玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(2)

2015年09月25日 | ゴシック論

 まず『モレルの発明』から読んでいくことにするが、なぜこの項の見出しとして『モレルの発明』というタイトルを立てないかと言えば、私にはそれよりも同作の5年後に書かれた、同工異曲の作品『脱獄計画』の方が優れた作品だと思われるからである。
『モレルの発明』の舞台は、語り手である主人公がそうだと思い込んでいる、南太平洋のエリス群島のヴィリングス島という孤島(群島の中のひとつだから正しくは孤島ではないが)である。『脱獄計画』の舞台もまた孤島(こちらも群島のひとつ)であって、孤島という閉鎖空間を舞台にしているところに、ビオイ=カサーレスのゴシックへの傾きがあるとは言えるかも知れない。
 我々はそこでハーマン・メルヴィルの「エンカンタダス」を思い出すことも出来るわけだが、孤島である必然性は『脱獄計画』の方に高く、『モレルの発明』の方に低い。『モレルの発明』の主人公は政治的逃亡者で、いつでも身を隠していなければならない立場にあるが、必ずしも孤島である必要性を感じない。
『脱獄計画』の舞台はフランス領ギアナ、カイエンヌ沖合の群島で、そこは牢獄島として管理されている。誰が見ても閉鎖空間としての特徴は『脱獄計画』の方が強いのである。
『モレルの発明』を我々は幻想小説として読み始めることになる。ヴィリングス島には博物館、礼拝堂、プール、そして海岸にはポンプと発電設備があり、主人公はその間を往還する日々を送っている。ある日突然、主人公は複数の男女に出会うが、彼らは彼の存在に気づくそぶりもない。
 主人公はやがてその中の一人フォスティーヌという女を愛するようになるのだが、彼女は彼を一顧だにしない。彼女は彼が存在していないかのように振る舞うのみで、会話を交わすことさえ出来ないのである。
 そんな中で主人公は自分が疫病に冒されて錯乱したか、透明人間になってしまったかと疑うことになるが、そこで、読む我々は徐々にあることに気づいていくのである。
モレルとはフォスティーヌが親しくしている男であり、その"モレルの発明"がタイトルとなっている以上、このあり得ない現象はモレルの何らかの発明に関わるものに違いない、ということに気づかざるを得ないのである。
だから幻想小説として『モレルの発明』は読み始められるのだが、後半では「この小説には必ず種明かしがある」と思われてしまい、SF小説あるいは推理小説として終わるだろうという予測が立ってしまう。そこがこの作品の大きな欠点であるだろう。
 なぜそれが欠点であるかと言えば、多くのSF小説や推理小説と同様、謎が解明されるときに、それまでの小説の細部がほとんど無意味なものとなってしまうからである。謎とその解明だけが表舞台に出てしまい、他のテーマがどうでもいいものとなってしまう。
 たとえば主人公のフォスティーヌに対する愛がこの作品のテーマだという者もいるが、それはゴシック小説が多く描いてきた肖像に対する愛や鏡像に対する愛とどこが違うというのだろう。
『モレルの発明』に形而上学的な探求を見る者さえいるが、意思の疎通が不可能な対象に対する愛の物語は多くのゴシック小説が描いてきたものであって、要するに『モレルの発明』の新しさは、モレルが発明したホログラム装置が現出させる幻想世界にしか、残念ながらないのである。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(1993、現代企画室)鼓直・三好孝訳