いっこうに『脱獄計画』の方へと話は進んでいかないので、やはりタイトルを『モレルの発明』とすべきだったかも知れない。まだ『モレルの発明』について言いたいことが残っている。
『モレルの発明』の翻訳者は、スペイン語は専門外であるはずのフランス文学者清水徹であり、清水の翻訳を牛島信明が校閲している。清水はこの作品によほどの執着があったようで、かなり長い解説も書いている。フランス文学者らしく観念的で、図式的な内容である。
清水は主人公のフォスティーヌに対する愛の中に、決定的な他者性を見、「語り手=私がフォスティーヌに寄せる愛は、人間関係における他者性というものをもっとも苛酷に示すかたちの愛にほかならぬ」と書き、この小説の結末部分(主人公はフォスティーヌに対する愛を貫くため、ホログラムが現出させる仮想現実の世界に参入しようとする)について「内部は完全に外部に吸収しつくされ、《外部》のみが永遠に残りつづける」と書いて問題を普遍化している。そして最後に次のような文章を書く。
「もしも《近代》を構成するパラダイムが、意識・時間・内面であるならば、そして、そのような《近代》の乗り越えが可能であるとすれば、次なる時代のパラダイムは、身体・空間・外部となるだろう。『モレルの発明』の物語は、語り手の《愛》への絶対的な献身の表明であると同時に、《近代》の乗り越えの物語でもある」
なんと事大主義的な論旨だろう。モダンを構成するのが《内部》で、ポストモダンを構成するのが《外部》であるから、『モレルの発明』はポストモダニズムへの超克の物語だという。こんな解説を事大主義と言わずしてなんと言えばいいのだろう。フランスのポストモダニズム思想にかぶれた清水の世迷いごとと言わなければならない。
まず、意識と身体、時間と空間、内面と外部というものが、二つの対立する項であるとする考え方自体が間違っている。身体もまた意識によって捉えられなければ身体として認識されることはないし、空間もまた時間(ベルクソン風に言えば持続)によって捉えられなければ空間として認識されることはない。そして外部もまた内面によって捉えられることがなければ外部として認識されることもあり得ないのである。
それら二対になった概念の一方を《モダン》に位置づけ、もう一方を《ポストモダン》に位置づけるような思考の遊戯は一時も早く止めるべきだと私は考える。
ところで、『モレルの発明』はH・G・ウェルズの『モロー博士の島』を思わせるタイトルになっている。ウェルズの作品は孤島に住むマッド・サイエンティスト=モロー博士が動物への改造手術を行って、人造人間を創り出そうとする物語であった。
このタイトルは『脱獄計画』の方にこそ相応しい。『脱獄計画』の悪魔島を支配するカステル総督もまた、モロー博士のように動物実験を行い、囚人達の脳への手術を行うことで、獄中生活を苦痛でないものに改変しようとする。
ビオイ=カサーレスがウェルズの『モロー博士の島』へのオマージュを作品にしようとして『モレルの発明』を書き、似たようなタイトルをつけたのは明らかであるが、作者にとっても『モレルの発明』では不十分だと思われたのだろう。だから五年後に『脱獄計画』を書く必要があった。