「野生時代」2004年8~10月号連載、390頁。
過日、同氏が亡くなったことをニュースで知り、もう一度同氏の傑作「人間の証明」を読みたいと思い図書館から借りて来たら、21世紀版とかでまったくの別物であった。
ドラマチックな展開や軽妙な語り口は同氏のものだが、やはりデビュー当時の感性は失われており、こんなはずはないとの思いながら読んだ。
1975年当時の物語の下地となった西條八十の詩を掲載して、同氏の冥福を祈りたい。
「ぼくの帽子」~ 西條八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷(うすい)から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。
詩はネットから拝借しました。