玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(20)

2015年09月16日 | ゴシック論

「繭」は次のように始まる。
「そして一生の驕りをきわめた四十九日間の籠城ののち、世界の大火を背に、一組の男女が眼と耳を覆って黒い魂の森へとのがれた」
 省略がある。本来なら「一生の驕りをきわめた四十九日間の籠城」の過程が描かれていなければならない。そうでなければ「パラス・アテネ」「火焔圖」「夜半楽」の三編に拮抗できるはずもないのだから。
 しかし「繭」が完成されなかった「饗宴」の省略版であるならば、いたしかたない。その替わりに山尾悠子はこの短い作品に文体の壮麗と典雅のすべてを賭けていく。
 画数の多い漢字が多用され、やたらとルビが多くなっていく。四十九日間の籠城と、その間に城内で催された連日連夜の饗宴は次のように要約されている。
「日を重ねても、門外には哀訴と火を噴く呪詛との声々が立ち去らなかったのだ。門の一重(ひとえ)を隔てた、餓死の呻(うめ)きから顔をそむけるためにも、酢と麝香(じゃこう)との豪奢に彼らは没入した。そして流動する夜の波間には眼を閉じて溺れた。その頭上にも、疫病(ペスト)禍は羽搏(はばた)く影の翼の交錯をもって跳梁した。夜々に荒廃し、衰弱していく運命の中で、人々は不思議に恍惚とその心に穏やかさが増すのを知った。高熱による黒焦げの貌を曝す屍(しかばね)は、金の杯を掌に握ったままその死をもって何者かを超越していったのである」(この部分だけルビを括弧書きした)
 このような硬質で壮麗な文体は、山尾の作品では特に「傳説」に見られるもので、彼女はここで「傳説」の文体を再現しようとしているのだ。「傳説」は1982年に書かれ、「繭」はおそらくこの『集成』に収めるために書かれたらしいから、出版年の2000年の直前、1999年に書かれたはずだ。
 一組の男女が落城の城を逃れて夜の闇の中を駈けていく。こうした設定も「傳説」と共通している。「傳説」と同じように命令形も使われていて、進みゆく女の想念は詩のごとき言葉を持って表されていく。
「わたしを巻き込む乾いた熱風の流れ 熱い灰を森へ 梢へ運び そのすがた黎明に溶けて 行方知らず交わり解れる わたしを聞けわたしを見てよ!
今より此処。朝毎に石に置く露ふふむ わたしと思え。
野をゆけば 突然にお前を追い越す風 その中空に呼ぶ声を振り向けば わたしと思え。」
 いつしか文章は読点も句点も、確かな文法さえ失って、祈願のような、哀願のような想念を孕んで詩となるだろう。
 男は死に、女は森へと向かう。人身大の繭のある森の中へ。物語は「パラス・アテネ」の世界へと還っていく。
「枯れ枝に火を移し、地面さえ蚕糸の漣が薄光る中を、彼女は眼の前の繭へと近づいた。その繭ひとつから、何故か縛られたように眼が離れないのだった。――指と爪で、意外な抵抗を持つ繭の腹を掻き破るうちに、粘液性の強靱な繊維は腕にも躰にも貼り付いてきた。触れた部分の皮膚にはりはりと密着し、絡みつき、次第に巻き込まれていく。口で呼吸し、一塊の橙黄の焔だけに照らされながら、やがて中に眠るひとを見た。裸かの膝を抱き、深い繭の眠りを眠る女を。娘は眼をみはった。
お あたし。あたしあたしあたしだ。」
 女は自らが安息する場所を繭の中に発見するのである。繭は眠りの場所であり、「パラス・アテネ」で示されていたように、そこから羽化し新生を遂げる場所でもあるのだ。