青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

ジェフ・ベック来日コンサート 2009

2022-02-14 | 素晴らしかった興行・イベント

バレンタイン・デー、昔はともかく年老いた今でも、チョコレートを頂けるのはとても嬉しいものです。ありがとうございます。

バレンタイン・デーで思い出したのが、2009年2月6日と12日のジェフ・ベック来日コンサート。当時のベックは相変わらず気まぐれ。64歳にもなれば、もう少し丸くなれよと思いました。12日のコンサートでは、弾き始めたフレーズを突然やめたり、演奏で入るべきところに、入らなかったり。また間の悪いことに機材が不調で、ギター音に「ジーッ」というノイズが出た!演奏中にも関わらず、スタッフが復旧を試みるものの、ノイズが消えない為に、「機材が治ったらまた・・・」と言って観客に向って合掌して、途中で引っ込んでしまいました。

でも、見せ場はありました。「Behind the Veil」の後、「機材の調子が悪くてすみません」と謝り、復旧作業を眺めている不機嫌なベックを見て、ドラムのヴィニー・カリウタが突然ビートを刻み出したのです。そして、ベースのタル嬢が即座にそれに呼応し、即興セッションがスタート。すると、それを見たベックが、タル嬢の左に立ってネック側から腕を伸ばしてベースの低音弦を弾き始めた。するとタル嬢はハイポジションでソロを取る。分かり易く言えば、1本のギターを二人で演奏、つまり二人羽織奏法を披露したのです。これはサプライズでした。

タル嬢というのは、あの時の来日メンバーで特筆すべき、紅一点の若干23歳のベーシスト、タル・ウィルケンフェルドのこと。150数センチのその愛くるしい佇まいから想像出来ない的確なテクニックと、しなやかなリズム。さすがチック・コリアやオールマン・ブラザーズ・バンドと共演しただけあって、来日前から彼女目当ての観客が多かった。

ジェフ・ベックの3年半ぶりのジャパン・ツアー初日6日の公演は満員御礼ソールドアウト!5,000人の観衆。会場に訪れていたファンのほとんどが、チョイ悪親父風の50~60代。しかしこんなに雰囲気の良いROCKの会場も近年にない感じでした。後半に掛けて徐々にノってきたのが手に取るように分かったコンサートでした。



来日メンバーは4人。Jeff Beck(g)、Tal Wilkenfeld(b)、David Sancious(key)、Vinnie Colaiuta(dr) 。笑ってしまったのは、照明が落ちた途端に客席からベック・コールではなく、タルちゃんコールが起きたことでした。みんなが注目していたのは分かりますが、すっかり人気者になっていました。

オープニングは定番となっていたジミー・ペイジ作の「Beck's Bolero」。まさにベックの音としか言いようのないギターの音色。ピックをほとんど使わない演奏に加え、アームとスライドを多用して演奏する。このあたりの演奏はクラプトンとは趣が違います。昔懐かしい『Blow By Blow』や『ワイアード』からの選曲が懐かしい。

MCは一切無く、次から次へと演奏が続いて行き、「Cause We've Ended as Lovers」あたりから会場も盛り上がって行く。MCが無かったと言うより、ベックが喋ったのはアンコール前のラストで、メンバー紹介をした時だけでした。あ、最後の最後に「THANK YOU」とも言いました。(笑)ショーは約1時間30分、観客を魅了しました。

 

2009年2月6日@東京国際フォーラムホールA セットリスト

1. Beck's Bolero
2. The Pump
3. Eternity's Breath
4. You Never Know
5. Cause We've Ended as Lovers
6. Behind the Veil
7. Blast from the East
8. Stratus
9. Angel
10. Led Boots
11. Nadia
12. Snake Oil
13. Goodbye Pork Pie Hat / Brush with the Blues
14. Blue Wind
15. A Day in the Life
- - - - - - - encore - - - - - - -
16. Where Were You
17. Big Block
18. Scottish One


素晴らしかった “ジョン・レノン・ミュージアム”

2022-02-12 | 素晴らしかった興行・イベント

昔、2007~2008年頃、埼玉にあるジョン・レノン・ミュージアムに、何度か足を運びました。何度行っても素晴らしいミュージアム。オノ・ヨーコが世界で唯一公認して、多くの遺品を展示していた場所です。アメリカやイギリスのファンがそこを訪れたら、きっと驚いたに違いありません。

ジョンが生まれて初めて手にしたギター、彼の通知簿、学校のノート、ビートルズ来日時のコンサート衣装、4人のサイン入りレコード、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのジャケット衣装、愛用のめがね、ヨーコのアート(有名なYESのアートの再現を含む)、イマジンなど多くの曲の草稿・・

本物のゴールドレコード、プラチナレコード、グラミー賞のトロフィー(ダブル・ファンタジー)、ジョンのパスポート、運転免許証、愛用のバイク、グリーンカード、クレジットカード(カタカナの本人直筆署名入り)、ジョン直筆のイラスト、多くのギター・・・全てが本物で、ヨーコ秘蔵の品約130点が展示されていたのです。世界一のミュージアムだったと思います。

僕も多くの品々を約2時間で見て回りました。海外からのファンの姿も多く、ファイナル・ルームには、ジョンが残したメッセージが、壁一面に日本語と英語で書かれていて、感動したのを覚えています。

ラウンジではジョンの音楽を無料でCDを借りて聴くことも出来たし、ギターに触れることも可能でした。そうそう、「オノ・ヨーコの歌声を聴きたいね」と話していたビートルズの初心者ファンであろうカップルがいたので、ダブル・ファンタジーから「キス、キス、キス」を聴かせてあげました(笑)

素晴らしいミュージアムでしたが、2010年2月、入館者数の減少などを理由に同年9月末での閉館が発表されました。閉館の報道後から来館者が増え始め、最期は1日平均100人前後だった来館者が「夏休み以降は平日でも1,000人ぐらい入るようになった」(担当者)という盛況ぶり。国内外からファンが訪れ、9月上旬には来場者60万人を突破しました。そして、閉館を飾る最終日にはオノ・ヨーコが、「ジョン・レノン・ミュージアムを愛してくださった方々に」とのメッセージを、自身のツイッターで公開しました。

■ジョン・レノン・ミュージアムを愛してくださった方々に 2010/09/30

ジョン・レノンは世界中をめぐる運命を持っていました。彼の魂は動くことによって継続していたのです。動かないと死んでしまう。ジョンの精神が宿るミュージアムも動かないとミュージアムではなく、お墓になってしまう。ジョンにはお墓はないのです。彼が息を引き取ったとき、私は「ジョンの葬儀は行ないません」と世界に向けて言いました。それは、ジョンの魂が永遠に生き続けることを知っていたからです。

ジョンの魂は、10年を節目にしてここからも離れて行きます──次の旅を見つめながら…。まず、5年と思っていたのが、みなさんのミュージアムへの愛によって10年になったのです。

このジョン・レノン・ミュージアムを愛してくださったみなさん、深く感謝しています。あなたがたひとりひとりの中にジョンのスピリットが受け継がれ、そのみなさんのスピリットが、世界の平和が実現していくための愛の力になることを信じています。みなさん、ありがとう!

愛をこめて…
オノ・ヨーコ

ジョンの生誕60周年の2000年10月9日、妻オノ・ヨーコさんの全面的な協力を得た公認博物館として「さいたまスーパーアリーナ」内に開館した「ジョン・レノン・ミュージアム」でしたが、2010年の閉館の理由は入館者数の減少というのが本当に残念!

こういう著名人の資料館は全国各地に多くありますが、その多くがコロナ禍に関係なく、それ以前から次々と同じような理由で閉館の憂き目にあい続けています。史料館、博物館が1つでも多く継続し、人々にいろいろなことが語り継がれて行って欲しいと心から願って止みません。


Billboard Live 大阪 ~カーラ・ボノフ

2022-01-24 | 素晴らしかった興行・イベント

大人の社交場・・それで思い出したのが、大阪の「Billboard Live 大阪」です。往年の大物歌手のステージが、温かい空間で時の流れに身を任せるように堪能できる。初めて行った時は、食事をしながらステージを聴く?アーティストに失礼だろうと思いましたが、慣れとは怖いもので・・。僕はBOXシートか、カジュアルエリアから楽しんでいました。ニューヨークでジャズを聴きながら食事だと、何とも無いのですが、日本国内で飲食しながらコンサートを楽しむのは、何か落ち着かない気分になります。

大阪のビルボードには何度も足を運びましたが、1番良かったのはカーラ・ボノフ!2016年1月18日のステージでした。

曲を聴きながらA3サイズのメニューの裏に、びっしりと演奏の感想と、これまでの彼女の活躍に対する意見を書き、ダメ元で電話・メルアドも書いて演奏後に手渡すと、暫くすると本人からの電話が掛かって来ました。帰り道だったので、最寄りの駅で降りてホームで会話しました。

それで翌日もチケットを手配して頂き、2日連続でステージを楽しんだことは思い出です。僕は英語が話せて損をしたことがありません!コロナ禍において、帰宅が早くなった方、外出する機会が減ってしまった人は世の中に大勢います。その中には、この機会に英語をマスターしたり、資格を取ったり・・・アフターコロナ後の社会のことを考え、転職に備えて努力をしている人が多いことも聞きます。

カーラ・ボノフ・・・もっと売れても良かったのに、日本ではリンダ・ロンシュタットなどに曲を提供した、ソングライターのイメージの方が強いのでしょうか?

写真は記念に頂いたCDです。「Billboard Live 大阪」、東京には「Billboard Live 東京」があり、どちらかに足を運ばれた方は多いと思います。あなたのお気に入りのステージは?

僕はJ.D.サウザーや、ジャズのヘイリー・ロレンのステージも良かった!シーナ・イーストンはイマイチでしたが。2014年2月25日ビルボード大阪での、カーラ・ボノフとJ.D.サウザーのジョイント・コンサートは最高でしたが、あれも演っていない、これも演っていないと贅沢な文句を言いたくなりましたので、やはりアーティストは1人でOK。大昔、甲子園球場で観た「カリフォルニアLIVE」(1981.9.13)を思い出します。

僕は臆病なので、コロナウイルスが蔓延し始めた2020年から2年少し今日まで、映画館もコンサートも観劇も観戦も控えています。安心して会場に足を運ぶことが出来る日が、1日も早く戻って欲しいと願いながら、不要不急の外出は控えています。


愕然!ポール・マッカートニー逮捕!

2022-01-16 | 素晴らしかった興行・イベント

学校をサボる・・・経験ありますか?

僕はアントニオ猪木ーモハメッド・アリの世紀の一戦を観る為に、学校を仮病で早退しました。土曜日なので午前授業ですが、授業が終わってからでは午後1時というTV放送開始の時間に間に合わなかったからです。

そして、もう1つ。1979年の冬、ポール・マッカートニーの来日が遂に決定!

学校を休み、友人たちと交代でプレイガイド前に数日並び、苦労して手に入れたのがこのチケットでした。後から1月28日の大阪フェスティバルホールのチケットも追加で入手。2度も観に行く機会に恵まれました。

昔はコンサートのチケットはネットはおろか、電話でも買えませんでした。プレイガイドに並んで買うのです。「チケットぴあ」も無かった時代です!何日も前からプレイガイドの前に並び、苦労してコンサートのチケットを入手したのに、そのコンサートが中止!そんなアホなことが起きました。

しっかりチケットを確保して、後は来日公演に行くだけ!

1980年1月16日、きっとポール来日のニュースがあるはずだと、夕方のニュースを見るためにTVの前に座っていると・・・

この画面が目に飛び込んで来ました!

1980年1月16日14時58分、到着予定時刻から13分遅れて、米ニューヨーク発801便パンアメリカン航空機が新東京国際空港(現在の成田国際空港)に着陸、38番ゲートに到着しました。ウイングスの日本公演のために、ポール・マッカートニーが愛妻の故リンダと共に来日したのです。

入国審査で2時間も足止めされ、税関で持ち物の検査を始めたら、ポールが急にキョロキョロ落ち着きを失いはじめた。不審に思った係員がスーツケースを調べたところ、まずはポールの着替えのタータンチェックのスーツにくるまっっていたビニール袋が発見され、別室に連行される。さらに、調べてみると、紙袋の中からもビニール袋が見つかり、化粧バッグ、ポールの着替え用上着にも大麻が発見される。

そして17時15分、関税法違反、大麻取締り法違反の現行犯で逮捕・拘束されました。

ポール・マッカートニー成田で逮捕!のニュース速報が流れた時は、目の前真っ暗。いろんなニュースで「日本を馬鹿にしてる」とか叩かれましたが、チケットを入手出来た僕らこそが、1番悲しい思いをしたのではないか・・と今でも思います。

ポールには、2014年の5月24日ヤンマースタジアム長居もチケットを入手していたのに、「ウイルス性炎症」(詳細については公表されなかった。日刊ゲンダイは、ポールが腸閉塞を発症し緊急手術を受けていたと報道も真偽のほどは今日も不明。)で中止にされました。

2017年4月25日 日本武道館の時は、開演が2時間も遅れて演奏時間が短縮されました。ポールは決して真面目な外国人ではありません。(笑)


大阪フェスティバルホール ~昭和の最高のコンサート会場!

2022-01-15 | 素晴らしかった興行・イベント

これまでに僕は洋楽を中心に、かなりの数のコンサートを観て来ました。サンケイホールのように小さな会場からドームという大きな器まで、いろいろな会場に足を運びましたが、1番のお気に入りは大阪・中之島のフェスティバルホールです。

錦橋の奥にあるフェスティバルホールは昭和33年に開館しました。壁面の巨大な「陶板」のレリーフは、建畠覚造ら行動美術協会の彫刻家たちが制作した「牧神、音楽を楽しむの図」。その写真は昭和39年(1964年)のもので、看板は第7回大阪国際フェスティバルのもの。この年の4月11日から5月4日まで開催され、クリュイタンス指揮のパリ音楽院管弦楽団、アルヴィド・ヤンソンス指揮のソビエト国立交響楽団が来演しました。

写真の左端には、戦前からの古い朝日新聞社の1部が写っています。

僕が初めてここを訪れたのは、1973年11月30日・ポール・モーリア・オーケストラのコンサートでした。1976年12月3日のオリビア・ニュートン・ジョンのコンサートは、初めて自分の小遣いでチケットを買ったコンサートで、2800円でした。

1977年11月6日にはカラヤン・ベルリン・フィル。1978年10月24日には2度目のオリビア。1979年3月6日には、僕が大好きなリンダ・ロンシュタット。1980年にはアルバイトで稼いだお金で、母親にリチャード・クレーダーマンのコンサートをプレゼントしました。同年11月13日には、今もよく聴いているジャクソン・ブラウンの「Hold Out Tour」。ジャクソン・ブラウンのコンサートには、この時から2017年の来日コンサートまで来日のたびに行きました。この時は生まれて初めてセットリストをメモ、今もそれは残っています。

Take It Easy/Fuse/For Everyman/Here Comes Those Tears Again/Fountain Of Sorrow/Your Bright Baby Blues/You Love The Thunder/Call It A Loan/Of Missing Persons/Disco Apocalypse/
That Girl Could Sing/Hold Out/Boulevard/Doctor My Eyes/Running On Empty/Sleep's Dark And Silent Gate/The Pretender/Hold On Hold Out/The Load Out/Stay/The Road And Sky

それ以降、1981.5.2 ロッド・スチュワート、1981.10.25 ポール・モーリア、1981.12.1 エリック・クラプトン、1982.3.13 ボブ・ジェームス、1982.3.30 ジョニー・キャッシュ、1982.4.12 ジャーニー、1982.5.1 エア・サプライ、1983.12.13 ライオネル・リッチー、1984.2.24 ウィリー・ネルソン、1985.10.5 ケニー・ロジャース、1986.6.30 ハート、1987.1.26 ジャクソン・ブラウン、1987.5.6  デビッド・フォスター&リー・リトナー、1988.11.22 チープ・トリック、1989.10.12 ジャクソン・ブラウン、2003.4.7オリビア・ニュートン・ジョン、2003.4.28 ジャクソン・ブラウン、2005.2.7 中島みゆきと楽しんだ所で・・・

老朽化による建て替えのため、開館50周年を迎えた2008年いっぱいで一旦閉館しました。

閉館から4年経った2012年12月に2代目ホールが完成。僕がここに帰って来たのは、2015.3.16 ジャクソン・ブラウンのコンサートでした。そして、2015.4.23 オリビア・ニュートン・ジョンまで、僕はこのホールでコンサートを楽しんで来ました。(コンサート以外でも、ここで楽しんだ公演もあります。)

90年代に入ってからフェスティバルホールでのコンサートが減っているのは、大阪城ホールや大阪ドームが出来たからです。でも、本当に綺麗な音でコンサートを楽しむことが出来たのは、フェスティバルホールでした。初代のホールは、1階席の奥や2階席が急勾配となっていて、そのためホールにある2700席の座席全てからステージがよく見え、音の響きも常に均一だったそうです。

コロナウイルスのせいで外人ミュージシャン、特に僕が好きなアーティスト達はただでさえ高齢なので、もう2度と来日しないでしょう。彼らのコンサートを観ることが出来ないかも知れないと思うと、それは人生の大きな損失だと残念でなりません。