をそっと撫でてやりたい。手を伸ばせばそこにいるような、そんな虚しい錯覚が口惜しい。
パソコンのモニター上にスライドショーで次々と切り替わっていくその姿が次第にぼやけていく。目から不覚の涙が落ちた。
むぎはあの日もそんな姿で息絶えていた。抱き上げたぼくの腕の中でゆっくりと落ちていく首が呪わしかった。
バカな! そんな! ぼくは動揺し、叫び続けた。
安らかな寝顔だった。
「むぎ、目を開けろ! 死んじゃダメだ!」
写真の中で熟睡しているむぎの姿にあの日の朝のひとときがよみがえる。でも、ぼくはむぎの写真から目をそむけない。
たとえ、悲しみがこみ上げ、涙で写真が曇ろうとも、以前のように笑顔で「むぎ……」と呼びかける。
いまも指先に残るあの柔らかな耳たぶの記憶を反芻する。もう一度、あの耳を触ってやりたい。抱き上げて、喉から胸にかけて撫でやりたい。
不意にこみ上げてくる想いの中で、これからもぼくはむぎとのひとときを過ごしていく。
たとえ無念さがこみ上げてこようとも、ぼくの足元で安心しきって深い眠りを貪っている姿のこの写真を大切にしていこう。