愛する犬と暮らす

この子たちに出逢えてよかった。

やっぱりむぎには逢えなかったけど

2011-09-18 23:51:41 | 残されて

☆むぎのいたお店へ向かう 
 「ほんとうは、むぎを探しにいきたいんだろ?」
 シェラの散歩に近くのアウトレットモールですませ、夕飯の買物のために駅前のスーパーへクルマを走らせている最中、家人がほんとうにいきたがっている場所が別にあるのを知ってぼくは彼女に訊いた。
 「いってくれる? ありがとう」
 
 アウトレットモールでいきつけのカフェでお茶をしたときも、クルマに乗ってからも、彼女はむぎのいない寂しさをポツリポツリと語っていた。
 むぎが亡くなる三か月前にせっかく開いた婦人服とアクセサリーのリサイクルショップも、「シェラをひとりにできない」という理由でスタッフに任せきりにしてほとんど顔を出していない。オーナー失格であるが、それをいえばますます追い込んでしまうことになる。

 むぎのいない寂しさが、時間の経過とともにジワリジワリと質を変えて襲ってくるのはぼくも実感しているが、家人の場合、理性が烈しく負けている。
 いまはまだいいが、いずれ大きなツケがくるのは目に見えている。シェラに何かあったら、間違いなくペットロスに陥るだろう。

 「もし、むぎに似た子がいたら、どうする?」 
 ホームセンターにクルマを走らせながらぼくは家人に訊いた。
 「もちろん、連れて帰るわ」
 明快な答えだった。
 すべての前言を翻して、彼女はむぎの代わりを求めている。

☆シェラのために耐えるべきだが 
 ぼくも正直なところ、心の真ん中に生じた空白を埋めるのは新しいわんこしかいないと思っている。しかし、いま、新しい子をわが家に連れてくるリスクを考えてしまう。
 何がリスクかといえば「年老いたシェラ」がそれを受け切れるかどうかということである。もう少し身体が自由だったころなら問題なかっただろう。しかし、この半年で、シェラはすっかり衰えた。
 
 シェラは、わが身ひとつ自由にならないというのに、そこへ元気なパピィがやってきて、しかも、ぼくたちの愛情を分散されてしまうのである。メンタリティーの部分でもショックを受けてどうにかなってしまうのではないかと、それを心配したのである。
 
 心の片隅で、「もしかしたら、むぎのような子に逢えるかもしれない」と期待しつつ、シェラのために「どうか、コーギーはいないでくれ。むぎに似た子に出逢わないでほしい」とぼくは祈った。


☆新たな問題が… 
 果たして、コーギーはいなかった。冒頭の写真のポスターがあっただけだった。
 もう一軒、足を伸ばした別のペットショップにもコーギーのパピィはいなかった。落胆と安堵を同時に味わい、帰路についたものの、また新たな問題が生じた。 
 ぼくも家人もコーギーにこだわらなくなっていた。最初のお店で出逢ったマルチーズ(写真)とチワワに心奪われそうになっているのである。

 いま、かろうじて踏みとどまっている。
 シェラに何かある前に手を打つべきなのか、それともシェラのためにもいまはやっぱり耐えるべきなのか、早急に答えを出したほうがいいだろう。