glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

蕗と山椒

2005-04-30 08:54:00 | Weblog
 春は花粉が怖いのであまり庭に出ません。庭の入り口の所にいつの間にか背たけ30cmばかりに成長した山椒の木が生えていました。小さな緑の葉今が食べ頃と私に言っているようです。数年前、勝手に生えてきた3本の山椒の木の葉もかなり大きくなっています。
 佃煮にしようと急いで摘み取りました。
 ついでに家の裏に生えている柔らかな蕗をはさみで切り取りました。蕗は、29年前家を建てた時、一番下の子と散歩のときに取ってきて植えたものです。

 さて、エスペラントで蕗や山椒はどういうのでしょうか。蕗を茹でて、アク抜きをしながら和エス辞典で引くとありました。

 蕗ー petazito (petasilies japanicas)
 山椒ーzantoksilo (Znthoxylun piperiun)

 さて、エスエス辞典(PIV)を引いたら出ていません。これでは日本人でも普段の会話に使われたら分からないでしょうね。私はきっとこの単語を使わないでしょう。

 山椒も蕗も日本のほかは朝鮮半島の一部と中国の一部に生息するだけ出そうです。見た事も無い植物は誰も想像できません。それなら無理して学名をもじって命名しなくても良いと思うのです。学者でない私たちには山椒はjapana pipro、蕗はhukio、kiu estas mang^ebla sovag^a herbo(食べれる野草)で充分だと思います。

 夕べ水に戻しておいた花豆も煮たのですが、これはなんと名づけましょうか。おおきなインゲン -granda fazeoloとでもしましょうか。数十年前、小豆をエスペラントでなんと言うかと先輩に聞いた事があります。彼女が言うのには malgranda rug^a fazeoloでした。でも小豆はPIVにazukioとして載っていす。その実は greno de azukio、そして実から anno (餡)を作ると書いてあります。日本的な固有名詞はラテン名にこだわらず、分かりやすく導入したいですね。


 山椒入りの伽羅ぶきは美味しく煮上がりました。火入れと余熱を数回繰り返し柔らかくし、その後砂糖を入れて、また火入れと余熱を繰り返しで味を染み込ませた花豆も砂糖少な目ながら美味しくできました。
     

 ここに幸ありです!!

    
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まるで夏のよう!!

2005-04-29 07:52:54 | Weblog
   昨日は暑かったですね。数日前北海道に雪が降りました。そして夏日。体力も知力も消耗します。

 先日、スウェーデンの友人からもたったアイラ・カンクーネン(Aira Kankkunen)のエスペラントの詩集の中にこんな詩を見つけました。

 unu el 'Mi tre s^atas someron' ウヌ エル ミ トゥレ シャータス ソメーロン


ホディアゥ ヴェキーヂィス
Hodiau^ vekig^is

ムーショィ
mus^oj

スンルーモ コンケーリス チーウン アングーロン
Sunlumo konkeris c^iun angulon

エン ミーアィ  チャムブロィ
en miaj c^ambroj

マルカーシス ポルヴォィン スル ターブロィ
malkas^is polvojn sur tabloj

スル リブロブレートィ
sur librobretoj

スル プランコィ カィ
sur plankoj kaj

スル ポルドゥスrファツォィ
sur pordsurfacoj.


モルガゥ ミ デーヴォス コメンツィ
Morgau^ mi devos komenci

プリンテムパン プリガードン
printempan purigadon.

《意味》
 ‘私は夏がとても好きです’の中から一つ

 きょう蝿が動き出した!
 私の部屋部屋の隅々を日の光が照らし出し
   テーブルの上の
   本棚の上の
   床の上の
   そして扉の表面の
 ホコリを浮かび上がらせた

 あした私は春の掃除を
 する事にしましょう。 
      

 詩は言葉のはじまりとも言われます。幼児の断片的な言葉はとても詩的に聞えます。
 何故か、日本のエスペランティストは詩を敬遠していませんか。実は私もそのひとりです。長いこと韻を踏まないものは詩ではないと思い込まされていたように思います。ですから易しい詩を紹介したいですね。

 アイラはフィンランド人でスウェーデンで長いこと暮らし、今はエーテボリにいます。2003年のエーテボリでのエスペラント大会で会いました。聴覚障害児用の教科書を書き、今も北欧で使われているようです。
   
初心者の意見に従いルビを付けることにしました。
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翻訳と原文

2005-04-28 07:39:51 | Weblog
先日、ブログ内を散歩していて児童文学好きの人に出合いました。嬉しかったですね。

 昨年、本の整理をしました。ブック・キフという方法があって、送った本が売れた場合それを指定のNPOに寄付すると言う方法を使いました。結構きびしくて、シミが無いようにとか色々と制限がありました。それに沿うようにみかん箱にすれば10個分ほど送ったのですが、買取額はほんの少額でした。その時整理できなかったのがエスペラントの本のほか、『ナルニア物語』『ゲド戦記』などの児童文学でした。

 下記のブログはミッシェル・エンデの『モモ』と宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』について書かれたブログです。どちらかのコメント欄で翻訳と原文の事について話しております。児童文学に興味のある方はお訪ねください。
    
  http://blog.goo.ne.jp/kantarooo/e/2318b0f50f3ce68d2302b879e14f245f
 http://blog.goo.ne.jp/kurikararyuou/e/465be4992cfd33dd1bb4ff65d8d3d580

 翻訳文学を読んでいて時々思うのは原語を忠実に日本語に表現できるかと言う事です。昔エスペラントの聖書を読んだ時驚きました。内容がとても良くわかるのです。今は口語訳の聖書がありますが、当時は文語調の華麗なる美文でした。何度読んでも分からなかったのです。そこで私は聖書は分かる為に存在するのではなく、信じるための存在だろうと考えていました。それが、エスペラント訳では内容がよく読み取れたのに驚きました。
 
 といっても、言葉のニュアンスのすべてがエスペラントに訳せると思っているわけではありません。

 昨年ニュ-ジランドのオークランドでエスペランティストのところに泊めて貰った時の話です。ブラィアン・ジャッキー夫妻につれらて4つの公園(火山でもある)を6時間ほど歩きました。グループ解散の後で集合場所近くの喫茶店でお茶を飲みました。私たち3人の他に国語教師が一緒でした。
 ですから、会話はもちろん英語です。ブラィアンは手短にエスペラントに訳してくれますが時々言うのです。『このジョークはエスペラントには訳せない、訳したらちっとも可笑しくなくなるよ。』と。

 エスペラントの本で『S^TONA URBO シュトーナ ウルボ』ー石の都市-という本があります。作者はアンナ・ローレンシュテインという女性でイギリス生まれでイタリアに住んでいます。この本を作者は最初英語で書き、その後エスペラントに書き直したそうです。エスペラントでこんな緻密な表現ができるかと胸が張れるほど面白いかったです。
 内容としてはローマ軍がイギリスへ攻め入りケルト族を殲滅、あるいは奴隷として、ローマに連れて来るのです。ケルト人の生活、ローマでの奴隷達の生活やキリスト者たちの布教の様子などとても興味深い所があります。特に面白かったのは表現です。ローマ人から逃げて主人公達が穴の中で押し合い圧し合いする様などみごとでした。
 でも、これを日本語訳したどうなるのでしょう。直訳したらちっとも面白くないのです。きっと表面的な訳に終わってしまうでしょう。少なくとも日本語訳よりエスペラントに訳したほうが原文に近い味わいを出せるだろうと私は思っています。
          
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慰めの言葉もなく

2005-04-27 08:46:39 | Weblog
 25日(月)に起こった福知山線の死者はついに90人に達した。亡くなった人の無念さ、家族の口惜しさを思う時、慰めの言葉は見当たらない。怪我をされた方は現在痛みに耐え、またどの程度回復できるか家族と共に不安の中にいる方もおられるでしょう。私たちにできることは亡くなった方の冥福を祈る事と怪我をされた方の早期の回復を祈るだけなのでしょうか。
             

 今日はハンガリ-人でエスペラント界では有名なカロチャイの1930年代のエスペラントの短詩を一つ紹介します。

  RESPONDO レスポンド

ミル ホーモィ ペルディス
Mil homoj perdis

カィ トゥローバス ヴィ モティーヴォン
Kaj trovas vi motivon

ポル ラ コンソーロ
Por la konsolo:

ヤ チーウ ペルディス シーアン
Ja c^iu perdis sian

ウヌ カィ ソーラン ヴィヴォン
Unu kaj solan vivon!

(意味)
   答え

 1000人が逝った
 そしておまえは
 どう慰めようかと考えている:
 ほんとにどの人も自分の
 たった一つの命を失ったのだ!
 
  

 いつも感覚的に読んでいる詩の意味を正確に伝えたいと思うと、ありふれた単語を幾度もPIVで見直したりしている自分が滑稽です!!
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多言語のヨーロッパ

2005-04-26 09:10:10 | Weblog
 エスペラントを知らない人が多い世の中で、ヴォラピュークという言葉を知っている人は少ないでしょう。ヴォラピュークは1879年ドイツのシュレヤーという人が共通言語にしようと発表した言葉です。同じく共通言語の必要性を感じていたザメンホフは当初喜んだと本人が書いています。しかし、学習書を取り寄せ検討し、その不備の多さに驚きました。共通言語を熱望し参集した人々がこの不備に気付き、共通言語に失望しないうちにとザメンホフは自分の作っていたエスペラントの完成を急いだといいます。ですから、初期のエスペラント運動を支えた人にはエスペラントに転向した多くのヴォラピュキィスト達がいました。 

 19世紀は科学や技術の発展した時代です。一般の人々の交流も小さな地方単位から国境を越えたものへと広まりつつありました。国際語の思想やその発達に興味のある方には下記の本をお薦めします。

   二木 紘三著 『国際語の歴史と思想』毎日新聞社

 1998年モンペリエでのエスペラント大会の時です。大会上の喧騒を離れ、会場に続く並木道の木の下置かれたベンチに座って、私は休んでいました。ひとりの40代と思える男性がやって来て話し掛けてきました。
 初対面の良くある会話です。エスペランティストかとか、どこから来たかとか云々。
 私が驚いたのはその人のエスペラントの訛りでした。聞き分ける事はできましたが、とにかくひどいのです。
 私も質問しましいた。どこに住んでいるのですか?エスペラント歴何年ですか?
 彼の答えは:
 私はモンペリエの大学で教えています。私のエスペラントが通じるかどうか試すために今日始めてエスペラントを話しました。私はヴォラピュキィストです。

 驚く私にありがとうと言って彼は去って行きました。後で仕入れた知識ですが現在でもスイス、フランスにはヴォラピュキィスト数100名いて自分達の言葉を広めようとしているそうです。

 この大会のコンサートにオクツィターナと言う地方言語のロックグループが参加しました。オクツィターナは南フランスの言葉ですが、彼らに言わせると、アイルランド人がアイルランド語を英語というのと同じように立派なフランス語なのです。

 その後、エーテボリで多言語について考える会合にに参加しました。200人は超えると思える人々が集まり、8グループに分かれて討論しました。フランス、スペイン、ポルトガルなどまさに人種のるつぼでした。かれらは今は地方言語へと押しやられた民族の言葉の権利を取り戻そうと秘策を練っていました。それぞれの経験を話し合い、今後の自分達の運動に生かそうとする真剣な会合でした。エスペラントが彼らの連帯を支えているのです。
         
     
 

フランス政府がエスペラントに反対する理由もこんな所にあるかも知れません。

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私の出合ったスペインの人たち

2005-04-25 10:52:46 | Weblog
 1993年のヴァレンシアでのエスペラント世界大会には大会前後の遠足にも参加しました。集合地はバロセロナでした。空港からタクシーで集合場所に行こうとする私に子ども達が言いました。スペインは危ない、電車にしなさいと。
 一人旅は難儀なものです。エスペラント以外は喋れない私は、いつも行き先の住所、駅名をカードに書いて持ってゆきます。ところがです、空港駅には駅員はおらず目の前には自動販売機があるだけでした。私はまるで迎えを待つような素振りで、壁に寄りかかり切符を買う人を観察しました。要領を飲み込んだところで切符を買いました。壁には白や青などの線が描いてあり自分の目的の路線の電車に乗るのに困りませんでした。


 困ったのは電車を下りてからです。駅前はいっぱいの人でごったがえし、その向こうに数本の道路が見えました。その数は地図で見たより多く枝分かれしていて、どの道を進むべきか分かりません。沢山のタクシーが人ごみの向こうに並んでいます。もうタクシーしかないと人ごみをかき分けタクシ-の運転手に住所を見せて頼みました。住所を見るとダメと首を振ります。また別のタクシーに頼むと乗れといってくれました。
 数100メートル走ると運転手は混んでて進めないから下りろと言いました。不安一杯の私に運転手は右前方を指差しまた。ガラス窓にESPERANTOと言う文字が見えました。お金を払おうとする私に彼はいらないと言いました。無理やり渡そうとすると怒った表情になったので、私は感謝の気持をこめて嬉しそうに笑って見せました。彼も上機嫌な顔を見せてくれたので私は一礼して集合場所のエスペラントの書店へと向かいました。
    

 私が到着したのは出発時刻の15分前でした。そこで12~3人がバスを待っていました。ひとりのエスペランティスとが駆けて来てバスは30分以上前に出発したしと告げました。みんな文句を言いながらも自分のホテルに行くより仕方ありませんでした。私は私のホテルの場所がわかると言うフランス人と一緒に電車でホテルに行きました。
 スペイン人は時間にルーズと聞いていたけれど遅くなるならまだしも早く出発するとはとみんなカンカンに怒っていました。後で聞いたのですがバスが早く着きすぎ、道が混雑していたので停車しておれず、やむなく出発したということでした。誰かがその場に待機し、バスを離れた所に停めて置くなどという機転がきかなかったのかと呆れました。

 ホテルの前の路地から広場に出るとそこには、あのガウディの大聖堂が聳えていました。お蔭さまで街を散歩しコロンブスの像や凱旋門を見たり、大聖堂は数回訪問することとなりました。

 この大会でよく話しかけてきたスペイン人は80才を超えているのに、ダンスになると軽やかにステップを踏む元気な老人でした。
 大会にはバンケードと言って晩餐会があります。私のホテルは旧市街にあり、バンケードの終わったのは真夜中でした。一緒に帰る相手が見つけられずにいると彼が近くだから一緒に帰ろうと誘ってくれました。ギュウギュウと定員オーバーと思える5人が乗り込んで帰りました。彼は、タクシーは割り勘と言いました。後で計算してみたら、割り勘は彼を除く4人で、彼は払っていませんでした。

 お金を取らない運転手さんもスペイン人。自分の分はちゃっかり払わなかった老人もスペイン人。どこの国にもいろんな人がいるのです。
 私にとってはすべて楽しい体験でした。
  

    

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日曜日はお休み

2005-04-24 08:15:28 | Weblog
 日曜日はブログはお休みです。でも他の人をの読んでいたらちょっと書きたくなりました。アンゲレの緑の表紙の小さな詩集からエスペラントの詩を書いておきましょう。
   

Felic^o フェリーチョ

セ ヴィ ー サーナ、 ヴィ - フェリーチャ
Se Vi - sana, Vi - felic^a

オニ ポーヴァス ディーリ - リーチャ
Oni povas diri - ric^a.

カィ セ  アーマス ヴィア  コーロ
Kaj se amas via koro,

チーアム エストス ボンフモーロ
C^iam estos bonhumoro.


オニ ディーラス、 ケ ドローロ
 Oni diras, ke doloro

コナータ アル チーウ コーロ
 Konata al c^iu koro.

インテレーサ ホーマ ヴィーヴォ
 Interesa homa vivo,

セ ジ エスタス ネ パシーヴァ
  Se g^i estas ne pasiva.

   《意味》
 しあわせ 

あなたが健康でしあわせなら
あなたは豊かであるといえるでしょう。
あなたの心に愛があるなら
あたなはいつでもご機嫌でいられるでしょう。

 誰の心にも痛みはあると
 みんなが言います。
 生きることに消極的でないのなら
 人生は面白いものです。

  
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虚無が世界に広まっている!

2005-04-23 09:37:56 | Weblog
 2日前、17才の少年が4才の子どもの頭を金槌で殴ったと新聞は報じています。少年は人を殺してみたかったと語っているそうです。彼は2年前に学校を辞めました。当時から人を殺したいと言っていたそうで、バックの中には、スタンガン、包丁など殺人に使える武器が沢山買い集められていたそうです。

 少年が小校6年時に書いた将来の夢についての作文を記者が読んでいました。その内容は漫画家になって成功するが最後には挫折する夢の無いものでした。

 ミッシェル・エンデの『はてしいない物語』の中の虚無が少年の心の中にも広がっていたと感じました。彼だけで無く、今の子供達の多くは夢をみなくなっています。彼らの世界からファンタジーが消え、ファッション、化粧、メル友など現実的なものが多くなっています。その行動の中から創造的夢を見出せる子どもは数少ないでしょう。多くの子どもは夢ではなく、形だけを追いかけているように見えます。

 私の好きなエスペラントの作品にエロシェンコの『墜ちるための塔』(Turo por Fali)があります。目の見えない詩人エロシェンコは易しい言葉で虚栄の虚しさを語っています。
 金も地位も美貌もあり、たがいに惹かれあう男女が相手を屈服させようと張り合って、年月を重ねながら高い塔を築いきます。ふと流れる星に気付き、手を伸ばした時、自分がその高い塔から落ちてしまう物語です。易しいエスペラントで書かれた詩情あふれる短い作品です。

 いま社会は流動的で大人にとっても先が見えません。子ども達がこの虚しい世界から抜け出し、希望を持てるような社会にする責任は私たち大人にあるのですが、私たちはどれほどその責任を果たしているでしょうか。
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文通数年、空白20余年、初めて会った友人!

2005-04-22 07:36:57 | Weblog
 昨日書いた内容を思い出しながら、書き直しています。昨日は外出予定でしたが一生懸命書いたのです。ところが最後の修正段階でうっかり他のボタンに触れれるとすべて消えてしまいました。ああ、この情けなさ! 
  


 長いこと音信不通だったコレスポンダント(文通者)のハナとであったのは1993年のヴァレンシアでのエスペラント世界大会でした。彼女はチェコ人で私の初めての友人でした。手紙の内容といえば日常的なこと、子どもの話、友人との会話など取り留めのないことばかりだったでしょう。彼女から便りが来なくなった数年後私も住居を変えたので、ハナから見れば私が消えた友人だったかもしれません。
    

 ヴァレンシア大会は不思議な大会でした。なにしろシエスタ(お昼寝)付の大会だったのです。
 
 日本人のエスペランティストの多くはツアーで参加し、会場近くの最高級のホテルに泊まります。お金の無い私はいつも3流あるいは4流ホテルに泊まります。この時も大会会場は、町の新興地にあり、私のホテルは会場から徒歩20分ほどの旧市街地にありました。14時~16時はシエスタです。大会プログラムはありませんし、町の商店はすべて鍵がかかります。ヨーロッパ特有のレストラン前の街路に出されたテーブルもイスもアッとう間に片付けられ、人の消えた通りをエスペランティスト達はホテルへと帰るのです。
 ホテルでは朝食を取るだけですので、食事は質素(パン、コヒー、ジュース、紅茶、果物、時にはち-ずとかハム)でも私はこのようなホテルが好きです。
 何よりも先ず安いホテルには日本人が少ない。ヴァレンシアでは私と同じホテルに宿泊した日本人は一人だけでした。当然朝食時も会場への往復も他の国のエスペランティストと行動をともにすることが多くなります。いやでも脱日本語の生活をする事になるのです。この時はイギリスの大学教授で詩人のマジョリー・ボルトン女史も同じ宿でした。ちょっと話せて嬉しかったですね。 

 昔、ヴァレンシアの街近くを大きな川が流れていました。毎年氾濫し洪水で人々は苦しみました。そこで人々はこの流れを変えてしまったのです。川底の跡地は公園になっていました。私たちは元川底を通るかあるいは元土手であった道を通って会場に通いました。
 大会2日目だったでしょうか。下の公園から私に手を振って呼んでいる女性たちを見つけました。近づくと一人が私の名を呼びました。何故か、私の口からも『ハナ!』という言葉が飛び出しました。初めての出会いでした。20数年前写真一枚貰っただけの友人でした。

 なぜ突然彼女の名が口をついて出たのか今でも不思議です。
 私たちは大会中は暇を見つけておしゃべりしました。彼女たちは日本人のようにいろいろな遠足に参加することもありませんでした。大会中の水曜日は一日遠足があり、会場が閉鎖されます。その時は自前のバスで海岸に行って海水浴したと喜んでいました。食事もパン、ハム、チーズなど国から持ち込んでいました。
   

 1993年は東ヨーロッパの社会主義が崩壊しました。その直後でしたから彼女達は新しい国のパスポートもありません。とにかく行こうと出発したそうです。彼女たちのバスはフランス国内で警察に捕まりました。フランス国内では停まらないという条件で通行を許され、前後をパトカーに挟まれて、夜も休憩無しで、スペイン国境を越えたと笑っていました。その時一緒にいた一人がプラハ大会後にお世話になったマリエです。

 その後、自由主義経済への移行の過程で彼女たちにもいろいろな事が起こりました。手紙で彼女たちのその後のことを知りながら今も文通は続いています。

  
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本を読みましょう!

2005-04-20 09:51:20 | Weblog
 指輪物語の第一巻のエスペラント訳を夕べ読み上げました。2ヵ月半かかりました。ペ-ジ数540とはいえちょっと時間がかかりすぎました。でも面白かったです。訳者はこの作品をを叙事詩と称してています。ずっと昔、日本語訳を読んでみたいと思って調べたら文語調で難しそうだしたが、素晴らしい映画の影響でしょうか、新しく出版された訳を立ち読みしたらかなり平易でした。
 2巻に進むべきか今考慮中です。ついほかのことがなおざりになりますから。
  

 沢山の新しい単語に出会いました。本を読む楽しみの一つは新しい単語との出会いです。エスペラントだけでなく、他の言葉を学習している人たちに共通してると思いますが、島国に住む私たちは他言語の人と接触する機会が少ないです。ですから、他言語を学ぼうとするなら、自分で言葉の数を増やす努力をするよりしかたがありません。
 子どもは耳から言葉がを覚えます。やはり耳から覚えた言葉が身につくようです。私はエスペラントの本を読むときは音読を基本としています。でも、内容に夢中になると私は声を出す事を忘れ、先へ先へと進み傾向があり、反省することしばしばです。

 エスペラントは話すように書き、書いたように話せる言葉ですが、それでも日本人はよく間違いを犯します。
 日本の音には<ん>を例外としてすべて母音がついています。ですが、エスペラントもそうですが子音だけの発音が結構あります。そこについ母音を付てしまいます。それは私の発音がまだ正しくないという証明でしょうね。
 また、エスペラントには日本語で表すとラ行が二つあります。La行とRa行は全く違うのに日本語で書くと同じラ行ですから混同してしまいます。ですからLa行を読む時は舌が上あごにつくよう気をつけています。これが正確にできるようになった単語のla行は書く時も間違う事がありません。

 私は30才過ぎて考えました。若い人は新しい言葉をドンドン覚えますが私は全く覚えられなかったのです。彼らが5回辞書を引く単語なら、私は50回、彼らが10回引くなら100回辞書を引こうと決心しました。
 すると不思議ですね。前に引いた単語も『おや!またお会いしましたね、こんにちわ!』と楽しく辞書を引けるようになりました。生まれつき暗記は苦手なので、極楽トンボの精神で楽しく読書しています。

 

 
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おなじ話題は嫌いですが・・・。

2005-04-19 09:47:37 | Weblog
 実はアメリカに友人がいます。彼の名はヨハーノ。

 4年ほども前突然手紙をもらいました。そのエスペラント文のまあ英語式と言うのでしょうか、ただ単語を並べたもので、エスペラントでは対格と言うのですがnの文字は全く無し。これは日本語では助詞が欠けているような文章です。
私 飲んでいる お茶(Mi trinkas teo.)。お茶 飲んでいる 私(Teo trinkas mi.)
エスペラントでは対格をつけることによって飲む方と飲まれる方が分かるのです。
例えば
 Mi trinkas teon.
 Teon mi trinkas.
 Trinkas teon mi.
Mi teon trinkas. 
これらは強調している単語は言っている人の気持で違ってきますが、全て意味は『私はお茶を飲んでいる』なのです。

 私の住所をどこで見つけたのでしょうか、彼は書いていました。初心者です。文通して下さい。私の名はジョン。でも私はヨハーノの方が好きなのでヨハーノと呼んで下さい。

 私はこれ以上文通相手を増やしたくはなかったのですが、アメリカ人に頼まれて断るのは日本人の恥じと思い返事を書きました。彼はeメ-ルでないほうが良いというので郵便での文通が始まりました。時間がない時は手紙を受け取ったという知らせをeメールでと使い分けました。

 数回の文通の後、彼は書いてきしました。文章の間違いを見つけたら直してくださいと。
 私は返事を書きました。『文法的な間違いが時々あるけれど、あなたの言いたいことを私は理解できます。沢山本を読んで沢山文章を書けばもっと素晴らしい文章になるでしょう。私はそれを待っています。』と。

 昨年春、大学に戻り臨床心理の勉強を始めたので忙しいという便りがました。秋の手紙は日本人とアメリカ人の感情のもつれの原因についてでした。

 ヨハーノの友人の一人が次ぎのような発表をしたそうです。
 日本人はアメリカ人が嫌いである。理由は第2次世界大戦後、アメリカが英語教育を日本に押し付けたからであると。

 それは本当でしょうかと彼は私に尋ねてきました。
  
 私は次ぎのように答えました。
 私は幼児だったので、その当時の日本人お気持を答えることはできませんが、日本の英語教育は戦後に始まったものではなく、義務教育でなかったとしても英語教育は行われていました。戦争中、日本政府は英語を教えることも、自分で学ぶことも禁止しました。ですから、英語教育の開始は日本人にとって抑圧からの解放意味するものの一つだったと思えます。私の兄達も嬉しそうに英語の勉強をしていましたし・・・。
 日本文化はもともと海外の文化を吸収し同化させることで発展してきました。ですから、外来文化に憧れこそすれ、拒絶反応など示さなかったと思います。 ただ、長いこと日本に住んでいるのに特権階級のように日本語は使わないアメリカ人がいます。そう言うアメリカ人は傲慢だと思いますし、嫌いですと。

 4月、ラスベガスから便りが届きました。女友達と羽を伸ばして楽しんでいるようでした。それにはアメリカ人として他国の人と付き合う時は気をつけたいと書いてありました。
 忙しくて返事を書かずにいたら、手紙届いたかとeメールが来ました。昨日慌ててメールを書きました。

 こんなやり取りはエスペラントだからできると思っています。
   
  

   
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英語は国際語なの!?

2005-04-18 09:14:15 | Weblog
 17日(土)は市民フェアがあった。わがエスペラント会も一応宣伝用ブースを持ち、会合用に部屋も確保して参加しました。多くのボランティア団体も参加していて、訪れる人はエスペラントに興味を持たないというわけではなく、色々としゃべりはするものの、積極的にエスペラントを学習しようという気にはなれないということでしょうか。彼らの話しを集約すると:
 
 エスペラント? 
 英語が国際語だろう?
 英語が国際語と言うのは癪にさわる!だけと事実だからしょうがないよね。そう言ってもさ、フランスへいった時には、買い物したくても英語で聞いたら返事もしてくれてなかった。それでもやっぱり英語は国際語かな?
 アメリカ人が日本にやって来て、当然見たいにべらべら英語で質問する。こっちは冷や汗をかきながらなんとか教えてやろうと努力しているのに、英語を話せないのは可笑しいという顔をしている。そんな時はむしょうに腹が立つ。
 すべての人が平等に話せる言葉というエスペラントの理想は良くわかる、だけど広まらなくちゃね。
 アメリカ人がエスペラントを学習しないうちは、エスペラントは発展しないよ。
  
 
 私個人としては英語と闘う気持など毛頭無いのです。一般の人が、余暇に何かするという目的は自分の人生を豊かにする為と私は思っています。ですから、英語好きの人が英語で国際交流をし、英文学を楽しみ、各自の英語世界の中でより良い人生が送れるならそれはそれで素晴らしいと思います。
 私はエスペラントで自分の視野が広がり人生を楽しんでいる。僭越ですが、こんな人生の楽しみ方もあるとちょっと他の人に知ってもらえたらなあと思う訳です。

 昨年、私の友人ではあるが、全く関係のない30年代の二人の主婦が韓国語の学習を始めました。この年齢なら、頑張らずとも、余裕のできる年代には、ある程度使いこなせるようになるでしょう。ゆっくり続けてと応援しております。

 英語が本当の意味での国際語になり得るかという事に関して議論するのは、私のブログ内では無理でしょうね。

  
   
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オーストラリアのエスペラント放送3ZZZ

2005-04-16 07:01:59 | Weblog
 昨日は久しぶりにオーストラリアのエスペラント放送を聞きました。この放送は隔週放送です。アナウンサーは全て素人と思われるエスぺランティストです。昨日はFさんが話していました。
 彼女は3月にネパールに行ったそうです。3月カトマンズでアジア大会が開かれる予定でしたが、共産主義者の活動が活発になったので、これは8月に延期されました。しかし、国内大会が開かれました。海外からは日本人2人を含めを10数名の参加があり、カトマンズのエスペランティスト80名とネパールの他の地方から10名ほどのネパール人が参加したということです。
 大会の後にトレッキングに行ったが、彼女には歩き足りなかったと話していました。
 
 50年ほど前、ティボール・セケリがネパールにエスペラントを広めました。彼の書いた子どものための物語は20数年前、『ジャングルの少年』というタイトルで福音館書店から出版されています。彼から当時のネパールの王さまがエスペラントを学んだということをこの放送で初めて知りました。
 
 彼女は今オーストラリアに住んでいますがフランス人です。以前アルジェリアで教師をしていたそうです。
 アルジェリアはベトナムと同じくフランスの植民地でした。激しい抵抗運動の末に1962年独立しました。若いFさんはフランスの悪業に対して、フランス人としてアルジェリア人に謝罪したいとかの地に渡り、教育に携わったのだと聞いています。


 昨年秋、あるNPOの人と一緒にいたネパールの若い女性と話す機会がありました。
 彼女の話によると、共産主義者が旅行客に危害を加えることは殆どない。彼らも旅行者が来なくなったらネパール経済が破綻することが分かっている。ただ、外国人にネパール内の事に干渉されたくないのでNPOなど地方に入ることをひどく警戒し、監視しているのだと。ですから、外国人が地方で活動することはできなくなっているということでした。

 早く平和になって欲しいですね。
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オークランドの夫妻

2005-04-15 07:16:52 | Weblog
 昨日、ニュージランドエスペラント会の機関紙 『Arg^enta Filiko』ー銀色のシダーを受け取りました。この編集者ブライアンには昨年6月とてもお世話になりました。
 旅の中継点がオークランドでしたので、道草できないかと考えたのですが、全くの英語音痴です。パスポルタ・セルボ(エスペラントの宿泊サーヴィス組織)を見てメールをだしました。すぐに、空港へも迎えに行ってやるから心配するなと返事が来ました。

 空港につくと出口ホールにはまるで講堂のようにイスが整然と並んでいるのです。その中央に白髪混じりの夫妻が大きくエスペラントと書いた札を持って座っていました。本当に嬉しかったです。

 自宅へわざわざ遠回りをして、素晴らしい景色を堪能させてくれました。彼らは数ヶ月前、老人村に引っ越したと言うのですが、自宅の傍の藪を開拓し、ニュージランド原種の植物を育てていました。それらの木は成長が遅く、一人前の樹木になるためには30年かかるそうです。自分の年齢など超越しているから驚きです。

 翌日は日曜日で、夫人のジャッキーが散歩の会があるが行かないかと誘ってくれました。こんな機会はまたとないと大喜びで参加させてもらいました。散歩とは名ばかりで凄い強行軍でした。

 オークランドには20数個の火口があり、これが公園になっています。その日のグループは二つで、一つは7個公園を巡るという事でしたが、私が参加したグループは4個の公園を巡りました。

 カルデラの大きいものは中に住宅が建っていたり、牧場があったりします。火口を上る斜面は急で、緑の草地は遠目にはきれいですがとても滑りやすいのです。オークランドの火口は馬蹄形になっていて一方が欠けているので水は溜まらないそうです。

 火口の淵に大きな人工的な窪みがありました。それは、マオリ族がイギリス軍と戦った時に食料を保存した穴の跡だということでした。どの頂上からも海が見え、素晴らしい風景ですが、イギリス軍に囲まれて、この山の上で、マオリの人々は絶望的な戦いを続けたのだろうと思うとふと悲しみが心をよぎりました。

 これほど息の合った夫妻に合ったことはありません。車の運転中は曲がり角や信号になると『ハイ、ジャッキー!』『ハイ!ブライアン。』と声を掛け合い二人で確認して走るのです。

 ジャッキーはほとんどエスペラントはしゃべれませんでした。でも、心を砕いてくれている事はとても良く分かりました。

 翌日は私の希望で博物館に行きました。マオリ族の学校で教えていたこともあるブライアンは、かれらの風習その他を色々と話してくれました。
 驚いた事に第一次世界大戦での戦死者の名前が全て壁にありました。イギリス軍に置き去りにされて、多くの戦死者を出した戦いの話しを聞きました。このような事実は忘れ去られることなく子孫に受け継がれてゆくのでしょう。

 博物館には日本のゼロ戦もありました。日本軍はここまで戦いを広げていたのです。いつであったかオーストラリア人が話していましたが、1944年秋まで、オーストラリアが日本軍に占領された時どう対処するかオーストラリアでは話されていたということでした。
 『どうするつもりだったんですか。』と尋ねると、『広い土地だから半分日本にやって、住み分けてもよい。』と考える人が多かったと笑っていました。
 息のあった素晴らしい夫婦のことを書きたかったのですが、またまた蛇足です。
 
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ふたりのオレナ

2005-04-14 08:52:29 | Weblog
 1996年、第81回エスペラント世界大会がプラハで開かれた時のことです。会場を出ようとしていた私たちのグルークに小さな女の子が体当たりました。後ろから母親らしい声が追いかけてきます。振り向くと目が見えないらしい二人の女性が少女を追って来ました。年上の女性が『ごめんなさい。この子は私たちの犬(盲導犬)なの。でもまだ子犬だから・・・。』と笑いました。

 若い女性が言いました。
 『あなたは日本人でしょう?私は大学で外国文学を研究しています。啄木が好きなんです。一度日本語で啄木の歌を聞いてみたかったんです。啄木の詩を日本語で朗読してもらえませんか。』
 とっさのことで戸惑いましたが、思いついた歌を2首解説した後で読み上げました。

 ふるさとの
 山に向かいていうことなし
 ふるさとの山は ありがたきかな

 やわらかに
 やなぎ青める北上の
 岸辺めに見ゆ 泣けどごとくに (表記は違うかもしれません!)


 わたしの下手な朗読に彼女は『日本語は美しい言葉ですね』と感激してくれました。

 彼女たちの名前はオレナでウクライナ人でした。若いオレナはもう一つお願いがあるといいます。折り紙をしたいのでぜひ教えて欲しいと言うのです。後で方法を考えてみますと住所を聞いて別れました。

 以前、福祉バザーで視覚障害のある女性が、自分で編んだ素晴らしいセーターを展示していました。
『売るつもりはないけれど、私たちにもセーターを編む事ぐらいできるということを見て欲しかったの。』と彼女は言い、私にそのセーターを手渡して見せてくれました。総模様の素晴らしいものでした。
 『私、あなたの体形も当てられる。』とも言い、私の体形をずばり当てました。

 そのできごとを思い出し、オレナにも簡単な折り紙ぐらいは自分で覚えられるだろうと思いましたが、遠いウクライナにいる彼女にどう伝えるかが問題でした。

 私は一折ずつ折り進めた折り紙を全工程作りました。一番複雑なのは千羽鶴で、後は簡単なものを選びました。それらを折り目に指で触れるように浮かせて画用紙に貼り付けました。書くと浮き出るペンでマルを書き、丸の数で順番が分かるようにしました。種類は多くはありませんでしたが、かなり部厚いアルバムとなりました。それに折り紙をつけて彼女に送りました。彼女との文通は数年続き、他の町に引っ越すという便りを後に途絶えました。

 その後、女の子を連れたオレナとは何度か会いました。『サル―トン』と言うと声だけで、彼女は『あなたは折り紙の日本人。』と私を覚えていてくれました。若いオレナが折り紙のアルバムをとても喜んで、折り方を覚えたこと、結婚したこと、女の子を出産したことなどを彼女から聞きました。

いつか、若いオレナも女の子を連れ大会に現れるかもしれません。私が元気だったらいつか会えることでしょう。それを楽しみにしています。

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