☆何かのサインかもしれない
「最近、歩くのを嫌がってしまってさっぱり散歩にならないんだよね」
朝はぼくの、夕方は家人の、わんこの散歩仲間である品のいい年長の男性の方が、今朝、そういって苦笑いされていた。
「この子のおかげでぼくも毎日歩いてるからありがたい」
そんな言葉も、わりと最近聞いたばかりだった。七十代の半ばといったところだろうか、ダンディな氏が連れているのはクリーム色のミニチュア・ダックスフントである。
年齢は、そろそろ10歳というところだけに、歩くのを嫌がるようになったというのも「年齢のせい」なのかもしれないと思うのはごく自然である。
でも、はたしてそうなのだろうか? と思う。
むぎの死後、その突然の死をめぐって、ぼくも家人もどうにも納得がいかず、最近のむぎの様子を思い出しては何度となく検証してきた。
むぎの身体から何かサインが送られてきてはいなかったのか? ぼくたちが見落としていたことはなかったのか?
悲しさに耐えつつ、ぼくたちは何度となくそんな話を繰り返してきた。
☆年齢のせいにしてしまった
いまさら手遅れではあるし、仮にわかったとしても、ぼくたちの迂闊さに自責の念を深めるだけでしかない。それを承知しながらそれでもやっぱり知りたいと思うのは、心の片隅でむぎへの贖罪を求めているからであろう。
話をする度に行き当たるのが、むぎの不調を「年齢のせい」にしてしてきたことである。散歩に出かけるとき、リードを装着するほんの短い時間にも、あるいは帰ってきて玄関でシェラが足を拭いてもらっている間にも、春ごろからのむぎは床にペッタリと伏せて待っていた。
そのくせ、散歩の途中で歩くのを嫌がったり、引き返そうと抵抗を見せたりは決してしない。当時、それを頻繁にやったのはシェラのほうだった。大も小もさっさと排泄を終えて、「もう歩きたくない。帰ろう」と動かなくなる。ぼくたちは排泄が遅れているむぎのために強引にシェラを引っ張って散歩を続けた。
「シェラ、むぎはまだ終わってないんだから帰ったらかわいそうでしょう」とシェラを怒り、「むぎ、シェラが歩けないんだって。頼むから早くやってよ」とむぎに懇願しながら……。
☆むぎが従順だったために…
もし、むぎがシェラのように歩くのを嫌がったり、途中で座り込んでいたら、即座に病院へ連れていってお医者さんに相談していた。
悔やまれるのは、むぎが従順だったがゆえに、まだ死ななくてもよかったのにむざむざ死なせてしまったのではないかという可能性である。
寿命で帰らぬ旅へ発っていくのはしかたない。だが、ものいえぬわんこたちだけに、なまじききわけのいい子だったために飼い主の油断で死なせてしまうのは無念でならない。
あのダンディなおじいちゃんにも、それとなく歩くのを嫌がるようになったダックスの検診を勧めてみよう。今朝、ぼくと家人が朝食を食べながら話した結論である。
せめてぼくたちの身近でむぎのような哀しい過失が繰り返されたくないからだ。