玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(5)

2015年09月30日 | ゴシック論

 やっと『脱獄計画』にたどり着いた。この小説の舞台は前にも書いたように、南米フランス領ギアナ、カイエンヌ沖のサルヴァシオン群島で、サン・ジョゼ島、レアル島、悪魔島の三島で出来ている。
 悪魔島というのはフランス語でディアブル島であり、1894年にフランスで起きたドレフュス事件(表記は『脱獄計画』と違うが通例にならう)の主人公、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉が冤罪で1895年から1899年まで収監されていた島である。この作品にはドレフュスとよく話をしていたために、ドレフュース(こちらが本書の表記)というあだ名で呼ばれる人物さえ登場する。
 実際にフランス史上もっとも悪名高い流刑地で、三島とも監獄島として厳重に管理されていた(映画「パピヨン」の舞台にもなった)。ビオイ=カサ-レスがそうした歴史を背景にこの群島を舞台に据えたことは、脱獄不可能と言われたこの島のゴシック的性格を最大限活かそうとしたためと思われる。
『モレルの発明』の舞台は別に島でなくてもかまわないが、『脱獄計画』の舞台は閉鎖空間としての島でなければならないし、H・G・ウェルズの『モロー博士の島』へのオマージュとしても、舞台を島に設定する必要があった。
 ドレフュス大尉のように冤罪によって一時パリを離れ、サルヴァシオン群島への赴任を命ぜられたアンリ・ヌヴェール大尉は、島に到着するやいなやそこが陰鬱な空気に支配されていることに気づく。次のようなヌヴェール自身の言葉は、ゴシック小説の常套的な前触れとしての性格を持っている。
「レ島(レアル島)を発ってからすべてが不吉な様相を呈していました。しかし島影が見えた時、不意に憂鬱な気分に襲われたのです」
 悪魔島にいるカステル総督が島全体に〈迷彩(カムフラージュ)〉を施している事が大きな謎を呼び、不穏な空気を掻き立てる。そして島の囚人達の多くが狂人と化しているが、カステル総督自身も狂っているのではないか? 
「長椅子とぼろの置かれた狭くて湿っぽい独房に閉じこめられ、波の音と精神異常者たちの絶え間ない叫び声とを聞きながら、その爪で壁に名前や数字を書きつけるのにも疲れてぼうっとしている囚人たちを、ヌヴェールは見かけた」
 こうして小説は次第に陰鬱な空気を重層化させ、徐々に謎を深めていく。この辺りにもゴシック小説の伝統に従って書いていこうという作者の意図が窺える。
『脱獄計画』は『モレルの発明』のように"種明かし"を予感させない。実際には小説の最後に"種明かし"はなされるのだが、それがあまりにも途方もないものであるために、読者はその"種明かし"の内容について『モレルの発明』の場合のように予見することがほとんど出来ない。
「総督は〈悪魔島〉で謎めいた作業に没頭していた」と「3」の冒頭に示されているが、ヌヴェールにも読者にもその作業というのが何であるのか、さっぱり分からない。ヌヴェールはそれでも悪魔島への接近を試み続けていくが、そうすればそうするほど一層謎は深まっていくのである。

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