ガジ丸が想う沖縄

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暴力による支配2

2017年06月09日 | 通信-社会・生活

 5月26日付ガジ丸通信『暴力による支配』で「暴力による主従関係が現代でも正しいとされるならば・・・云々」と書いたが、暴力による主従関係から連想したことがある。それは、学校での教師による生徒への体罰。私の経験ではその全てがとは言わないが、その一部は「暴力による主従関係」を強いるものであったと覚えている。中学の頃、所属している部活に不良先輩がいて、彼の暴力はまったくそれ、「俺のいうことを聞け、さもないと殴るぞ」という暴力だった。今思えば「野蛮人め!」と怒鳴ってやりたい。

 中学の頃、私は何人もの教師から数え切れないほど体罰を受けた。私はけして不良少年ではない。むしろ、暴れたり騒いだりはちっともしない、静かで大人しい少年だった。私はただ、怠けものであった。宿題はしない、遅刻はする、授業中、教師の話をきかない、時には居眠りしている、そんな少年だったので、教師のビンタをよく喰らった。
 ビンタは痛いだけで、マゾではちっともない(サドでもない、暴力反対主義だ)私はちっとも楽しくなかったのだが、学校の勉強はビンタよりなお嫌いであった。「ビンタされてもいいから宿題はしたくない、勉強もしたくない」少年であった。
 私の頬を叩いた教師、誰一人名前を覚えていないが何人かの顔は思い浮ぶ。あっ、1人の名前を思い出した、中三の時の担任、K先生、彼にもたくさんビンタされた。K先生ともう1人、若い体育教師のビンタには特に悪い印象を持っていない。しかし、若くない体育教師も含めたその他の教師たちのビンタは、腹立つものが多かったと覚えている。「言うことを聞け!殴るぞ!」といったような体罰だったような気がする。
     

 「躾のためには体罰も必要、躾はその子のためになること」というのが教師の言い分かもしれないが、それは暴力によって、あるいは、暴力の恐怖によって子供を従わせるということである。それは「暴力による支配」に他ならない。そういった教師が多かった。私の記憶で言えば、私は教師に恐怖を感じ、教師全般が嫌いであった。
 一方、体罰を受けても、さほど恐怖を感じない教師も少なからずいた。上に挙げたK先生と若い体育教師(以降、体育なのでイニシャルをTとしておく)は、これも私の記憶で言うが、K先生とT先生の目には狂気や憎しみは感じられなかった。小学校1年から中学校3年まで勉強嫌い、先生も嫌いの私が、その間、たぶん20数人(担任だけでなく各教科も含む)の先生と関わったが、その中で唯一、T先生は好きだった。
 T先生は普段は優しかっが、ルール違反に対しては厳しくて、私は、はっきりは覚えていないが、たぶん、5~6回はビンタされている。でも、子供なりに彼の言うことは正しいことと納得できたと思う。少年は、彼にビンタされて品行を正すこととなった。
     

 ということで、私は体罰の全てを否定するものではない。愛情ある体罰も存在するものと信じている。親が我が子のお尻をペンペンするのもその1つだと思う。それこそ、「躾のためには体罰も必要、躾はその子のためになること」そのものだと思う。
 ところが、怒り任せに子供を殴る親がいるということも私は承知している。怒り任せに妻を殴る夫がいることもマスコミからの情報で私は知っている。「俺に逆らうな!」と言って殴る夫も多かろう。そんな人は、支配者になりたがっている人なんだと思う。
     

 記:2017.6.9 島乃ガジ丸