『モレルの発明』はゴシック小説というよりも、SF小説としての性格を強く持っている。だから『脱獄計画』の訳者の一人である鼓直は解説で次のような事情を明らかにする。
「『モレルの発明』と、その姉妹篇とも呼ぶべき『脱獄計画』とは、それら二種類の創意に満ちた〈発明〉のおかげで、ウルグアイとアルゼンチンを含めたラプラタ地域における、最初のものではないにせよ、もっとも成功した幻想的なSF的作品たりえたのだ」
『モレルの発明』をSF小説として見るならば、そこにはいわゆるセンス・オブ・ワンダーの要素が決定的に欠けていることが指摘されるだろう。ワンダーつまり不可思議を、日常性から遠く離れたものとして、あるいは常識に徹底的に抵触するものとして、または物理法則に反するものとしてさえ描いてみせることは、そうしたものの謎の解明以前に求められるSF小説の使命であるとさえ言える。
だから空想科学小説といえども、謎の解明にのみ集中していることは許されない。今日のSF小説ではセンス・オブ・ワンダーにのみ集中して、謎の解明をまったく行わない作品さえ存在する。読者にとってはセンス・オブ・ワンダーの方が重要な要素だからである。
『モレルの発明』がなぜに幻想小説として読み始められるかと言えば、そこには怪奇小説の持つ謎の雰囲気はあっても、より突き抜けたセンス・オブ・ワンダーがないからである。だからSF的な謎の解明が始まってしまうと興味は半減してしまう。
さらに『モレルの発明』には推理小説的な要素も含まれている。推理小説もSF小説も元を正せば、ゴシック小説を淵源に持つわけだから、別に不思議なことではない。ポオの世界を想像してもらえればそれでよい。
では推理小説としてどうかと言われれば、これもまた中途半端な作品だと言わざるを得ない。私は小説の中で殺人事件が起き、誰が犯人であるかを論証していくというような推理小説が好きではない。「そんなことどうでもいいじゃないか」と思ってしまうからである。
しかし、犯人が誰かという追究ではなく、ゴシック小説がもともと持っている謎の解明――なぜこのような超常現象が起きたのかという謎の解明――に対して私は比較的に寛容であって、だからこそ推理小説よりもゴシック小説を好むのである。
推理小説的なゴシック小説もいろいろあるが(前に取り上げたC・B・ブラウンの『ウィーランド』などもそうであった)、もっともよくできた謎の解明を果たしている作品は、ハーマン・メルヴィルの「ベニート・セレーノ」だと私は思う。
「ベニート・セレーノ」では漂流船の船長であるベニートが極めて不可解な行動をとり続けるが、そうした行動の裏に隠された謎がある時一瞬にして氷解するのである。主人公に対してと同時に読者に対しても、一挙に謎の解明の瞬間がやってくる。これほどのスリルとカタルシスに満ちた推理小説的ゴシック小説を他に知らない。
私に言わせれば、「完璧な小説」という言葉はメルヴィルの「ベニート・セレーノ」のような作品にこそ与えられるべきものであって、ビオイ=カサーレスの『モレルの発明』に対して与えられるべきものではない。