☆錯覚だなどといわせない
昼間、家人はせがれにそそのかされて、昨夜、ネットで知ったコーギーの可愛いパピィを売っているペットショップへ電話をしていた。購入の予約したわけではなく、まだ店にいるかどうかを確かめただけだという。
店のほうからは、かなり可愛い子なので早くこないと売れてしまうかもしれないと釘を刺されたそうだ。ま、その店にしてみれば、金を払って買ってくれる客ならだれでもいいのだから。
明日、わが家より先に買い手が見つかってくれたら……といまも思う。
13年前の、むぎがわが家にきて一週間ほど経ったころの、ある夜の場面を思い出すたびにぼくは胸が痛んでならない。
その夜、ぼくはシェラの心の深い哀しみをのぞいてしまった。これから書く顛末を、あるいは信じてなどもらえないかもしれない。でも、ぼくは自分が感じたシェラの哀しみをただの錯覚だなどととうてい思えない。これは紛れもない真実だと確信している。
☆シェラの目が「さよなら」と…
むぎがわが家にやってきたのはシェラが幼犬から成犬へと成長を遂げたばかりのころだった。三歳を迎え、シェラにも落ち着きが身につきはじめていた。
とはいえ、突然、目の前に差し出された仔犬にシェラはすっかり面喰ってしまった。どう扱っていいかわからず、ただただむぎから逃げまわっていた。それがぼくたちには、ほほえましくもあり、滑稽でもあった。
ついこの間、自分が仔犬のときは、三匹のネコたちを「ねぇ、遊ぼうよ! 遊んでよ!」とばかり追いかけまわしてさんざんネコパンチを食らい、それでも、懲りもせずに追いかけていってはフラれ続けていた。
おとなしい性格のむぎは、シェラにじゃれついたりはしなかったが、まだ母イヌが恋しいのか、シェラのそばに寄りたがった。しかし、シェラは逃げて寄せつけない。しかたなく、たいていは家人かぼくに抱かれていた。
むぎをサークルの中で寝かせるのは、夜、みんなが寝るときくらいのものだった。
そんな日が一週間ほど過ぎたある夜、シェラが玄関の扉の前に座り、リビングのほうをじっと見つめていた。家人の膝の上でむぎが眠っていた。
尋常ならざるシェラに気づいたのはぼくだった。
「おい、シェラが家出する気らしいぞ」
扉の前のシェラは、扉のほうへ身体を斜めに向け、見たこともないような暗い目でぼくたちのほう見つめていた。その目が何を語っているのか、ぼくには痛いほどわかった。
「新しい子がきて、もう、わたしは必要なくなったようなのでどこかへいきます。ここを開けてください」
そんな目だった。
☆捨てられたトラウマ
シェラはわが家にきた当初から自分が捨てられたことを明確に自覚していた。まだ、赤ちゃんイヌ(パピィ)だというのに、再度捨てられることをひどく怖れていた。
散歩に連れ出すと、立ち止まっては振り向き、あたりの風景を確認してまた歩き出すのである。散歩道の要所要所で……。
生まれて半年もたっていない仔犬でありながら、「また捨てられても必ずここへ帰ってきてやる!」との強い意思をぼくはひしひしと感じていた。裏を返せば、わが家の子になれて幸せを感じていたとも思えてならなかった。
「シェラ、もう捨てられっこないから心配するなよ」
特に新しい道へいくとしつこく振り向きながら歩くシェラにぼくは何度もそういってたしなめた。
3年間、ぼくたちの愛情を一身に受けて育ったシェラにとって、むぎの出現は、はかり知れないほどの衝撃だったのだろう。「やっぱりまた捨てられるんだ」と思い、哀しみと絶望のあまり自分から出ていこうとしたのではないだろうか。そう思えてならない。
☆もし、扉を開いてやったら…
あのとき、もし、扉を開けてやったらどうしただろうか。力なく立ち上がり、うつむいて外へ出ていっただろう。振り向きもせず、トボトボとあてもなく歩きだし、どこかへ消えていく……そんなシェラの姿が目に浮かぶ。
いや、一度くらい振り向いただろうか? その目は涙で潤んでいたはずだ。
3年前、抱き上げるとシェラは赤ちゃんわんこ特有のお乳のにおいがした。まだ母イヌのお乳を飲んでいるというのに引き離されて捨てられたわけだ。
ぼくと出逢い、抱き上げられて安心できたのか、ぼくの着ているパーカの中にもぐりこんできてすぐに眠ってしまった。連れて帰ったわが家に、シェラはすぐになじんだ。寂しがることもなく、三匹のネコに交じって大喜びではしゃいでいた。
以来、むぎがやってくるまでの3年間はただひたすら可愛がられて過ごした。十分に幸せだったはずである。
むぎの出現は、3歳のシェラがその幸せに背を向けて出ていこうと思ったほどの深い哀しみを生んだわけである。
このときのシェラの哀しみに、ぼくはイヌのメンタリティの深さを思い知らされた。イヌたちは、人間が思っている以上に……いや、ひょっとすると想像もつかないくらい豊かな感情を育む精神構造を持っているのだろう。
なんせ、哀しみのあまり自ら身を引こうとしたのである。
☆あなたをいちばん愛している
玄関のシェラを見た家人は、腕の中のむぎをぼくに託すとそこへ飛んでいき、シェラを抱きしめて号泣した。
「シェラ、ごめんね。あんな子を連れてくるんじゃなかった。ママはあなたのことをいちばん愛しているのよ。だから、もうそんな顔をしないで。お願いだから!」
家人の気持ちが通じたのか、その夜を境にシェラはさらにもう一段階成長した。むぎから逃げなくなったのである。
むぎのほうも、以前どおり屈託なく寝ているシェラへ遠慮がちに近づくと、まずは尻尾の先っぽを枕にして寝た。日を追ってその距離が縮まっていく。すぐに常時シェラにはりついているむぎになってしまったのはいうまでもない。
その後のシェラとむぎの驚きの、信じがたいほどの関係は、稿をあらためてレポするが、ぼくが怖れるのは、あの夜の哀しみを新しいパピィによって再びシェラに与えてしまいたくないのである。
まさか、家出をしようとはしないだろうが、ぼくたちの愛情が二分される寂しさを、年老いたシェラが受け容れことができるかと懸念するのである。
それに、もう一度、母イヌの重責を担うには歳をとり過ぎたシェラである。それだけにぼくの悩みも深い。