もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

マスメディアの罪科

2024年12月16日 | 報道

 米大統領選、自民党総裁選、都知事選、兵庫県知事選と、メディアの観測がことごとく外れた1年であったように感じる。

 特に兵庫県知事選において、メディアが総力を挙げて悪人のレッテルを貼った感のある斎藤元彦氏が再選を果たした際には、ワイドショーのMC・コメンテータは自分たちの悪人叩きが受け入れられなかったことに将に意気消沈・周章狼狽の体であった。
 全国ネットのメディアで観る限り、斎藤知事に関しては彼の「功の部分」については一切触れることが無かったように思っている。何故このような報道になったかと考えると、メディアの中心に時代遅れの感ある全きの減点主義が存在していることに他ならないと思う。減点主義とは、多くの功績がある人にでも「これこれの減点があるのでこの人は全く駄目です」と簡単に人を切り捨てるやり方で、評価の分かれる「功」の部は考えないで済むために、評価の方法としては極めて単純である。
 2000年以降、スポーツの採点競技においては軒並みに減点方法を廃して、高難度の試技には得点を加算する加点方法に変更されている。減点方式の良い点は「誰でもできる」ことであるが、加点方式には判定に高度の知識が必要とされる点である。
 年功序列下の日本の人物評価は主として減点主義であり、一般的には「独創的な挑戦をすることも無く・さしたる成果も挙げていないが、減点すべき瑕疵が無い」人が出世していた。結果として、組織は硬直化して政治・経済・外交で国際競争力を失うことに結びついたと思っている。このことから、企業においては能率給などの採用によって加点評価に転じているが、メディアにおいては依然として減点主義を貫いているようである。
 斎藤知事の再選に関しても、メディアの報じた減点要因以上に、兵庫県民にしか理解できない・知り得ない「功」の部分の方が勝っていたのではないだろうか。

 広島県安芸高田市の元市長で無名の石丸伸二氏が高名な蓮舫氏を凌駕したことや斎藤元彦氏が再選されたことの背景にはSNSによるポジティブ発信の要素が多いと分析されているが、裏返せばマスメディアのネガティブなレッテル貼りに有権者が付いて来なくなった・一面的なレッテル貼りに拒否感を持ったためであろうと考えている。
 「沈香もたかず屁もひらず」の人物は、多くの場合他人を凌駕する功績は上げられないと決めつけるのもどうかとは思うものの、自分を含めて有権者は思考・判断・決断力において、瑕疵・欠点を凌駕している人物を重用し・選出するように心がける時代になったように思える。いや、それ以上にマス・メディアの貼るレッテルは眉唾と観ることの方が大事であるように思う。


ワシントン・ポスト紙と劣等民族

2024年12月09日 | 報道

 ワシントン・ポスト紙が、民主党寄り報道を辞めると宣言した。

 宣言の背景を巡っては、経営上の決断とされているようであるが、自分は編集サイドが「共和党へのネガティブ・民主党への提灯編集は、ニュース選択の二重基準に陥って報道の質を落とす」ことを自覚・自省したものではないかと考えている。
 ニュース選択に際しての二重基準の好例は、「サンデー・モーニング(TBS)」のコメンテータにしてジャーナリストの青木理氏の「劣等民族発言」に対する報道であるように思う。
 青木氏は、ネット番組で津田大介氏の質問に「自民党に投票する人は、一言でいえば劣等民族」と答え、二人で哄笑したとされている。
 劣等民族と云う最低のヘイト用語はナチスのユダヤ人蔑視を最後に使用する人はいないだろうと思っていたが、国家観・民族意識ともに欠如・喪失しているかの青木氏が使用したのは、彼の抜き差しならぬ選民意識・世間蔑視の品性が剥き出しになったものと見れば、不快以上の言動にも思える。
 問題は、それに対する報道である。主要紙では産経新聞以外の各紙は報道することもなく、TBS社も「番組以外での発言でありコメントしない」としているが、これまで番組以外の発言に対して出演自粛や降板させたことは無かったであろうか。
 麻生太郎大臣の「おばさん」発言には女性蔑視・人格否定と大々的に取り上げた朝毎の姿勢を観る限り、「人権侵害やヘイト行為に対しても、敵勢力には辛く、シンパシーのそれは黙殺」という完ぺきな二重基準を以て取捨選択しているように思える。

 朝毎と云えば、日教組定期大会への会場貸し出しを拒否した自治体に対しては「集会・結社の自由侵害」と報じた一方で、一橋大学生徒会が企画した百田尚樹氏の講演を教授会・左派セクトが妨害し中止に追い込んだ際には明らかな集会の自由侵害であるにも拘らず一切報道しなかったこともある。
 ワシントン・ポスト英断の真相は不明ながら、ネット社会にあっても依然として「お手盛り報道」に終始するマスメディアの体質。今にして改めなければ、早晩「新聞・テレビを信用するな」の事態になることは明白に思える。
 マスメディアが数々のネガティブキャンペーンを展開した、トランプ氏は大統領に、斎藤元彦氏は兵庫県知事にそれぞれ返り咲きを果たした事実。マスメディアはどう考えるのだろうか。


ジャニーズ会見に思う

2023年09月08日 | 報道

 ジャニーズ事務所の出直し会見が行なわれた。

 4時間以上に及ぶ会見をテレビ各局は挙って生中継したので、自分も”ながら視聴”して「性加害の再発防止と被害者保障に関しては今後、新組織で取り組む」ことは分かったが、会見における一部記者の言動に少なからぬ疑問を持った。
 質問者の所属などは聞き取れなかったが、詰問口調での質問は「週刊文春が報じた内容に関して、新社長の所信を問う」ものであった。自社或いは自分の取材した内容に関して問い詰めることは当然であるが、同業他紙の報道内容を追加取材することなく質問する記者の発言は、ジャーナリストとしての適格性や見識に疑問符が付くものではないだろうか。
 他紙の記事をファクト検証することなく付和雷同的に報じた結果、世論がミスリードされた苦い歴史を我々は経験している。
 その最大の事例は、朝日新聞の「半島出身慰安婦の強制連行」事案である。朝日新聞のフェイクにメディアが大々的に提灯を点けた結果、教科書には記載され、国連の正式レポートに掲載され、韓国の最大論拠となり、河野・村山談話に至って国際的には既に歴史の真実と化してしまった。また、やや小ぶりながら、検証すれば容易に偽物・不正確な資料と断定できる立民小西議員の高市総務相攻撃文書の事例もある。
 メディアやジャーナリストと雖も誤報は根絶できないだろうものの、自社或いは他社の報道内容に関して常に「ファクト・チェック」を行うことで誤報局限と訂正報道の自浄作用が働くと思っているが、今回の会見における質問記者の言葉を見る限り、「朝日のような大新聞が報じたから」・「芸能情報に詳しい文春が報じたから」、報道内容は正しく「バスに乗り遅れるな」という付和雷同倫理が垣間見えたように思える。

 総理辞任・ロッキード汚職にまで発展した田中角栄氏の金権政治批判に先鞭を付けたのは立花隆氏であるが、各社が立花氏に追随して角栄氏批判に転じるには相当の長時日が必要であった。そこには、宰相批判には社運を賭ける必要があるために各社が入念な上にも入念な裏付け取材を行って、立花理論は正しいと判断したためであろうと思っている。
 このように、メディアが協調して報道することによって山が動くことも事実であるが、今回の記者のお手軽発言は残念であり、せめて冒頭に「文春の報道は我社でも正確と確認したが・・・」くらいは付ける見識を示して欲しかった。


世論と報道の変質

2023年08月30日 | 報道

 警察官の発砲が報じられたが、お決まりの文言は無かった。

 かっては、警察官の発砲が報道される場合には、最後に必ず「発砲の適法性」についての警察の見解や報道機関の意見の形で疑問符を付けてなされるのが定番であったが、近年ではそれらに触れることは殆ど無い様に思っている。
 犯罪が多様化・劇場化・狂暴化するとともに警察官自体への襲撃も多発し、更には制止の言葉が通じない外国人の犯罪が引きも切らない現状では、警官が身を守りつつ犯人を制圧するためには銃器を使用せざるを得ないことが漸くに理解され始めたのではないだろうかと思っている。
 また、終戦記念の日前後に靖国神社を参拝する閣僚に対して「公人としてですか私人としてですか」という質問が投げかけられるのも定番であったが、ここ2、3年この質問を投げかける映像を見かけることが無くなったし報道もされなくなったとも思っている。
 自分は、警官の安全よりも犯人の生命を優先するかのような報道や、政治家(公人)の私的側面を云々する一方で靖国参拝には中韓に阿るかのように公・私人の別を追及することを不快に思っていたので、近年の報道姿勢については漸くに正常になったと思っている。
 報道の変質は何故に起きたのだろうかと考えれば、報道機関が自社独自の「報道コード(code)や理念を持たない」ためと考えても良いのではないだろうか。報道コードで警官の多少の犠牲よりも対象者(市民)の安全を最優先すべきとすれば「発砲の適法性」の質問・追及は譲れず、閣僚の靖国公的参拝を違法とするならば「公人としてですか私人としてですか」という質問は避けて通れぬように思える。
 では、報道機関の取材・報道の基準は何だろうかと考えれば、「世論への迎合」を全ての基準としているのではないだろうか。世論が望むものを望むベクトルで報じることは、比較的に容易・安易であるとともに、報道の責任も世論に転化できる。好個の例は朝日新聞が行なった従軍慰安婦の強制連行報道である。入念に取材すれば嘘と分かる吉田清治氏の証言を「正」と報じたのは、事の真偽よりもスケープゴートを求める世論に迎合することを優先したためであり、20年間以上も垂れ流し続けた虚を僅か1回の訂正(記事取り消し)で済ましたのは、「読者がそう望んだから」という開き直りであったと思っている。

 明治初期にあって新聞が、固陋制度の改革と開明思想の啓蒙に指導的・牽引的な役割を果たしたとされており、リアルタイムの映像が提供できるテレビは世論の形成に大きく影響するとされるが、現在のように新聞・テレビを始めとするメディアが挙って世論に忖度する以上に迎合するかのような姿勢は如何なものであろうか。


OSO18考

2023年08月23日 | 報道

 先月射殺されていたヒグマがDNA検査で指名手配中のOSO18と確認・特定された。

 検視では、体長210㎝、体重330㎏、命名の由来である足幅は18㎝ではなく20㎝であったとされている。
 OSO18による放牧牛被害は60頭以上とされているので射殺は当然であろうが、自分としては酪農者には申し訳ないが「射殺は残念」である。
 これは、動物愛護等の崇高な理念からではなく、単純に「お上に逆らう五右衛門や鼠小僧」に喝采した町民と同じもので、OSO18の「罠を見破り」・「警備をあざ笑うかのような神出鬼没」は、おそらく経験を知識に変える高い知能を持っていた所為であろうし、もしOSO18が知識を伝える言葉を持っていたら、ヒグマは飛躍的に進化していたかも知れない。
 OSO18は、五右衛門・鼠小僧のように分限者の牛だけ狙うことや貧者に施すことも無かったが、それでも臍曲がりの自分は「頑張れ!!」・「生き延びろ!!」と内心でエールを送っていた。

 OSO18の射殺を伝えるテレビ・新聞は一様に、「ハンター(猟友会)によって駆除された」と報じている。射殺と云う殺伐な響きを嫌っての自主規制と思うが、如何なものであろうか。
大東亜戦争末期には、大本営発表の「転進」は退却若しくは敗退を意味していたとされるし、「○○方面との伏字報道については記事の中にヒントが隠されていた」ともされている。今回の「駆除」報道についても、実行者がハンターであることから銃に依る射殺以外は考えられないが、真実を読者の判断に任せるのは適切ではないのではないだろうか。また「駆除」はゴキブリやシロアリ退治に使用されるように、将に「虫けら」扱いの意味合いが強く、相当な知能(悪知恵でも)を持った害獣に使用するのは如何なものであろうか。
 殺伐な言葉の言い換え・ソフト化は他にも「鎮圧」⇒「排除」の例がある。鎮圧には強権的は響きや武器装備使用の響きがあるが、排除は比較的に穏やかに推移したとの響きを持っている。映像では屈強な兵士や警官が時には催涙弾や放水車を使用しているのに「排除」が真実を伝える正しい言葉であろうか。そのうち警官による無法者射殺も、駆除若しくは排除が使用されるようになるだろうか。

 知能の高いOSO18は、死に臨んで「・・・浜の真砂は尽きるとも・・・」と辞世したのであろうか。