glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

こんなお願いが来ました!どうしましょう。

2015-09-30 07:22:35 | エスペラント
 グレジヨンで一緒になった方の息子から突然こんな便りが来ました。プログラミング学んでいるが研修を日本で受けたいので情報システム会社に働いている人がいたら紹介してほしいというお願いです。私にはそのような知り合いはいません。でも日本に興味を持ってくれた若者をむげに断るのも気の毒な気がします。もしかしたらこんな若者に興味を持ってくださる方がいるかもしれないとここに載せることにしました。
 私は知り合いがいなと返事をするつもりですが、どなたかこの若者に興味をもたれたら便りを書いてやってください。お願いします。エスペラント・英語・ドイツ語・フランス語のどの言葉でも結構だと思います。よろしくお願いします。

拙いですが私の訳文

 件名:若いフランス人が日本での情報誌システム課程終了後インターンの場所を探しています
はじめまして
私はジョン・シューマンといいます。フランス語・英語・ドイツ語・それに生まれた時からエスペラントを話しています。フランスの大学Universitata Instuto Teĥnologia (UIT) で情報システム(プログラミング)を学んでおり今2年目です。日本での研修場所を探しています。期間は2016年3月29日から6月17にまでの間で長さは少なくとも10週間、最長で5カ月です。

 日本で少し話ができるようにと今年度になって日本語を学び始めました。ですが仕事で使えるのは英語です。

 2007年夏には両親と姉(妹?)と一カ月日本を旅行しました。

 
 もしあなたの友人や親戚が情報システム会社で働いているようでしたら、ヨーロッパの学生を受け入れてもらえないか聞いてもらえないでしょうか。あなたの好意的な手助けをお願いします。



juna franco serĉas trejnon/staĝon (laboron post studado) en informadiko en Japanio

Saluton

Mi nomiĝas Johann SCHUMANN, mi parolas france, germane, angle kaj denaske Esperanton.
Mi estas en la dua studjaro pri informadiko (programado**) en franca Universitata Instuto Teĥnologia (UIT)
Mi serĉas trejnon/staĝon inter la 29a de marto 2016 kaj la 17a de junio 2016, ĝi daŭras minimume 10 semajnojn, maksimume 5 monatojn.

Dum mia nuna dua studjaro, mi lernas la japanan lingvon, por povi iomete paroli ĝin en Japanujo, sed en la firmao mi probable parolos angle kun la kolegoj.
En somero 2007 mi vojaĝis dum 1 monato tra Japanujo kun miaj gepatroj kaj fratino.

Se vi, iu via amiko aŭ parenco laboras en informadika firmano, tiu bonvolu demandi ĉu la firmao akceptus eŭropan studenton


Por via afabla helpo antaŭdankas
Johann Schumann bouzaka10@gmail.com
(mesaĝo sendita helpe de mia patro: bert.schumann@gmail.com)

** programado 3D en C++, Java, Python, PHP, MySQL, JavaScript, XML.
Mi uzas Visual Studio, lernas UML, Qt, Unity, OpenGL, Kinect SDK, OpenCV.

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はじめまして!

2015-09-28 22:31:40 | ラオス人を家族に持つと


 はじめまして!ぼくがTです。あと数日で5カ月です。まだ這い這いはできませんが、前へ進めます。ラオスでは生後3か月の時になぜか髪の毛をカミソリですり落とす習慣っがあります。2カ月たったのでこれだけ伸びました。


 Mです。ラオスから帰ってきました。ちょうど3歳と10カ月になりました。おばあちゃんがTの写真を携帯で撮っていたので横から顔を突き出して僕も取ってもらいました。歪んでいますがまあ良いでしょう!

 ラオスでは買いものに行くと欲しいというと伯母さんがすぐに買ってくれたのに、日本では買ってもらえませんでした。でも泣いたりはしませんでしたよ!

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健康診断

2015-09-27 08:11:40 | 家族・友人・私
 金曜日医院へ。月に一度の診察は健康診断だと考えています。ですから‘どうでしたか’という医師の質問への私の答えは‘はい、いつもと同なじく元気でした’と云うことになります。この度は血液検査の予定でした。

 ‘今日は何時に食事をとりましたか?’
 ‘えっ?してませんよ!’
 ‘良く覚えていましたね!’
 ‘私、まだそれほどボケていませんよ。’
 ‘それは失礼しました。私は最近よく忘れるんですよ!’

 そう云うと医師は私の膝をポンと叩いて笑いました。この人何歳ぐらいでしょうね、と友人とも話します。まるでNHKでむかし見たメルキュール・ポワロの様な歩き方をします。
 本当は朝、私はおなかが空いてたまらなかったので何か食べようかなと何度も考えたのでした。でも、食べたらまた来月空腹を我慢することになります。そこでじっと我慢したのでした。我慢しててよかった!食べていたら私がボケて血液検査をすることを忘れたと思われたでしょう!
 
 さて半年前の検査で悪玉コレステロール値が高くなっていたのです。薬を出しましょうかと医師。半年様子を見てくださいと私。その半年後の検査です。

 インターネットで悪玉コレステロールを減らす食物はないが調べ、いろいろ努力してきました。結果を楽しみにしているのです。最近αーリノレン酸なるものが悪玉コレステロールを減らすことを知りました。この油は分解されると青魚の油に含まれる成分と同じ成分になるそうです。青魚の苦手な私には良いかもと食事に取り入れてからまだ3週間しか経っていないのでその効果のほどは分かりません。でもどんな結果が出るか楽しみにしています。

 そんな私が検査日を忘れるわけはないでしょうと思っている私です!
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世界大会後遠足:おわりに

2015-09-23 16:24:43 | エスペラント
  8月6日10時にゲント出発フランスのリールに向かいました。たった2時間のバス旅行でした。出発前、教会が開くの待っていて友人と納骨堂に行きました。納骨堂と云うのは良く推理小説にも出てきます。日本の納骨堂とは全く違いますから見ておいて損はありません。
 棺こそありませんでしたが棺のあった場所などが示されていて友人はその広さに驚いていました。

 リールではホテルを予約してあったのですぐにホテルに直行し、荷物を預けて市内散歩。夜は手持ちの食料で済ませ、翌朝のんびりと食事し、TVGで空港へ。チーズとワインを土産に買って帰国しました。入管では係員がパスポートをじっと見て『長旅ご苦労様でした。』と労ってくれたので思わず噴き出して笑ってしまいましたが、次第に物を云うのも億劫なるほど二人とも疲れていました。

 一月後、来年はどうしましょうかと友人に尋ねたらできたらまた行きたいとのこと。元気だったら出かけようか思い始めています。最近youtubeで来年の世界エスペラント大会の行われるニトラで毎年エスペラントの夏期学校が行われている映像を見つけました。興味のある方は見てください。


https://www.youtube.com/watch?v=Gqh9MhfOkL4

ニトラ市の紹介を見つけました。
https://www.youtube.com/watch?v=eIug_mXXzrA
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8月5日:ブリュッセル観光

2015-09-22 09:35:39 | エスペラント
 午前中バスで王宮の周りとかを巡る。写真はブリュッセルに行きましたよという証明写真にしかすぎません。

 
 王宮を見る。


小高い丘の上から新しい公園を眺める。ベルギー王は新しい建築が大好きとか。


現ベルギー王の結婚式が行われた教会


教会の中の一コマ。子どもがイエスの体をさすっていましたが私たちを見ると慌てて立ち去りました。日本のなで仏のような効果があるのでしょうか。



ベルギーのもっとも古い要塞の跡。


凄く沢山の見物客。群衆の頭越しに辛うじて撮影。


チョコレート博物館。カカオの産地によってチョコレートの味が違うとか。いっぱい味見をさせられました。


ブリュッセル市長の像。背景には修道院があります。王と修道院長が市民の広場を廃止し近代的建物を建てようと企画。それに対して反対運動を展開しこの広場を守ったので、いまでも市民に尊敬されているのだそうです。


 モダンな商店街。

 ここを抜けると突然ゴミゴミした食堂街に入ります。通りのテーブルは観光客であふれていました。ガイドが云います。ベルギーに性差別はありません。男女平等です。右の小路に入ってください。そこは袋小路でした。物乞いもいます。つき当たりの右を見て!おおっ!そこにあったのは!正面からの写真が余りにもはしたなく見えたので横からとった写真をお見せします。




遅い路地を通り人形劇の劇場へ


残念ながら劇場お休みでした。でもこんなこうじを歩くのも楽しかったです。


 最後の夕食のレストランへの道すがら撮った写真です。人また人の中をかき分けて歩きました。一人では迷子になりそうでした。夕食は前采がホワイトアスパラガス。主采はウサギ肉のロースト。胃袋が肉を受け付けない状態でしたの、ベジタリアン用に替えてもらいました。
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8月4日:(大会後遠足)おお、バスだけがアントウェルペンへ

2015-09-20 06:23:16 | エスペラント
 この日は朝8時15分に出発の予定でした。遠足参加者はそれぞれに忙しく朝食を終えてバーブ教会前の広場でバスを待ちました。ところがバスが来ません。世話役がバス会社に何度も電話をかけていました。1時間ほどたったころでしょうかバスは私たちをも乗せずにアントウェルペンに行ってしまったのだそうです。世話役たちはホテルでコーヒーを飲んで静かに待っています。私たちも彼らに文句言うわけにもゆかず、自室に戻ったりレストランから飲み物を持ってきて飲んだし・・・。

 そんな理由で出発は2時間ほど送れました。バスが来ても世話役たちは彼らに弁明を求めたりすることも無くただ淡々と私たちをのせて出発。予定地について参加者はいつもの通りに2グループに分かれ私は午前中は歩き遠足に参加しましたが、予定にあったルーベンスの絵も見ることなくただ、いくつもの教会の傍を通り過ぎるということになりました。

 

 

 最初に出迎えてくれたぞう!

巨人伝説

昔この地は巨人が住んでいました。スヘルデ川を通る船に巨額の交通税を課し、支払いを拒否した者の手を切り落とし川に捨てたそうです。ある日ある勇者が来て巨人と戦い打ち勝ち巨人のを切り落とし追い払ったのがこの地の名の由来だそうです。書面に見える建物には世界各国の代表部が入っており、在籍の際は自国の旗を掲げます。

散歩後、エスペラントの家に行く途中に見つけたお店

 魚はとても新鮮でした。小エビも沢山取れるが皮を取るのが面倒なので賃金の低いモロッコに輸出し再輸入するのだそうです。日本では小エビは皮ごと食べるというと驚いていました。



 手作りの美味しい昼食を食べました。本も販売していると聞いたので先ず、図書室へ。友人のために『Fakto kaj Fantazio』を探しました。下段の一番隅に見つけました。本当に良かった!良い思い出になるでしょう!

 午後は駅など自慢の建築物を見学。駅構内にもダイアモンドの店が沢山ありました。

 広い駅の写真です。

 赤い通路は車道です。車が構内まで入れます。




5階建て?6階建て?忘れてしまいましたが人口が少ないのになんでこんなに広いのでしょう!





 港近くのMASと云うの8階建て(もしかして日本式なら9階建て?)の建物の上から港を眺めました。
 

 P氏はスペルデ川はオランダに支配されていて底が浅く船が通れなかったのを私たちが奪い返し、整備したのだと話していました。ヨーロッパは一つになろうとしていますが、歴史的な確執が心の中に隠されているのだと感じました。

 MASから見た風景





港と反対側の地面になぜだかどくろの絵が描かれていました。


 午後はエスペラントの家で講演がある筈でしたが代わりに夕食がふるまわれました。もしかしたら十分に観光できなかった代わりかとも思いますが、彼らは一切説明も弁明もしませんでした。私たちも喜んでいただきました。
 昼とは違ったメニューで好きなものをいろいろ選んで食べました。生野菜の苦手な私には豆料理とが火の通って野菜はとてもうれしかったです。ハムもいろいろあるのですね。豚・鶏・牛・馬・七面鳥など。私は七面鳥を食べてみました。豚ハムと違って脂肪分は少なくとても美味しかったです。もう帰るだけだと思いワインも飲みました!


私がアントウェルペンのエスペラントの家で買った本。6月出版されたばかりと云うのに誤植がありました。残念!

 
アントウェルペンについてのウキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%B3
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近況

2015-09-18 07:01:50 | 家族・友人・私
  ベルリンに住んでいる息子が10月に家族で来日することになっているのですが、4人で泊まれるほど我が家は広くありません。ホテルを取ることにしました。ところが日本には家族で泊まれるホテルが少なくて東京の下町にようやく見つけたとか。家まで2時間ほどで行けますという。それは大変と先週はネットでホテル探しをしました。横浜近辺で家族用と云うのを探しましたがビジネスホテルで二部屋を使うという提案しかありません。ようやく横須賀に32平米で寝室二間続きを息子がみつけました。やれやれと思っていたらラオスから10月に帰国する予定だった息子が来週4人で帰りますので、ガスの手配などよろしくお願いしますというメールが来ました。2週間以上早い帰国です。出かける時に頼まれたこともまだしていないのに・・・。

 今週火曜日天気も良かったので息子の家に出かけ布団を干したり、ガスを通して貰ったりしました。水曜日一家が帰宅。疲れていましたが顔を見に行きました。Mは背が伸びていました。二男のTは人懐こく眼と眼が合うとすぐに大きな口を開けて笑います。帰りにN『これがお土産ですから、お母さん連れて行ってもいいです!』とTをよこしました。冗談じゃない。『明日まで命が持つかどうか保証できない!』と笑って断りましたが、日本についてまだ半日もたっていないというのにMは我が家に遊びに来る気になっています。これから先が思いやられます。
 昨日木曜日、エスペラントの帰りに息子から電話。車を貸してほしいという。古い車は引っ越し前に処分したのです。貸すまえに水など重い物を買わないと。Mと一緒に電車でやってきました。買物をすませて車を持って行きました。Mは10か月日本にいなかったのですがそれほど日本語を忘れていないようでした。分からないものがあると『これなんだ?』をくりかえして質問していました。この分なら日本語習得も早いでしょう。
 でも車を持って行ったということは近々我が家に家族でやってくるでしょう!友人は云いました。『月に2回、昼食たべて、夕食たべて、お風呂に入って帰るのよ!』と。我が家は以前は毎週来ていたのです。せめて月1~2回にしてほしいと願っている私です。

 昨朝メールを開けるとグレジヨンで同行したオランダのエスぺランティストかのメールが入っていました。彼とそれほど親しく話したわけではありません。植物のことをよく知っているようでしたので木の名前など少々話したくらいです。ロシアで発行している『Ondo』という雑誌に記事お書くことになったので遠足の感想を一言書いてください、私ががまとめますので短くともよいからという内容でした。一人で書くのが大変な時にはこの手があったかと納得。協力することにし、同行した友人にも一言書いてメールで送ってと頼みました。
 実は以前、ポーランドから原稿を頼まれたのですが断ったのです。みなさんの感想をまとめれば奥行きのある内容になるでしょう。こんど機会があったらこの手を使おうと思うのです。みなさんもどうですか。

 さて、10月仙台で行われる日本エスペラント大会直前旅行として釜石線に乗るという案内を貰いました。行きたいと思ったのですが余りの忙しさに連絡できずにおり、ようやく先週の金曜日に連絡しました。参加できることになりましたが、まだ代金未納です。切符を買ってから支払いしようと思ったのです。『えきねっと』を使って以前切符を買ったことがあったのですが、パスワードなどもすっかり忘れていました。でもどうにか集合地新花巻までの切符は買いました。できれば今日代金を支払いたいのですが、明け方から雨が激しく降ったり、雷が鳴ったりです。
  
 国勢調査のネット使用は日曜日までです。忙しいですね
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8月3日:フランダースの野に

2015-09-14 06:33:55 | エスペラント
 この日の遠足はイーぺルその他の地へ9:45に出発することになっていました。朝時間があります。聖バーブ教会には納骨堂があるとのこと。ヨーロッパの納骨堂は日本の納骨堂とは全く違います。どうしても友人に見せておきたいと教会が開かれるという8時にホテルを出ました。しかし扉は閉ざされたままでした。やむなく近くを散歩。帰ってきたら扉は開いていましたがもう時間がないので遠足へ

イーゼルの塔。

イーゼルの塔近くにあるベルギー人の墓碑

ふと見ると足元にケシの花ではありませんでしたが赤い花が一輪咲いていました。突然、以前ブログで『フランダースの野に』という詩読んだことを思い出しました。『あの詩?作者は誰だったですか?』と口にするとP氏がジョン・マクレーと云い、私たちの立っている場所から2キロぐらい離れた病院で亡くなったことなども含めて、当時の戦いについて話してくれました。

 私たちベルギー人はイギリス系でもドイツ系でもないのです。祖先はケルトです。ですから、カナダ人・オーストラリア人・インド人などと一緒に戦いの中で差別待遇を受けました。ドイツ人はドイツ側につけばオランダからの独立を保証すると云い、一部にはそれを受け入れた人もいて、時にはベルギー人同士の争いにまで発展しベルギー人とても苦しみました。。

 ドイツの前進を阻んだのは水でした。この辺りは潮の満ち干によって塹壕が水浸しになったので前へ進めなかったのです・・・
などなど。

 http://blog.goo.ne.jp/serena_2005/e/f481ccfdc4720f6cc8ac2118f4bf84ce
 2005年のserenaさんのブログでした。

 私たちは塔から記念館に向かい、記念館の屋上から元戦場を眺めました。



記念館への道を通ると戦死者の名前が読み上げられます。


 記念館の上からイーゼル川を望む。当時はこのように整備されていなかったでしょう。


記念館の上からイーゼル川と反対側を眺めると鉄道が見えます。鉄道と川の間が当時の水没地域だったらしいです。


 塔へ登る前に説明がありました。行きはエレベーターを使いますが帰りは徒歩で。どうしても歩けない人は身障者用のボタンを押すと下まで降りることができます。
 私と友人はエレベーターを使うまでもないと階段をおりました。私たちは一番に階段を降りはじめたのです。ところが後からだれも来る気配がありません。4階まで来て時計を見ると集合時間が近づいていました。エレベーターの場所探し、ようやく止めたらそれは上ってゆくところでした。二人で走ることにしました。3階だったでしょうか。真っ暗やみでした。足場は悪く、渡り廊下がガタビシとなります。左側は塹壕の中の寝床を表現しているようでしたが眺めている余裕などありませんでした。二人で手探りで階段を下りどうにか外に出ることができました。もうみんなバスに乗っていました。15分の遅刻でした。
 みなさん、エレベーターを使ったようです。

 昼食時にP氏は娘が小さい頃初めて連れてきた時に迷子になって泣きやまないのでアイスクリームを買ってやったよと話していました。(子どもと一緒にしないで!)
 昼食後はドイツ人墓地とイギリス人墓地へ行きました。
ドイツ人墓地

ドイツ人墓地

一つの墓碑に数名の名が刻まれています。
息子を戦いで亡くしたドイツの女性芸術家が作成した両親の悲しみの像

像の制作者とその夫

イギリス人墓地

 私には読めませんでしたが、カナダという文字に魅かれて・・・。

立派で綺麗です。裏面には THEIR NAMA LIVETH FOR EVERMOREあります。

 墓碑には国と宗教が刻まれています。この墓碑はインド人のもののようです。日本・神戸と云う文字に魅かれます。
 イギリス人墓地は広々として手入れが行き届ききれいです。数年前まで衛兵もイギリスから派遣され、手入れもすべてイギリス人がしていたそうですが、最近ベルギー人に委託されたそうです。



 『追記』
 書こうと思って本を出していたのに書き忘れました。第一次世界大戦の様子を書いたエスペラント小説があります。参考にしてください。
Trevor steele 著:Kvazaŭ ĉio dependus de mi
ノーベル平和賞を受賞したカール・フォン・オシエンツキーをモデルにしています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC


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8月2日:ゲント散歩

2015-09-11 09:48:07 | エスペラント
  Liberema とRibelema

ゲント散歩の中でよく聞いた単語がリベレーマ。私は初めこれを自由思考なのだと解釈していたのですが、途中から自分の間違いに気付きました。反抗的とということだったのです。
 まず伯爵の城。10世紀に建てられ、11世紀には改築され、その費用のため市民の税金が重くなったそうです。市民と云っても現在のゲント市の1部+近隣の一部は伯爵の所有であったそうです。14世紀初頭、ゲントはフランス王のものとなり、重税が課せられました。この時ゲント市民は城に焼き打ちをかけたそうです。日本的にいえば一揆と云うことでしょう。しかし厳しい弾圧にあって耐えきれなくなった時、罪人の着る白い下着を着て罪人と同じく自分の首に縄をかけて降伏したそうです。当時の刑罰は軽い物は名誉はく奪ぐらいでしたが重罪は死刑。名誉はく奪とはどんなものかと云うと悪口を言って社会から締め出したそうです。日本で云う村八分ですね、きっと。沢山の拷問器具が城には展示されています。

 城の前の広場。もともとは城の中庭だったようです。右手は元監獄


 橋の袂から見た城。堅固な要塞です。

 元刑務所のあった広場から撮った城

ギロチン 



拷問器具の数々。手足を切る道具もありましたがすぐに殺すギロチンより残忍すぎて写真に撮るには・・・。


当時の罪人の服装。


 ゲントはベルギーの労働運動の発祥の地だそうです。昔の労働者用住居に今も人が住んでいます。


 聖バーブ教会には有名な神の子羊の絵があります。見れるのは12枚です。クリスチャンでない私にはチンプンカンプン。ふと見ると音声解説を聞いている人たちがいました。(この機器日本語でどういう名前でしょうか?)。日本語対応もあります。聞いてみたくなって貸し出している女性のところえへ行き頼みました。誰と来たか問われてグループでと答えました。相手の言葉が私にはわかりません。聞き返すと50セントという。細かいお金がなかったので1ユーロ出すと彼女はお金はいらないからと、日本語対応の機器を貸してくれました。そこでゆっくりと解説をきいて、気がつくとまわりにグループの人はだれもいません。慌てて機器を返しました。ホテルは目の前、遠足が終わっていても一人で帰れます。外に出ると遠足責任者のP氏が外で待っていてくれました。彼の話によるとその機器はグループできた人には貸さないことになっているそうです。無料で借りたというと苦笑いしていました。

 その後グループの後を追って教会の裏手へ。友人の話では私は15~20分一人で解説を聞いていたようです。


 教会の裏手からの写真です。羊が見えますか。


刺激的な1日でした。その上私のベットは身動きすると今にも動き出しそうに軋みました。眠れずに外を見たら月がとてもきれいでした。


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ゲント:歓迎のカリヨン

2015-09-09 08:37:45 | エスペラント
  大会後、1時にはゲントに向かうはずでした。ところが1時になっても閉会式は終わりません。前夜のコンサートも10時に終わる筈が終わらずあきれ果てるほど長かったのです。時間オーバーでも平気と云うのは土地柄ですかね。
 (実は私、遠足中に2度も集合時間に遅刻したのでこんなこと言えた義理ではないのですが・・・)


閉会式の舞台の巨人はナトゥール・アミーコという。大会中入口にじっと立っていました。金曜日の朝、友人のフランス人夫婦とナトゥーツ・アミーコの前で落ち合って昼食を食べる約束していたのですが、時間に行ったら消えていたので大笑いしたのでした。舞台に立つ準備をしていたのでしょう!

 2時近くリール出発。途中フランス側で昼食をとりゲントへ。宿は有名な鐘楼と聖バーブ教会の傍でした。急ぎ鐘楼に行きカリオンの実物を見る。コンサートが始まるというので急いで鐘楼と教会の間の広場場へ。

 広場の真ん中にスクリーンを置きカリオンの演奏が見えるようにしてありました。私たちがスクリーンに行きつく前にエスペラントの聖歌『Espero』の演奏が始まりました。スクリーンには演奏者の演奏の様子が映し出せれました。私たちだけでなく通りすがりの人達も演奏を見るのは珍しいようで見学していました。

 演奏者はアントウェルぺンのエスぺランティストの夫。マイスターの称号を持つ人です。彼らの子ども達も幾つかの楽器を演奏し、また歌を歌う音楽一家で、家族での演奏会もしたりしているようです。彼女はガイドで今回はブリュッセルの担当でした。

 こんな経験ができるのはエスペラントをしているからこそ!また、パンフレットの記述を見てもゲントのエスぺランティスト達が自分たちの歴史を理解してもらおうとしていることが感じられました。

 その後、町の中心から外れたレストランへ。食後、ビールに関する講義と試飲が始まりました。チェリーで作ったビールとか桃で作ったビールとかがありなんとなく甘いのです。同じテーブルに座ったルーマニアの女性、凄いヘビースモーカーで、ちょっと見た目は男性。日本が好きだと富士山・たばこと書いた煙草入れをいつも腰に下げているのですが、こんな甘いのはビールじゃないと大憤慨にしていました。終わり頃ようやく彼女の好みに合うビールが現れたとたんにこにこと嬉しそうに飲んでいました。率直と云えば率直。気難しいと云えば気難しい!私は酔うと歩けなくなりそうなので控えていましたが、味見したビールはテーブルに置かれたバケツの中に捨てても良いので幾つか味見しました。何年ものだったでしょうかアルコール分9.7%のビールを試飲しましたが、苦みと渋みで美味しくはありませんでした。
 この講義も延々と続き23時過ぎ、10数名が帰路につきました。行きと違って小路を通ってホテルに帰りました。

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大会後遠足はベルギーへ

2015-09-08 08:04:14 | エスペラント
 実は云うとベルギーと云う国にそれほど興味があったわけではありません。フランスでの大会ですからフランスを良く知りたいと思ったのでした。もうひとつの大会後遠足は列車を使ってマルセーユまで行くというものでした。マルセーユはReimond Schwartzの長編小説『Kiel akvo de l' rivero』の最後の方にもできます。小説の舞台を見たいと思ったのでした。

 遠足後には日本に帰国するわけですが、先ず帰りの飛行機の切符を手に入れなくてはなりません。マルセーユ出発予定が書いてありましたのでその列車が何時にド・ゴール空港に到着するか知りたくて事務局にメールを書きました。向こうから連絡が来る時には何か質問がありましたら聞いてくださいと書いてありますから聞くことを躊躇する必要はないわけです。ところが返事がおかしいのです。もしかして正確に決まっていないのではないかと思いました。一度航空券を買ってから中止になった経験があります。旅になれない友人同伴では彼女を危険にさらしたくないと思い行き先をベルギーに変更しました。そんなわけで何の予備知識もなく出かけました。

 民族とは何なのだろうと考えさせられる旅となりました。それをどうまとめたらよいのか貰ったパンフレットを見ていたら、VALONIOと云うのが載っていてこれはどこの国と調べたらベルギーのワロン地域のことでした。ベルギーがフランドル地域・ワロン地域、そして都市ブリュッセルを囲む地域の三つの地域の連邦国家であるということを知りました。まさに勉強不足も甚だしい!

 旅行の感想記も独りよがりになる部分もありますがご容赦ください。
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2015エスペラント世界大会雑感②

2015-09-06 01:54:25 | エスペラント
7月30日(木)マジョリ・ボルトンの著者との座談会に参加。火曜日には彼女の話があったらしいのですが気がつかず参加できませんでした。
 友人を誘うと喜んでついて来ました。前日彼女はパリへ遠足に行きました。その時日本人と日本語で話したそうですが、彼は今ボルトンの『Fakto kaj Fantazio』(事実と空想)を読んでいる。2年かかっているがまだ読み終わっていない。初めは辞書を沢山引いていたが最近はそれほどでもなくそれに内容がとても良いと話してくれたとのことでした。

 この日はボルトンが話すのではなく、集まって人が彼女の思い出を語るということでした。ある人はエスペラントを習って始めて手紙を出すのに彼女が著名ないな文学者であることを知らず便りを書いたら、丁寧な返事がき、今でもその手紙を大切に持っているそうです。ある人は20年以上前、エスペラントの初学者で、エスペラントを使って旅をしようと思って宿をお願いしたら快く引き受けてくれ、10日以上滞在し、帰ってから彼女が著名人であることを聞き驚いたと話していました。
 彼女はそんな話を楽しそうに聞いていました。昨年、彼女の著者『Poeto fajra koro』Julio Baghyとの交流について書いた本の読みました。優しさ、差別に対する義憤などを感じました。本から受けた私の感覚は本物だと感じました。



 私の思い出はヴァレンシア大会で宿が同じだったこと。私の宿は3流宿。日本人は私以外は一人でした。狭い入口でばったり出会い嬉しかったですが、こんな安宿に泊まっているのかと驚きもしました。ちょうど彼女の著書『Zamenhof』を読んだばかりでしたのでその感想を言うとありがとう、日本読者の方によろしくと云ってくれました。翌朝、彼女に気がついたフランス人たちが一緒に写真を撮ってくださいとお願いし私も誘ってくれたので、一緒に写った写真がある筈と探しましたがまだ見つかっていません。

 それ以上に嬉しかったのは同伴した友人がすごく感動してくれたことでした。自分も辞書を引きながらでも『Fakto kaj Fantazio』読みたいというのです。でももうLIBRO-SERVOにありませんでした。翌日、金曜日、彼女が遠足に行っている間にもう一度行ってみましたがやはりありませんでした。

最後に閉会式の写真。子どもたちが入ってきました。


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2015エスペラント世界大会雑感 ①

2015-09-04 10:09:56 | エスペラント
 大会中は遠足は大会会場が閉鎖される水曜日の全日遠足だけ参加。後は大会の雰囲気を楽しむことにしていました。ですが参加者の多いこと!凄かったです。最後の情報として紙面に洗われた数字は2689人でした。演劇やコンサートも無料ですが券が必要でした。早速どこでもらえるか聞きに行ったら、そんな話聞いていませんと係の人。翌日はそのそばに券を渡す場所ができていましたが、劇とコンサートを見逃してしまいました。

 遠足は1905年初めて世界エスペラント大会が開かれたブローニュ・スル・マールです。バスで2時間ぐらいかかったでしょうか。当時の会場でセレモニーがあり、その後旗を掲げて駅までデモ行進。駅前にザメンホフの像が建てられた除幕式に参加しました。セレモニーに参加しなかった人も多く来ていて、狭い駅前は非常に混雑していました。ここでチェコから来ていた花と偶然再会しました。その後、古い城壁や教会等街を見学しました。


1905年世界大会が行われた会場は500人ほどが入れる小さなものです。世界と云ってもヨーロッパ人だけだったでしょうが、ザメンホフの当時の演説の朗読を聞きながら参加者の感激を感じることができました。
 テーブルの向かって右から二人がザメンホフの孫ザレスキー・ザメンホフです。

駅前の光景。私の街を旗を掲げて歩きました。


若い案内人。質問されると私は街を案内するように言われているだけです。それは答えられませんとかわしていました


 当時の参加者たち


町の写真館。今でも当時の写真が飾ってあります。この写真館の当時の主もエスぺランティストだったそうです。


 金曜日だったと思います。私は会場に向かっていました。会場を出て道路を渡ろうとしているザレスキー・ザメンホフを見ました。信号が青のうちに渡りきれないと思って次の信号を待っていました。途中でそれに気がついた女性がひき返し、次の信号を一緒に渡ろうとしましたようでした。でも彼はそれを断り、杖をつきながらも一人で渡って行きました。

 彼はとても気さくな人です。2003年、スウェーデンのエーテボリでローマン・ドブジェンスキーの著作者と語る会に参加しました。とことが著者が飛行機の送れで参加できなくなり彼が代わりに座っていました。彼について書かれた本に『La Zamenhofa-strato』にサインてほしいと頼むと著者じゃないけれどと云いながらもサインてくれました。この本でわかるように彼は瀬戸大橋の橋梁の土台部分を設計したとかで幾度も日本に来ているそうです。
 フィレンツェの大会(2005年)の時イタリア人たちと昼食を食べていたら、彼が入って来ました。周りのみんなが一緒に座りたがり私の前のあいている椅子を指さしました。彼はやってきてそこに座り、日本料理はおいしいとか、寿司が一番好きだとか他愛のないおしゃべりをしながら一緒に食事をしてくれました。本当に飾らない人柄でした。

 手助けを断り凛としてあるいている彼を眺めながら、自力で動ける限り人を頼らないし姿勢を見習いたいと感じたのでした。
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フランスのお城、最後はまとめて

2015-09-02 07:14:01 | エスペラント

23日(木)9:00出発 →ブロワ城 →昼食(ピクニック形式)→シャンボール城 →グレジヨン

24日(金)9:00出発 →アンボワーズ城 →クロ・リュセ城 →昼食(ほら穴を利用したレストラン)→シュノンソー城 →グレジヨン

25日(土)8:00出発 →ヴェルサイユ宮殿 →昼食(ピクニック形式)→リールへ

大小の差はありますがお城は似たり寄ったりです。最後はまとめて!

 ちょっと変わっていたのはクロ・リュセ城。城は大きくありませんが付随する公園の広いこと、広いこと。中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの考えた仕掛けがいろいろあります。親子連れが楽しんでいました。




アンボイス城の食料庫と食卓


 シュノンソー城の食料庫

 ロワール川流域は農業地帯です。でもやさいのしゅるいはとても少ないようでした。それに後に居城として改築されたとはいえ狩猟用の城が多すぎます。と云うこと狩猟は遊興ではなく食糧確保の有効な手段だったのではないかと思えてきました。
 金曜日の昼食はアンボイス城からさほど遠くないほら穴レストランでした。ワインも食事も美味しかったですが、私はカビ臭さに耐えきれず食後一人外に出て新鮮な空気の中で過ごしました




 ちょっとボケていますが一組ポーランドの夫婦を紹介しておきましょう。来年の日本大会に参加したいと云っていましたので。

ヴィーニョとゲオルゴ。ゲオルゴは作曲家兼歌手。
https://www.youtube.com/watch?v=oUFmer8YpHc



最後の日ヴェルサイユ宮殿前で

ヴェルサイユ宮殿の見学を終えて!お手洗いはこちらです!


 苦労したのはお手洗いでした。その点日本は楽ですね。どこにでもありますと言っても過言ではありません。
 金曜日に少し雨が降りましたが、天候にも恵まれました。費用:615ユーロ。日本円では1ユーロ135円で支払いました。高いとみるか低いとみるか人によって違いがありますが、観光つきエスペラントの語学研修と思えば私には費用は低いと思いました。楽しかったですが本当に疲れました。大会中はのんびり過ごそうと考えていたので疲れも負担にはなりませんでした。


コメント (2)
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