☆どうでもいいよ
打ち寄せる波のように、むぎへの追慕が押し寄せ、また引いていく。そんな汀(みぎわ)を、いまだにぼくはふらふらとさまよっている。
息絶えてしまったむぎを抱き上げたときの感触がなお空(から)の腕にしみついたままだ。荼毘に付す直前まで生前と変わらなかった柔らかな耳たぶが愛しい。
ふとそんな思いにひたっているぼくの顔をのぞきこむシェラの表情が、「どうしたの?」と心配そうにしているかのように見えてしまうのがいささか情けない。
まもなくコーギーのパピィがやってくる。家人と、ときおりだが、思い出したように話題にするが、少なくともぼくは指折り数えて待つ気持ちにはなれないでいる。連れてきたらそれなりに可愛いと思い、むろん、可愛がるだろうが、いまは気持ちが乗らないままだ。
家人とせがれはふたりで激論の末に名前を決めたが、ぼくはこの名前にも乗れないでいる。といって反対する理由もない。正直にいうと、「どうでもいい」というあたりだろうか。
何が気持ちのブレーキになっているかというと、先々のことを思い、その責任の時間的な長さと重さを痛感するからである。この子が順調に育ってくれたらぼくたちは80歳を迎えるだろう。そのころまで本当に面度を見てやれるのだろうかとの不安で滅入りそうになってくる。
せがれにしてみれば、むぎばかりではなく、そう遠くない先のシェラの死も見据え、母親のペットロスを回避はできないまでも、可能なかぎり軽微におさめたいとの思いからこのパピィをネットで見つけ、勧めたのである。ぼくは彼に、「おれたちに何かあったら、おまえが面倒みろよ」と言い渡してある。
不確かな担保ではあるけれど、それをきちんといっておかないとやはりぼくの鬱屈しそうになる気持ちはどうにも整理がつかないままでいるからだ。
☆叱る相手もいなくなり
通勤の行き帰りや外出のおりに、散歩をしているコーギーにときたま出逢う。むぎが健在だったころは、よそのコーギーがいればむぎと比較をして、「やっぱりむぎのほうが可愛いな」などとひそかに思って悦に入っていたのだが、今週はコーギーを見るぼくの視点がまったく変わってしまった。
あのパピィが成犬になったら、こんなコーギーになるのだろうか。大きさは? 毛並みは? 身体のフォルムは? 動作は? などと無意識のうちにパピィを重ねてしまっている。
気持ちが乗っていないはずなのに、実はすっかりその気になっているじゃないかとはたと気づき、それなのに淀んだままでいるこの自分の心模様の実相が皆目わからなくなってしまった。
このところうれしいのは、会社から帰ると、シェラが大喜びで飛び出してきてくれるようになったことである。涼しい季節を迎えて元気を取り戻してくれたようだ。ついこの間までは、耳が遠いということもあってぼくが帰ってきたのさえ知らずに眠っていたけど……。
それにつけても思い出してしまう。あのころは、ぼくの帰宅を告げるために吠えながら家の中を走りまわるむぎがいた。シェラがぼくの顔を舐め、そのあとむぎにもひとしきり顔を舐めされてやると落ち着いたが、その前にまずは、「うるさい! 静かにしろ!」とむぎを諭すのが、ぼくの帰宅して最初の仕事だった。
いまはぼくがうれしさとともに叱る相手もいない。
静まり返った部屋の中で、無言で尾を振り、いつまででもぼくの顔を舐めてくれるシェラの出迎えにも慣れてきた。今度、パピィが加わり、やがてどんな帰宅のひとときに変わっていくのだろう。