青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

商店街は語る!~健康で豊かに生きる!

2024-05-10 | 昭和・懐かしい北摂の風景

貿易赤字が縮小する一方で、企業の投資収益が大幅に増え、2023年度の累積黒字額は過去最大の25兆円!とても我が国の話だとは思えません。黒字が拡大しても円高要因にならずに逆に円安が進んでいる。そして、給料の上げ幅とは比較にならない程、物価が上がり続けている。僕らの生活は苦しくなる一方です。

収入の良い若者は昔も今も、20代でしっかり結婚している。なのにマスコミは、若者が結婚せず少子高齢化が進むと報道している。これは大きな間違いで、普通に給料を取っている若者は恋愛にも興味があるし、結婚もするし、車も買えば子供もつくっているのです。企業に就職する際も学歴による足切りはあるのに、機会均等などと高らかに謳う。男しか採用しなくても、法律違反にならないように性別や年齢の制限がない求人で誤魔化す。年寄りにはいつまでも労働を求め、「働けるのは有難いこと」等と言う洗脳を行う。

国の政策が間違っているからです。若者には学生の間に自分に大いに投資し、いろんな経験をして、自分の能力を高め、心身ともに鍛え、お金をたくさん稼ぐことが出来る人間になって欲しい!しかし、その為にはどういう会社に就職すれば良いかが本当に分かりません。僕が若かった頃から現在までを振り返っても、山一證券という巨大な会社が倒産、銀行が倒産、JALさえ事実上倒産しました。絶対につぶれない良い就職先だと思っていた会社でさえ無くなったり、人員削減を当たり前のように行うようになっています。力強く雇用を守る組合を持つ企業、一体どれだけあるのでしょう?

これは昭和50年(1975年)、阪急電車宝塚線・石橋駅改札前から西側の商店街を撮影したものです。撮影当日人が溢れているのは、市民カーニバルの「石橋民謡まつり」に、石橋南小学校が協賛しているからです。

問題は商店街入り口ゲートに下がる4つの金融機関です。いづれも現在は存在しません!

同じ場所の現在の光景。違う金融機関名が小さく並んでいます。

日本の産業で作られるものを、世界中の人々が買う。これを実現しない限り円高には今後向かいません。ひたすら円安に進むしかないのです。上手く行っていない企業がつぶれ、新しい産業が頭角を現してこそ経済は伸びるのですが、日本の政治は政治家の保身の為に、すたれて行く産業をとにかく守ろうとする。つぶれるべき会社を、雇用を守る・文化を守るだのという綺麗ごとで残そうとする。海外では儲かる企業を残し、企業も儲からない部門はつぶして行く。

だから海外諸国は経済成長を続けるけれど、日本の経済は絶対に今後伸びないのです。「新しい変化」を受け入れない日本が、世界の中で再び浮上することはありません。日本の若者には新しい変化を受け入れる環境に飛び込み、強く生き残って欲しい。その為には、最低条件として、廃れて行く産業では働かないことです。上場企業だから良くて、中小企業だから駄目なのではなく、世界で売れるモノが何かを考えることです。

旅行代理店は昭和の時代、新卒者の人気企業でした。今は誰もがネットで格安航空券を入手できます。どこの駅前にもあった旅行代理店・・全く今では見られません。もうすぐ「印鑑・ハンコ」屋さんも見なくなるでしょう。世の中の新しい変化に気づき、その変化に付いていくことが出来ない国や人々には明るい未来は無いということを、政府も大人も明言し、変化を受け入れる為の政策を行わないといけないのに、逆のことを言い、逆のことをする・・・馬鹿過ぎます。

話は変わりますが、僕は皆さんに強く歯を守ることをお薦めします。

8020運動、80歳で自分の歯を20本残そうとう運動です。自分の歯があるから、美味しくものを食べることが出来、嚙むことで脳が刺激されて、頭もボケないのです。歯が無くなって行くのは歯周病によるもので、この菌が歯茎から血液に乗って全身に回り、万病の元になります。歯をきちんと磨き、歯周病を予防し、健康に生きる為には歯石が溜まらないように歯を磨くこと。しかし、その歯磨きが難しいから、どこの国でも誰もが歯を失って来ました。近年海外では歯列矯正やホワイトニングなどのように、多くの人々が歯を大切にしています。これも、新しい変化です。下の歯ブラシを使うだけで、誰もが歯を上手く磨き、健康でいられるようになります。この小さな金額で健康が買えるのに、この新しいものを受け入れない国民って、何なのだろう・・・と思います。騙されたと思って1度これで磨いてみて下さい。歯医者さんに歯石を取りに行った日のような感覚を、毎日感じることが出来ます。


池田ダイエー ~駅前再開発で “書き換わる記憶”

2024-05-03 | 昭和・懐かしい北摂の風景

駅前再開発。あちらこちらで聞く言葉ですが、再開発によって本当に町の景色が変わってしまうのは皆さんも良くご存知のことです。そして何年も経つと、正しい記憶が書き換わってしまうこともあります。

阪急宝塚線・池田駅の南西には上の写真のようにダイエーがあります。池田駅前にはダイエーが昭和42年(1967年)からありますが、昭和42年に開店したのはダイエー池田店で、この場所ではありません。

昭和62年(1987年)には、サンシティ池田の核店舗としてダイエー池田駅前店がオープン。それは現在のサンシティ内で、今はニトリやソフトバンク、図書館になっています。1995年(平成7年)阪神淡路大震災の年までは、これら2店が営業しており、1995年に池田店が閉店。そしてサンシティ内の池田駅前店は2018年(平成30年)に営業終了しています。

現在の写真のダイエーは、1995年11月にオープンした池田駅前店の新館(東館)なのです。池田のダイエーと言っても、実は3店あったわけです。こういう事実が忘れられて行くのも仕方がないことかも知れません。

昭和51年(1976年)の池田駅南西、つまり現在のダイエーのあった場所の写真がこれです。駅前再開発前の写真です。ダイエーは写真左手前の部分になります。

右側にはまだ地上駅だった池田駅のプラットホーム。やや狭い道幅の通りに小売店と買物客。現在も多少この雰囲気は残っています。写真中央の奥には呉服神社の場所を動かす前の鳥居も写っています。

同じ場所の2014年の光景がこちら。現在のように高架工事が完了して、左前にはサンシティ、その手前の壁だけ写っているのが今のダイエーです。当時は高架下手前に写っているように、大きなヘアサロンがありました。駅前再開発が終わっても、サンシティ内のテナント、池田駅高架下のブランマルシェと呼ばれるショッピング街のテナントは絶えず入れ替わりを続けながらも、どんどん店舗が減って空きスペースが増え続けています。

池田にはダイハツ本社工場と池田工場がありますが、ダイハツが昨年の不祥事から売上を減らしている今、税収も減る池田市の池田駅前が将来どのようになって行くのか、多少不安にはなります。

 


能勢 ~今や消滅の可能性!? それでも家を買いますか?

2024-04-29 | 昭和・懐かしい北摂の風景

昭和の終わりから平成にかけて、言い換えると1980年代後半からのバブル期には、住宅開発がどんどん進みました。高度経済成長期には、小さくても郊外でもローンを組んで家を買い、その家を売って更に資産価値のある家に買い替えて行くのが、サラリーマンの常とう手段でした。毎月の家賃を払う生活は、いくら払っても何も残らない。でも、毎月住宅ローンを払うのは、家が残る。それで僕の世代は、「結婚は?」~「子供はまだ?」~「家は買わないの?」と言われるのが当たり前でした。

ところが今では資産価値がある家を持つなら、大都市圏のみ。それ以外の家は極論「消耗品」であり、戸建ての値段も安くなり、全国あちらこちらで空き家が問題になるほどです。昔はとても買えなかった場所の家が、今なら普通に手が届く価格になっていて驚きます。

ここは大阪の北の果て。国道173号線の能勢町の入り口で、昭和59年(1984年)の景色です。173号線は池田市を通る部分は大阪府ですが、その後兵庫県川西市~兵庫県・猪名川町を通り、もう1度大阪府・能勢町に戻る国道です。この当時、兵庫県猪名川町から能勢町下田へは、能勢第1トンネルを通り、一庫大路次川に沿って行きました。後に写真正面の山に能勢第2トンネルが開通することになり、交通の便が良くなり、この山の左側も宅地に造成されて行きました。

先ほどの写真で正面にブルドーザーが写っていますが、その背後がちょうどこの写真のトンネル部分になります。ここに能勢第2トンネルが昭和61年(1986年)9月に貫通。能勢への道が一気に開け、この辺りの戸建てが3,000万円少しで売り出されます。

1枚目、2枚目と同じ場所の平成15年(2003年)の写真です。約250戸の住宅が立ち並んでいます。この能勢第2トンネルにより、それまで迂回していた下田を通過せずに尾根向こうにまで抜けることが出来るようになりました。写っていない写真左側には、中央に「セルベーヌ」という看板がありますが、ラブホテルまで出来ていました。

この町が、将来「消滅の可能性」がある自治体として、先日発表されました。該当するのは20~30代女性の減少率が80%を超える自治体です。

現在総人口3838人で、そのうち20~30代の女性が、たった109人😱😱😱 こんなことになるとは誰も30年前には予想もしなかった。能勢町は、これから発展して行く町として売り出され、島田紳助が豪邸を建て、彼が地元の幼稚園を立て直し、海洋会館やら浄瑠璃シアターやらが賑わい、国体を開催したりで人口が激増して行く過程だったのです。
 
ところが、ダイオキシン問題で評判を落とし、地価が暴落、とどめとばかりにリーマンショックでローンを返済出来なくなった人が大勢出て競売物件が増加、3,000万超えの家も今では売却して引っ越すことも出来なくなりました。そして今では「消滅の可能性」がある自治体と言われる以前から、「大阪のチベット」と表現され、2022年(令和4年)4月1日 過疎地域に指定されました。少子高齢化で遅かれ早かれこういう事態になったかも知れませんが、実際の歴史を振り返ると、こうなったのは町の行政の責任に負う所が大きいと考えます。
 
家を買うのは本当に博打です。博打に勝てるのは資本を持つ者。家は傷んで行くので手を入れることが必要ですので、維持するのにもお金が掛かります。災害にでも見舞われたらどうしようもありません。マンション等を賃貸して住めば、いつでも綺麗な場所を求めて転居も可能ですが資産にはなりません。若い人はこれから家を買うかどうかの判断が、本当に難しいと思います。僕の意見は買うなら駅近の都市部。それ以外なら賃貸。そういう世の中になると思います。賃貸なら災害が起きても引っ越せば良いだけ。外国人問題などが起きても引っ越せば良い。転勤も気にしなくて済みます。子供が出来たり、巣立ったりして、人生はいろんな局面を迎えます。その時々にライフスタイルを修正出来る住み方が、これからの住居選びではないでしょうか。(あくまでも個人的見解です。) 

昭和の下町代表 “文化住宅”

2024-04-18 | 昭和・懐かしい北摂の風景

桜の花がまだ残り、温暖でスポーツに適した季節。それが本来ならでした。4~5月は若葉の頃。秋と並んで大好きな季節でしたが、それが今や一体どこに行ってしまったのでしょう?

洗濯も出来ないほどの黄砂にPM2.5、そして4月中旬だと言うのに「熱中症」とは一体どこの国でしょう?確かに気候も変動しています。昭和の時代と違い、気温は確かに上がっています。でも、こんな気候になったのはそれだけでしょうか?

この写真は昭和45年(1970年)大阪万博のあった年の大阪府豊中市庄内栄町です。道の両側の家々には洗濯物が干してあり、下町風情が漂っています。庄内各地では高度経済成長の頃より、人口の増加に伴い密集して建てられた文化住宅が多く見られました。

ここに写っている建物は「文化住宅」と呼ばれましたが、今から思えばどこが文化的なのかよく分かりません。今も庄内~服部の辺りでは文化住宅を結構見ることが出来ます。

この頃は鉄筋コンクリートの建物も少なく、いわゆる「マンション」をまだ見かけませんでした。地面は舗装されていない所の方が多く、自転車もよく釘を踏んでパンクしていました。今では家の前の道で釘が落ちているなんて、若い人は見たことも聞いたこともないでしょう。雨が降れば地面はぬかるみました。

だからこそ、気温が今のように上昇しませんでした。木造家屋に土の地面。あちらこちらに溜池に雑木林。そういう環境が人に優しかったのでしょう。今は池は埋め立てられ、雑木林は宅地になり、「蚊」や「虫」も減りましたし、自転車も快適に走ることが出来、パンク修理も不要です。しかし、その代わりに春なのに「夏日」を過ごすことになりました。薬に副作用があるのと同じように、環境は毒にも薬にもなります。

また大阪万博がやって来ますが、その後に迎える生活環境はどうなって行くのでしょうか?

 


阪急・石橋 ~改札前商店街

2024-04-13 | 昭和・懐かしい北摂の風景

賑やかな駅前も、今やどんどん廃れて行きます。駅自身は綺麗に建て直されますが、人が閑散とした駅になって行きます。少子高齢化の一言で済まされて良いものでしょうか?寂しいものです。

しかし大がかりな駅前再開発がされなかった代わりに、昔ほどではないにしても、今も人で賑わっている駅が少ないながらもあります。この阪急宝塚線・石橋阪大前駅もそうです。明治43年(1910年)「石橋」駅として開業。石橋という名前で親しまれて来ましたが、令和元年(2019年)10月1日に「石橋阪大前」駅と改称しました。

写真は昭和52年(1977年)石橋駅・西口改札前。石橋駅は西口側が繁華な駅ですが、周囲が立て込んでいるので、駅舎の外観の写真は撮影出来ません。写真左上に看板が見えますが、2階にあった喫茶店「エルベ」には、大学時代によく行きました。今はもうありません。石橋も喫茶店はかなり姿を消しました。

現在は駅名も替わりました。エルベのあった場所は建物もそのままに残っていますが2階は使われておらず、1階はケーキ屋さんのミオールになっています。右側は時代の流れで、しまやカメラ店からコンビニ・ローソンに変わってしまいました。

1枚目の写真から数メートル改札を出て進んだ地点がここ。昭和53年(1978年)、市民カーニバルの石橋パレードの時のもの。子供神輿が商店街を通っているところです。写真右側に写っている「不二家」は今も営業しています。

昔の写真を見ていていつも思うのは、マスク着用者がいないこと。花粉症という言葉さえ、僕の学生時代には一般的では無かったと思います。そもそも花粉症だと自分で言う人が、僕の周囲にはいませんでした。マスクと言えば、学校の掃除の時間に使うガーゼのものという認識でした。

栄えている駅前商店街には、これからも頑張って欲しい!