1980年に書かれた「破壊王」三部作は、本来は中編四作を連ねた連作長編として構想されたものだという。山尾悠子にしては非常に物語性の強い作品であり、その分山尾特有の想像力は影を潜めているとも言える。
『山尾悠子作品集成』に収められたのは「パラス・アテネ」「火焔圖」「夜半楽」と「繭」の四編である。もともと「繭」という作品は前三作と同じくらいのボリュームの「饗宴」という中編として書かれるはずであった。しかし山尾は自分に長編作家としての構成力がないということを自覚し、「饗宴」の完成を断念、替わりに「繭」という作品を仕上げた。
だから、「繭」は「パラス・アテネ」「火焔圖」「夜半楽」とは文体も雰囲気もストーリーもまるで違ったものとなっている。確かに読み比べてみると、作品の密度といい、文体の華麗さといい、三作は「繭」に遠く及ばない。山尾悠子にストーリー・テラーとしての資質を求めては本当はいけないのだ。
しかし「パラス・アテネ」だけは、彼女の特異な想像力を全開にしていて、怪しくも美しいイメージに溢れている。しかも「繭」に出てくる"人間を孕む繭"を先取りしているから、「繭」に直結する作品とみなすことも出来る。「パラス・アテネ」もまた、"繭"に収斂していく作品なのであるから。
「パラス・アテネ」は"繭"ともうひとつ"狼"の物語でもある。狼のイメージが全編を支配している。古代中国を思わせる舞台設定となっていて、領王の宮殿には狼だけが通ることの出来る門がある。
「――月と潮の満ちる夜、北の方、狼領と呼ばれる地より降りきたった豺狼の群は、月下の狼門をくぐる。"四つ足のものはこの門より入るべし"とかつて金文字を打ち込まれた真北の門、昼夜わかたず常に北方にむけてあけ放たれているこの狼門より馳せ下った狼群は都の大路を疾走し、雲間に照り翳りする月の光を波のように浴びて、声もなく四つ脚の影を石畳に踊らせたのだ」
領地は狼に取り憑かれているのである。領地だけでなく登場人物も、あるいはこの作品自体も。そして狼のテーマに繭のそれが絡んでくる。「狼領に棲む一族が、人間でありながらその生涯に一度だけ繭籠もって変態を遂げる」という噂があり、その噂どおりのことがこの作品では起こるのである。一族の一人が繭化する場面は次のように描かれている。
「繭籠もる前の蠶の白蝋色、と二位(登場人物の一人)の言った――その潤んだ皮膚の上で、眉が溶けだしていた。睫が溶け、瞼の縁が柔らかく粘液を分泌して、見る見る両目が塞がっていく。熱を受けて煮とろけていく一本の蝋燭にも似たさまに、髪は皮膚に貼りついて平たい膜に変じた」
このグロテスクな描写はすでに、山尾の「黒金」で我々が眼にしたものであり、「黒金」にも狼の死骸が出現していたことを思い出してもよい。そして「狼の中には繭から生まれ出るものもある」と登場人物の一人は言うのであり、ここで山尾は狼のテーマと繭のテーマを交叉させようとするのだが、あまり成功しているとは言い難い。
二つのテーマを結着させるために山尾は、繭籠もる前の人間に現れる"赤狼斑"や"狼瘡"を持ち出すのであるが、やや強引に過ぎる。しかし、人間の繭化の場面は凄惨であると同時に美しく描かれる。
「はじめ、夥しい蜘蛛の巣かと思われたものは、すべて壁に天井にと縦横に張りめぐらされた、繭の重みを支えるための糸の束だった。破れた海藻にも似て、びっしりと仄白い微光を走らせる繊維の錯綜のそこかしこに、白い人身大の繭が数も知れず静まっている。灯もなく窓もないこの部屋にところどころ燐光が瀰漫しているのは、その繭の幾つもが新生の時を控えて発光しはじめているためだった」
この部分のイメージが短編作品となった「繭」で繰り返されることになる。