19日(金)。婚約式の長く長い日です。8時30分迎えの車が来ました。家では公証人でしょうか、もう書類の書き込みを初めていました。後で知ったのですが、この日は遷都450年の祝日であり、満月なので稀にみるおめでたい日なのだそうです。そんな訳で急遽この日が選べれたようでした。

公証人の指示で家族・親せき・地元の代表など次々と署名をします。法的には婚姻手続きが受理されなくても、この署名によってこの家族の一員として地域社会で認められ、警察によって逮捕される事も無くなるのだそうです。

その一方、同じ居間の隅では午後のバーシーと言う儀式に使う物が近所の人たちによって作られていました。この写真に写っている男女は息子がタイで勉強していた時に世話になった健康保健センター所長とその夫です。日本の親族が少ないので親族代わりに参加してくれました。

台所の内外では近所の女性と姉妹でお昼の祝いの準備をしていました。
私達親子とタイ人夫婦は署名式の後食事をし、貸し切っているという車でNの姉の案内で黄金色に輝くタトールアンに行きました。もの凄い数の出店です。絹のストールなど50,000キープ(500円)。買いたいものがあったら交渉してあげると言われていたのですが、買い物する気分でにもなりませんでした。寺へお参りは服装で制限されていました。私はスカートを縫ってあったのに持参しませんでした。自分でくれたにもかかわらず、息子にもし、ラオスの習慣と違っていたら恥ずかしいだろうと言われたのです。でも、よく観察すると、ラオス人は全く自由に着こなしているようでした。まきが右巻、左巻その上重ね目を横ではなく真中にしている人など色々でした。
帰宅するとすぐ儀式。儀式を担当するのは在家らしいお坊さん。呪文を唱え指輪を交わし、その後に祝福の糸を手首に結んでくれます。その間庭や台所で働いていた人も居間に入り寿司詰め状態で座り込みます。儀式に参加している人達は真剣な表情ですが、見物人たちは楽しそうにおしゃべりしているのでした。式が終わると見物の人達も祭事に使われた糸を外し、祝福の呪文を唱えながら両家の人々の手首に糸を結んでくれました。

客を迎える準備です。前庭と中庭にはテントが張られテーブルが30数個準備されていました。
写真のテーブルの上の樽には客たちが紙に包んだご祝儀を入れます。日本だとご祝儀の相場はなどと言うことになりますが、誰が入れたか、どれだけ入れたかは見えませんから、招待と言うのにふさわしいと思えました。招待状は200通出したそうです。と言っても戸別配達と言う郵便制度がありません。家族で配り歩いたそうです。
写真の右に見える棒は招待客が通るアーチです。テーブルより手前に置きます。その横、テーブルの前には新郎新婦の大きな写真を置き、私達親族はアーチより手前に腰かけやってくる人に挨拶するのでした。

招待客は家族連れで三々五々やってきます。食事はバイキング方式でした。新郎新婦は最後の客が帰るまで接待です。祝宴は午後7時から始まりました。私達も2時間ほど門を入った所に座っていました。最後の客が帰ったのは午前1時半だったそうです。
私は疲れると胃腸が不調になります。この夜餅米以外は殆ど食べませんでした。ですが、真夜中、胃と腸にあるものをすべて排出しました。4・5年ぶりの事でした。翌日の朝食はホテルで出ていたお粥だけにしました。米を主食にする国にいるということはありがたいことでした。土曜日の迎えは午後3時に来ることになっていたので息子と二人で、昼食のパンを探しに出かけました。
ついでにメコン川を見たいと思い歩きました。木陰は涼しかったのですが、日差しは暑く、まるで天からの熱いアイロンで頭を押しつけられるようで足が重くなりました。河岸は工事中で近づけませんでした。
パン屋を見つける前だったでしょうか、日本名のついた幼稚園らしき建物を見つけました。訪問しようという考えさえ浮かびませんでした。どんな人がどんな思いでこの学園を作ったのか知る良い機会だったかもしれません。体調不良だったとはいえ大事なことを忘れたようでとても残念です。

公証人の指示で家族・親せき・地元の代表など次々と署名をします。法的には婚姻手続きが受理されなくても、この署名によってこの家族の一員として地域社会で認められ、警察によって逮捕される事も無くなるのだそうです。

その一方、同じ居間の隅では午後のバーシーと言う儀式に使う物が近所の人たちによって作られていました。この写真に写っている男女は息子がタイで勉強していた時に世話になった健康保健センター所長とその夫です。日本の親族が少ないので親族代わりに参加してくれました。

台所の内外では近所の女性と姉妹でお昼の祝いの準備をしていました。
私達親子とタイ人夫婦は署名式の後食事をし、貸し切っているという車でNの姉の案内で黄金色に輝くタトールアンに行きました。もの凄い数の出店です。絹のストールなど50,000キープ(500円)。買いたいものがあったら交渉してあげると言われていたのですが、買い物する気分でにもなりませんでした。寺へお参りは服装で制限されていました。私はスカートを縫ってあったのに持参しませんでした。自分でくれたにもかかわらず、息子にもし、ラオスの習慣と違っていたら恥ずかしいだろうと言われたのです。でも、よく観察すると、ラオス人は全く自由に着こなしているようでした。まきが右巻、左巻その上重ね目を横ではなく真中にしている人など色々でした。
帰宅するとすぐ儀式。儀式を担当するのは在家らしいお坊さん。呪文を唱え指輪を交わし、その後に祝福の糸を手首に結んでくれます。その間庭や台所で働いていた人も居間に入り寿司詰め状態で座り込みます。儀式に参加している人達は真剣な表情ですが、見物人たちは楽しそうにおしゃべりしているのでした。式が終わると見物の人達も祭事に使われた糸を外し、祝福の呪文を唱えながら両家の人々の手首に糸を結んでくれました。

客を迎える準備です。前庭と中庭にはテントが張られテーブルが30数個準備されていました。
写真のテーブルの上の樽には客たちが紙に包んだご祝儀を入れます。日本だとご祝儀の相場はなどと言うことになりますが、誰が入れたか、どれだけ入れたかは見えませんから、招待と言うのにふさわしいと思えました。招待状は200通出したそうです。と言っても戸別配達と言う郵便制度がありません。家族で配り歩いたそうです。
写真の右に見える棒は招待客が通るアーチです。テーブルより手前に置きます。その横、テーブルの前には新郎新婦の大きな写真を置き、私達親族はアーチより手前に腰かけやってくる人に挨拶するのでした。

招待客は家族連れで三々五々やってきます。食事はバイキング方式でした。新郎新婦は最後の客が帰るまで接待です。祝宴は午後7時から始まりました。私達も2時間ほど門を入った所に座っていました。最後の客が帰ったのは午前1時半だったそうです。
私は疲れると胃腸が不調になります。この夜餅米以外は殆ど食べませんでした。ですが、真夜中、胃と腸にあるものをすべて排出しました。4・5年ぶりの事でした。翌日の朝食はホテルで出ていたお粥だけにしました。米を主食にする国にいるということはありがたいことでした。土曜日の迎えは午後3時に来ることになっていたので息子と二人で、昼食のパンを探しに出かけました。
ついでにメコン川を見たいと思い歩きました。木陰は涼しかったのですが、日差しは暑く、まるで天からの熱いアイロンで頭を押しつけられるようで足が重くなりました。河岸は工事中で近づけませんでした。
パン屋を見つける前だったでしょうか、日本名のついた幼稚園らしき建物を見つけました。訪問しようという考えさえ浮かびませんでした。どんな人がどんな思いでこの学園を作ったのか知る良い機会だったかもしれません。体調不良だったとはいえ大事なことを忘れたようでとても残念です。