ところで"破壊王"とは何か? 「パラス・アテネ」で最後に繭からの新生を待つ豺王のことか、あるいは「火焔圖」に登場する瑤公と芥のことか? そうではなく"破壊王"は「火焔圖」の中で老公が語る次のような存在であるのに違いない。
「――創世ノ神とともに生まれた破壊ノ王は、生まれると等しく、夢のない眠りに落ちていると聞いた。そのかたは、荒ぶる神などではない。自ら憤怒の形相をあらわして、人の世に破壊を行う神などではない。やがて人の世の末世が近づいてくると、そのかたは独り寂しいところで夢を見はじめると聞いた。独り没落と滅びの夢を寂しく夢見つづけながら、涙を流すとも聞いた」
さらに「この世の最後の王となる。そして、この世でもっとも高貴で、もっともさみしいかたとなる」と老公は付け加えている。だから"破壊王"は「火焔圖」で都に迫り来る「虐殺の道の先頭に立つ皇帝」などではないのである。
「破壊王」は虐殺と破壊を執拗に描いた連作であるが、これはもちろん山尾悠子の崩壊や滅亡への願望から来ているのである。山尾がイメージする"破壊王"が、破壊を行う荒ぶる神などではなく、独り寂しく「没落と滅びの夢」を見る存在であるとすれば、山尾の願望もそこにこそあるだろう。
モンス・デジデリオが独り寂しく滅びの夢を見るように、山尾もまたそのような夢を見るのではないか。そして「世界は言葉でできている」と言う山尾悠子にとって、世界の崩壊とはいったい何を意味しているのであろうか。
わたしが本当に知りたいのはそのことである。つまりは、言語と崩壊願望との関係についてわたしは追求しなければならない。また崩壊願望を導いてくる閉鎖空間への認識と言語との関係についても、わたしは無関心ではいられない。
このようなテーマはゴシック小説に特有のテーマであって、これまで多くのゴシック小説を取り上げてきたにも拘わらず、わたしはそのテーマを十分突き詰めてはいない。
しかし山尾悠子は、そうしたテーマを追求する場としてもっとも相応しい作家であると思われる。だからこそ今まで最長不倒の21回にわたって書いてきたのである。山尾の作品についてよく理解できた部分もあるが、そうではない部分もある。だからこれからも山尾悠子に拘っていくことが必要となるだろう。
私は山尾悠子が自身影響を受けたと言っている、安部公房や倉橋由美子のよい読者ではない。あるいは必ずしも影響を受けたわけではないが、想像力の同質性を持つと言われるホルヘ・ルイス・ボルヘスについてもよい読者ではない。
しかしこれから山尾悠子を呼んでいく上で、彼らの作品を参照することは避けて通れない道であるだろう。読むべき作品はたくさんある。
そしていつかまた、山尾悠子の世界に戻ってきたいと思っている。
(この項ようやくおわり)