玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

巻口弘『満州柏崎村の記憶』

2015年09月10日 | 玄文社

 

 旧満州柏崎村開拓団慰霊式典実行委員会は8月29日の慰霊式典に併せて、巻口弘著『満州柏崎村の記憶――巻口弘の体験と子ども達の手紙』を刊行しました。玄文社が編集・制作を担当しました。四六判134頁。
 満州柏崎村開拓団は当時の国策に従って、1942年に柏崎市と柏崎商工会議所が中心となって送り出したもので、柏崎から200人以上の転業者とその家族が旧満州に渡り、122人が極寒の地で命を落としています。巻口弘さんはその一人で、8歳で家族とともに満州に渡り、終戦時のソ連の侵攻で悲惨な逃避行を強いられ、10年間中国残留の体験をされた方です。現在では唯一人の生き証人と言ってもよいでしょう。
 本書は巻口さんが柏崎市のコミュニティ放送「FMピッカラ」に出演して語った体験談と、市内の小中学校での講演後、児童生徒からもらった手紙とそれに対する巻口さんの返事、旧満州関係の年表を含む資料の三部構成になっています。巻口さんの履歴と満州柏崎村の年表は本書で初めてまとめられたもので、貴重な資料となっていると思います。
 非売品ですが、ご希望の方は巻口さんにお問い合わせ下さい。
〒945-1102 新潟県柏崎市向陽町3345-21 電話0257-23-1616

 

 8月29日の慰霊式典は、1988年に柏崎市赤坂山の市立博物館脇に建立された「満洲柏崎村の塔」の前で挙行されました。建立から毎年碑前祭が行われてきたのですが、10年前に休止となり、今年は戦後70年の節目ということで、柏崎市が実行委員会を組織して行われたものです。実行委員長は西川勉さん、巻口さんは副実行委員長を務めました。関係者や一般の方を含め約80人が参列して、犠牲者の霊を弔い、平和への誓いを新たにしました。

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山尾悠子『山尾悠子作品集成』(18)

2015年09月10日 | ゴシック論

「巨人」は1979年に書かれた作品で、その2年前1977年には「堕天使」という作品が書かれている。非常によく似た作品で、主人公もKという記号として登場するし、一方は堕天使、もう一方は巨人という設定の違いだけで、ストーリーにも共通性がある。
 堕天使Kにはセリという女マネージャーがついていて、Kの芸を〈社長〉に売り込むというところも「巨人」の設定と似ている。Kが〈社長〉を背中に乗せて飛び回るところも、「巨人」のKが偽の〈帝王〉を肩に乗せて巨大化する場面とよく似ている。
「堕天使」でKは、天使→堕天使→人間と落ちぶれていくが、そこが「巨人」との決定的な違いである。堕天使Kはセリが冷蔵庫に残していった大量の肉と野菜を腹に詰め込む時、その空腹感が人間に固有のものであって、天使のものではないことに気づく。Kの羽根はその時ごっそり抜け落ち、二度と飛ぶことが出来なくなるのである。
 Kは〈社長〉に対して飛行の謝礼を求めるが、社長は「わしはもう、君など必要としないのだよ」という言葉を浴びせ、セリがすでにKの替わりを調達していたことを知る。
「堕天使」で行使される山尾の想像力は、すべて人間的なスケールの範囲に収まっていて、いかに背中に羽根の生えた天使を登場させようが、その想像力の及ぶところは寓意の範囲に止まるものでしかない。
 この作品はジュニア小説として書かれたものだというから、山尾悠子にとってもどこまでも想像力を拡張させる場ではなかったのであろう。だから「堕天使」という作品は「巨人」という作品として書き直される必要があった。
「巨人」にあって山尾の想像力は人間的なスケールの範囲に止まることはない。山尾悠子の真骨頂である。人倫を超えた想像力の行使は、「巨人」を人間の物語にさえ止まらせないものがある。
 最後に「巨人」のKは「堕天使」のKと同じように空腹感を覚えるのだが、その空腹感は人間のスケールを超え出ている。
「その時、Kの体内に息を潜めていた底深い空腹感はたちまち胴の表皮に内接する一本の空洞にも似た空虚となってそこに大きな位置を占めた。人間の風景の中へと降りてきて以来人間の基準に合わせた食事でしか補充されていなかったその空虚は、今や食べ物であるか否かにかかわらず外界のすべてを吸引しつくしてしまうばかりに奥深いものと化し、それは空虚のかたちを取った巨人の寂しさとも思われた」
「堕天使」のKが冷蔵庫の中身を喰う空腹は、人間の空腹そのものでしかないが、「巨人」のKの空腹は人間の空腹を超えて、なにものかの象徴となりうるだろう。山尾の作品にあって、その人間のスケールを超えた想像力は、それが紡ぎ出す言葉に詩的な価値をさえ与えるだろう。最後に巨人Kが口にする言葉は次のようなものだ。
〈さしあたり、地上に出てから自分のなすべきことはまずその場のすべてのものを喰いつくすことだ。たとえそれが食べ物であろうと風景であろうとも〉
 巨人の内部の巨大な空虚は地上のすべてのものを喰いつくそうとするだろう。
それが彼の第一歩となるだろう。
 そして山尾の文章は単なる寓意に止まることなく、その特異な想像力によって文学のメタファーとしての価値を獲得するのである。

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