青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

“梅田貨物駅” ~未来への遺産~

2024-08-16 | 昭和・懐かしい大阪の風景

通販や個人売買が拡がり、コロナ禍が拍車を掛け、いまや物流は人手不足で社会の大きな課題になりました。アマゾンがスピード配達の実現の為に真夜中でも配達する一方、郵便局は荷物が届くまでの時間が長く掛かるようになりました。配達効率を上げる為に「置配」という手法が導入されたり、自然災害によって物流の大切さが見直されたり、社会インフラとして今後はより重要な位置づけになるでしょう。

ここは昭和30年代終わりの「梅田貨物駅」です。「梅田北ヤード」とも呼ばれていました。ご存知の無い方も多いと思いますが、普通の人が出入りする場所ではありませんでしたし、今はもう消えてしまった場所です。

昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長期にあって、貨物輸送量は大幅に増加。鉄道による貨物輸送に代わって、トラック輸送がシェアを拡大しました。その最中、梅田貨物駅は昭和3年(1928年)に、大阪駅・貨物取扱所を独立させるかたちで開業。大阪駅と同一駅の扱いでした。

これは2011年の梅田貨物駅。 駅敷地の再開発計画に伴い、2013年3月16日のダイヤ改正より、梅田貨物駅の機能は関西本線百済駅(百済貨物ターミナル駅に改称)と、東海道本線吹田操車場跡地に新設された吹田貨物ターミナル駅に移転され、同月末日をもって廃止されました。

高知県から出て来た親父は、今はもう無いホテルプラザや大阪タワーの近くの運送会社に就職、この梅田貨物駅に出入りをしていました。小さかった僕は、時々親父のトラックの助手席に乗り、この駅は勿論、ダイハツ工業の中に入って車が組み立てられるライン等、普通の子供が見れない光景を見たものです。3歳~4歳の僕にとっては、大きなトラックの助手席に、まさに登るのが一苦労だったのを覚えています。

梅田貨物駅の広大な敷地を再開発すべきとの声は1960年代からありましたが、当時は鉄道貨物の全盛期であり、国鉄が撤去に応じることはありませんでした。しかし、70年代に入ると鉄道貨物の輸送量が急減し、昭和50年(1975年)度末の国鉄の累積赤字が3兆円を超えると、状況が変わって広大な敷地が徐々に民間に売却されました。

JR大阪駅周辺はこの跡地も含め、広大な土地が再開発を待っています。土地の値段が高いこともあり、この再開発計画は一体いつになったら終わるのか、誰も想像が出来ません。

かつては地盤沈下に悩み、大きな池もあった中津から梅田に至る場所には、梅田スカイビルやグランフロント大阪、百貨店やホテルも立ち並び、大阪駅も建て直されましたが、まだまだ手付かずの土地が開発を待っています。いつどのような姿になるのか、僕が生きている間に再開発の仕上がることはありませんが、未来への社会に役立つ「昭和の遺産」として活用されて欲しいと願っています。


“天六ガス爆発事故” ~万博開期中の大災害

2024-08-02 | 昭和・懐かしい大阪の風景

ここはどこでしょう・・・と訊いても、インターネットでこのブログをご覧の方にとっては古過ぎて分からないと、僕は分かっています(笑)僕も明治や大正、戦前の大阪の写真を見せられてもピンと来ませんから。だから、「へ~、こんな光景だったんだ」と思えるギリギリの時代の写真、つまり僕が子供の頃に見た風景が、このブログでご紹介する写真の限界かと考えています。僕の友人もここを見て、懐かしいと言ってくれる時もあれば、全然記憶にないと言う時もありますから。

ここは昭和30年(1955年)の天神橋筋六丁目商店街です。天神橋駅の存在により、京都方面から大阪市内への玄関口だったのが、天六商店街でした。

その特性を背景に、昭和40年代まで発展を続けました。天六商店会の結成は昭和21年、更に昭和25年には天六専門店協同組合を結成し、昭和47年、天六商店街協同組合と改称しました。

天神橋筋商店街は、大阪府大阪市北区にあるアーケード商店街。天神橋一丁目から六丁目まで南北2.6 kmに伸びる日本一長いアーケード商店街です。天神橋筋は、大阪天満宮の門前町として発展して来ました。

アーケード商店街と言いながら、青天井の写真を掲載しましたが、現在の光景はこうなっています。

天六と言えば、今ではもうほとんどの人が知らないと思いますが、僕の中では「天六ガス爆発事故」を思い出します。何せ、その現場の復旧作業現場を、事故のすぐ後に目の当たりにしているからです。

1970年(昭和45年)4月8日17時45分頃、大阪府大阪市大淀区(現・北区)国分寺町菅栄町西交差点東側付近の大阪市営地下鉄2号線(現・Osaka Metro谷町線天神橋筋六丁目駅)建設工事現場で起こったガス爆発事故で、死者79名、重軽傷者420名にも及ぶ人的被害を出す大惨事でした。家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸、爆風でドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上にも達しました。

写真中央に散乱している板のようなものは、路面のコンクリート板です。「天神橋筋六丁目」駅の建設工事現場付近でガス漏れが発生、現場に駆け付けた大阪ガスの事故処理班の車両のうち、パトロールカーが現場でエンストを起こします。パトロールカーがエンジンを再始動するためにセルモーターを回したところ、その火花にオープンカット方式の覆工板の隙間から漏れた都市ガスが引火して炎上し、大きな火柱を上げました。パトロールカーに乗っていた大阪ガスの職員は脱出し、建設作業員らが消火器で消火しましたが、しばらくすると再び激しく燃え上がり、炎の高さは3 - 4メートルに。炎は、次第に覆工板の隙間や通気口から漏出する都市ガスに燃え移って行きました。

パトロールカーの火災は約10分間き、ガス漏れや炎上騒ぎを聞きつけて現場に集まってきた近隣の住民、通報で駆けつけた大阪ガスの職員、消防士、警察官、工事関係の建設作業員などが現場に大勢集まります。折しも夕方の帰宅ラッシュの時間帯と重なり、天神橋筋六丁目駅へ向かう通勤・通学客や、バスから降りた乗客らも現場に次々と集まって行きました。現場を警備していた警察官や消防隊は、増え続ける群衆に対して現場から退避するように呼び掛けましたが、その効果はほとんどありませんでした。

その最中の17時45分、覆工板直下の地下部分に充満していた都市ガスに、何らかの着火源が引火して大爆発。爆発は瞬時のうちに数回連続で発生し、地下鉄工事現場の道路上に直線距離で約200メートル、道路幅約10メートルの範囲(都島通の菅栄町西交差点付近〜樋之口町交差点手前)に敷設されていた約1,500枚の覆工板が爆風で捲れ上がり、現場にいた群衆や自動車は覆工板もろとも激しく吹き飛ばされました。

事故の発生が帰宅ラッシュ時に重なったこと、さらには万博の開催期間中であったことから、この事故は、大阪市全体を震撼させる都市災害となった。

今、2025年の大阪万博の会場の工事現場でガス爆発が起きたことや、今後の開催中の不安についてのニュースに触れる度に、この天六ガス爆発事故のことを思い出す関係者はどれくらいいるのだろうかと考えてしまいます。僕は戦後の日本の焼け野原には立っていませんが、このガス爆発事故現場にも行きましたし、阪神淡路大震災・東日本大震災には当事者として関わりました。吉村知事や若い第一線の方々は、歴史や過去の災害から何かを学んでいるのでしょうか?

 


“阪神軽食堂” を知っていますか?

2024-06-15 | 昭和・懐かしい大阪の風景

僕が学生時代に柔道部の先輩に連れていかれた、忘れられない場所がありました。今では知らない人も多いかと思います。それは阪神電車・本線「梅田」駅改札横に位置し、通勤前後や周辺のビジネスマン、買い物客の中高年女性、甲子園球場の観戦客らが多く訪れていた「阪神軽食堂」です。

そこは狭い通路の狭い敷地内に、いろんな飲食店がひしめいた場所でした。「先輩から何でもいくらでも食え!」と言われたのが納得の安さ!かなりお酒の入ったお客も多く、阪急沿線住まいの僕には、当時はあまり馴染のない客層の食堂街に驚きました。

この阪神百貨店横の階段を降りれば正面は改札口がありホームですが、その左に1958年(昭和33年)9月、地下2階に「阪神軽食堂」としてオープンした同フロアがありました。

写真は昭和40年(1965年)頃のもの。まだ出来た所で綺麗な場所でしたが、それが徐々に変化して行き、いつの間にやら本当に雑多な雰囲気の場所に。時間を取らずに軽く食事を取る人々と、安い値段で酔っぱらうお客が混在していました。昭和50年(1975年)頃から僕はここを知っていますが、綺麗な場所とは思えなかったし、いわゆる普通のカップルがデートで行くのには相応しい場所ではなかった。僕は甲子園球場に阪神ー巨人戦を観戦に行く前の腹ごしらえに、ここを使ったものです。

そして社会人になり気が付いたらこの場所は、阪神梅田本店地下2階「フードテリア」と名前を変え、綺麗に改装されたスペースに様変わりしていました。

長い営業に幕を下ろす営業終了は、平成26年(2014年)3月31日。その頃はお店も昔とは違い、「アサヒビアダイニング スーパードライ阪神」「らーめん 麺匠 梅田一番」、カフェ・サンドイッチ「ヘンゼル」、パスタ&ピザ「プリモ ピアット」、飲茶「蓬莱飲茶551」、「カレーショップ ベンガル」、お好み焼き・焼きそば「銀杏家」、すし「兵太郎」、「ごはん屋 旬」「天ぷら 森」「うどん・そば 讃州一番」の11店舗でした。

ここで食事をせずとも立ち寄った方もいるだろうと思われるのが、「ミックスジュース」のお店です。阪神百貨店の名物ミックスジュースは、店内には勿論お店がありましたが、ここにも出店していました。

現在でもこのお店だけは、姿を留めています。

梅田がどんどん変わり続け、マルビルも解体が進んでいますし、昭和の香りを留める場所が今では本当に少なくなりました。


消えた “かに道楽”

2024-06-09 | 昭和・懐かしい大阪の風景

道頓堀に行って驚いたことが、平成4年(1990年)2月にありました。

あの有名な「かに道楽」の看板である「カニ」が消えていたのです!

大阪の人なら大笑いしたCMが、この時TVで流れていたので、覚えている方も多いと思います。

JR東海の大阪発のキャンペーン「消えたかに道楽」でした。「かに道楽」の動くカニの看板が、各地を旅する設定で、広告展開中はカニの看板が外されたままになっていました。面白い企画だと大笑いしましたが、地方から大阪に来て、ここで記念撮影をしている人の中には、「カニ」がいなくて残念そうにしている人も多かった。

いつでも見ることが出来る大阪人には笑えても、旅行者には迷惑になったようです。でも、「かに道楽」にとっては抜群の宣伝になったでしょうね。

 


大阪駅前地下通路 ~松葉

2024-06-04 | 昭和・懐かしい大阪の風景

大阪にはいろいろなユニークなお店があります。こんな狭いスペースに、こんなお店が!・・・というのは、大阪のお得意(笑)「アリバイ横丁」も、阪神梅田駅コンコース脇の、各種飲食店が並ぶ「フードテリア」もユニークでした。今も残る「新梅田食道街」も。

また、大阪城や道頓堀の辺りで、無許可もしくは脱税しながら大儲けしていた飲食店もあれば、どさくさに紛れてお店を開店して、市政に睨まれながらもお客に愛されたお店もありました。

これは平成13年(2001年)2月の、串カツ店「松葉」の大阪駅前地下通路にあったお店です。懐かしいと思う人は多いと思います。地下道は、JR大阪駅と阪神百貨店の間の約220メートル。ここにいろんなお店が昭和にはひしめいて、繁盛していたのです。

このお店は駅前地下道開通当時の1949年から、この地で営業していました。約6平方メートルの「松葉」の通路の利用代金は年間約15万6千円で、一等地では破格の安さ!当時の「松葉」の売上高は年約1億3600万円、営業利益は約2200万円。

大阪市は「松葉」など同地下道で営業する飲食店などに、1年ごとに地下道の「道路占用許可」を出していましたが、阪神百貨店の建て替えに伴う地下道の拡幅工事のため、占用許可の更新を平成27年9月で打ち切りました。このため、旅行に行かなくても各地のみやげが買えるとして「アリバイ横丁」の名で親しまれたみやげ物店や古書店、薬局など大半の店は退去。

しかし、松葉など5店は営業を続け、松葉は「一方的に退去を決められた」として同年4月、同市に地下道占用許可更新を求め提訴。大阪地裁で争いました。

「市は乱暴過ぎる」「明らかに不法占拠」等、多くの人々の声が上がりましたが、最後は「松葉」が自主的に退去すると市に申し入れ、庶民の味として親しまれてきた名物店は、平成27年(2015年)に60年を超す歴史の幕を閉じました。写真右の方に写っているチケット販売店「チケットショップオアシス」も、「市側との紛争を拡大するのは本意ではない」と、営業を終了したのです。

街の姿はどんどん変わります。昔の思い出を現在に残すことは、本当に簡単なことではありません。