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生きること:過去と未来とエスペラントと

エスペラントの雑誌: KOMENCATO

2006-03-30 09:44:48 | エスペラント
 雑誌KOMENCANTOを受け取ったのは土曜日でした。

 忙しさにかまけて目を通さずにおりました。この雑誌はロシアのエカテリンブルグと言うウラル地方に住んでいるロシア人とウズベキスタン人の夫婦によって発行されています。年に6回の発行なのに2冊同時に受け取りました。

 16ペ-ジの薄い雑誌です。値段は(JEIで2480円?)。ところが突然ロシアの郵送料金が上がり、やむなく2冊目を発行していっしょに送ったようです。

 この雑誌の好きなところははじめに編集者が記事の中身についてどんな意図で編集したとか、どんな人の作品をのせたかとか書いてあることです。

 昨年、横浜で行われた日本大会に招待されたからかも知れませんが、2006年の1号2号とも日本人が書いたのもが載っています。

 考えを変えて別の角度から見ると、日本人のエスペラント文もヨーロッパ語系に属する人々に負けぬほど向上したと言えると思います。

 1号の1ページにあるのはイタリアの盲人エスペランチストです。まだ読んでいません。視覚障害の方がなぜエスペラントを学習したのが読んだらお知らせしたいです!
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作家・ 金 達寿(キム ダルス)

2006-03-27 10:11:03 | 平和
 朝、ふとテレビをつける。年老いた金達寿しの顔が映った。思わす惹き付けられてとうとう最後まで見てしまった。1996年の撮影ですので、彼がなくなる1年前の撮影です。

 NHK『わが心の旅』
 彼は1919年韓国が日本に併合された年に生まれたそうです。父は仲間と一緒に放蕩を尽くし財産を失い、両親は日本に出稼ぎに出かけ、残された彼は10才まで貧しい祖母の元で暮したということです。父の墓に詣でながら今は八方を閉ざされ、出口の無い父のやり切れなさが理解できると話、祖母の思い出に涙を流す彼に心打たれ私も一緒に涙を流しました。
 『こんな人生あってはならない』と彼はいいます。本当にそうです。人が人を、国が人を支配する事はあってはならないのです。

 若い頃、彼の作品を読んだのですが、作品名を思いだせません。もう45年前になるでしょうか、彼が魯迅の『阿Q正伝』について語った時の激しい語り口と情熱を思い出していまた。そして、静かに語る金達寿氏の言葉の端々に昔と変わらない彼の情熱を感じました。
 彼はいいました。朝鮮民族として自分を取り戻すために歴史を振りかえること必要であったと。

 私たちも、日本人として生きるために過去を振り返り歴史を認識することが要求されていると感じました。
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雑誌をひもといて

2006-03-26 07:14:24 | エスペラント
 古い雑誌の整理を始めたと書いたのですが、大変ですが愉快なこともあるのです。

 古い雑誌の間には小さな添付紙が幾つも貼り付けてありました。そこには当時意味がわからなかったエスペラントの単語と日本語訳が書いてあるのです。
 ‘お!こんな単語も知らなかったのか!' 思わず笑ってしまいます。しかしそれは私が進歩した証なのだと一方で感じます。

 当時大事に思えて引いた沢山の線。私はこう言う事に感動したり、こう言うことを真剣に考えていたのだと若いかった自分の感動をふと思い起こしたりします。

 整理とは過去を精算する事ではなく、新たな思いを抱かせるものであると感じています。
   
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雑誌の整理

2006-03-24 16:30:19 | エスペラント
 今月に入って意をを決してエスペラントの雑誌の整理を始めました。何十年もため込んだものを捨てるのは辛い。
 日本の雑誌は抜粋であるが現在1960年までの縮刷版があります。そうすると後数年経つと次の縮刷版が出るかもしれないと考えることにしました。それでも、興味ある先人についての記事とか、自分の名前がある記事は処分できず残しました。私の死後、子ども達が母親はこんなことを書いていたと気付いて欲しいなどと勝手なことを思っての事です。

 今日から書かれた言葉もエスペラントの雑誌の整理を始めました。文字も小さいし、例え薄いとはいえ20数年分を処理するには時間もかかるようです。もう目がしょぼしょぼです。まず残したいのは先駆者達について書かれた記事です。それから書評です。書評はこれからの読書を助けてくれるような気がします。

  凄く雑なやり方ですが、持っている本の書評とか著者についての人物紹介は全て切り取ってその本に挿み込みました。私にはこれが一番わかり易いしまい方です。ですがいつの間にか運動とかその他のものまで残し始めていることに気付き、今日はもう止めることにしました。また、取り出した残りの資料を私はどう整理するか決めていません。本当は整理が下手なのです。このまま箱に詰めることはしたくないと思っていますが。


 みなさんはどうしているのでしょうね?
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アロエの子どもたち

2006-03-23 08:31:20 | 雑感
 数年前、姉から送られたアロエを鉢に植え狭い出窓にに置いていましたが大きくなって苦しそうに体を歪めていました。玄関に置き、暖かい日は外に出すようにしました。忙しいとついつい水をやるのも忘れてしまったし・・・。 

 植物とは強いもです! 昨秋忙しかったので放置状態でした。なんと子どもを生み出したのです。今4個新しい芽が出ています。さてアロエの親離れ時期は何時なのか悩んでいます。 

 秋に夫はいつも菜の花の種を庭に播きますが、昨秋は播きませんでした。例年は今ごろはせっせと菜の花のおひたしを賞味しているのに今年はできませんし、それ以上に庭が寂しいですね。 

 昨年、プランターにニラを植えました。冬中自家製の堆肥を入れていました。昨年より素晴らしいニラが生えています。なぜか食べるのがもったいないです。 

 モロヘイヤが自生できるかどうか試しています。
何度かモロヘイヤの種を播いたのですがちっとも生えませんでした。若い友人は畑をやっているのですが、モロヘイヤのタネがこぼれると雑草と同じ様に繁殖し困るというのです。それならばタネを作ればよいとこれも昨年苗をプランターに植えました。秋にそのまま放置した所、5~6センチの鞘状の種がつきました。細かいタネがビッシリ入っています。それをそのまま放置。 

 今小さな芽が出ています。これはモロヘイヤか、雑草か未だ見極めができません。モロヘイヤだったら凄い量です。早く大きくなるのを待っています。

 ちなみにエスペラントで
 アロエ → Aloo

ニラ  → 和エス辞典では tuberoso です。しかしエス和辞典でこれはオランダ水仙月下香)となっています。 エスエス辞典では= polianto(オランダ水仙)となっています。エス和辞典では ニンニクとニラは同じく ajlo です。正確な表現をどなたかご教授下さい。

菜の花 →kolzfloro

モロヘイヤ? →この辞書ができた時には日本には無かったので調べ様がありません。
        molohejjo とでも呼んでおきましょうか。  
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今年の夏は!

2006-03-21 08:53:16 | エスペラント
 夏は可能な限りエスペラント世界大会に参加する事にしています。仕事を終えた人間が人生を終えるまでの数年間にできる最大の贅沢と思っています。

 昨日は終日、UEA(世界エスペラント協会 ― Universala Esperanto Asocio)から届いた第2回目のお知らせを読んでいました。今年の大会なフィレンツェで行われます。

大会前遠足も3泊4日で色々あります。
トスカーナ地方 、シシリー島、ヴェネチアとその周辺


大会後もトスカーナ地方、ヴェネチアとその周辺、(3泊4日)
ローマ(2泊2日)その上に別刷りでマルタ島の計画まで入っていました。

一番の悩みはフィレンツェのホテル代が高いことです。一人で行くと二人部屋は望めません。一番安いのが学生寮で、シーツ持参、朝食無しで45ユーロ(約6500円)もするのです。

 友人の話しではインターネットで調べたら安い小さなホテルが沢山あると言うことでした。こんな時エスペラントで調べられないのは口惜しいですね! (現実はどうにもならない。  )

 やむなくヨーロッパにいる息子にインターネットで調べて欲しいとメールをかきました。母親としては子どもの世話にはなりたくないと言う思いがありますが・・・。

 頼りにされる方が息子は喜んでくれるでしょう!

 でも、私の心境は複雑です。 

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巣づくり

2006-03-17 08:45:31 | 雑感
 昨日は学習会。
2週間ぶりに川辺を歩きました。中州の散歩道が特に好きです。柳の葉はだいぶ緑が濃くなってきましたが対岸のケヤキはまだ芽吹いていません。
なんとカラスが2羽、地面に嘴をこすりつけて枯草を引きちぎっていました。通りがかりの私をうんさくさそうに眺め、高いケヤキの梢に飛んで行きました。巣づくりしているのです。葉が茂ると巣のありかは見えなくなるでしょう。
 小鳥たちのさえずりも賑やかさを増していました。ヒヨドリが1羽潅木に止まっていました。お嫁さんでも捜しているのでしょうか翼の下の羽毛が美しいオレンジ色になっていました。こんな美しいヒヨドリを見たの初めてです。

 私の学習は勿論エスペラント!!
ロシア人の作家の書いた本を読んでいます。
これが難しい。名前が○×・△ヴィッチ・▽と3個あるのです。それがいろいろな組み合わせで出てきます。その判別に手間取ると登場人物が混乱してしまって・・・・。登場人物の特徴を初めてでてきた時にメモしておけば良かったのです。怠け者の私はそう言う基本を何時も疎かにするので、後からこの人物はどのページに出てくるとかページをひっくり返す羽目になります。

 会場の外の桜の中に咲いているのもありました。
 こんなに気温の変化が激しいのに桜の開花は早いようです。
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私の未来?

2006-03-13 09:03:42 | 家族・友人・私
 昨日は私の誕生日でした。

 息子達からのカードとワイン。それが祝誕生の全てです。夫は日曜にもかかわらず午前中は仕事でした。卒業時期の3月は児童養護施設はとても忙しいようです。

 我が家は築約30年。手を入れなければなりませんが、子育てだけを考えた家の間取りは息子家族や客を迎えるには不便です。建替えるか、中古を捜すか迷った挙句中古住宅を捜すことにしました。夕方、日当たりが良く自然に恵まれていると言う住宅に目をつけて仕事から帰った夫と共に見に行きました。

 狭い住宅地のだらだら坂を抜けて到着した家は十数年前に造成された宅地のはずれに建っていました。南と東は崖になっていてその下は畑、そしてその向こうはほとんど林でした。夫は崖の上と言うのが少し気に入らなかったようです。

 その家の女主人は数年前足を悪くしたそうで、二人家族なのに床も見えないほどの家具とダンボールが階下も二階も廊下も埋め尽くしていました。いらないものを処分し様と思っているがなかなか実行できない私は自分の未来を見る思いで、家の品定めも出来ませんでした。

 帰りは山沿いの道を散歩しました。梅林があって花は散る寸前でしたが、ふくよかな香りがあたり一面に立ち込めていました。
 今日はとても寒いですね!
 秋田は冬と同じく北東から吹雪いていると朝のニュースは伝えています。

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2年目の初日に

2006-03-12 08:28:39 | エスペラント
 ブログ2年目にあたり、1年間の反省と思いを・・・。

 ブログをはじめたきっかけは、エスペラントに関してどれだけの人が書いているかと検索したことでした。エスペラントで検索するとそうゆう言葉があるらしいと言うくらいのものしかありませんでした。

 よし、エスペラントを伝えるブログにしようとはじめたのですが、成功したとは思えません。

 エスペラントはこれを創ったザメンホフの人種間の憎しみは言語の違いによる無理解・誤解から始まると思った少年時代の思いから始まっています。確かに言語問題も社会問題の一つですが、第一次世界大戦前の『狭いヨーロッパ』を世界と観ていた時代と比べると世界は地球規模となり、複雑になっています。

 ですから、エスペラントがめざした自由・平等・正義を中立言語であるエスペラントを使ってどう実践しできるかどうか伝えるのが私の課題になってしまいました。それはに日常生活を如何に過ごすかと言う事、日常の些細なことへの自分の思いを伝えることと思ったのですがうまく伝えられたか疑問です。

 私がエスペラントに憧れたのは中学2年生だったと思います。ある本を読んでエスペラントは何か理解できたのではありませんが、作者の平和への願望を強く感じたのでした。
『エスペラントはあなたにとって何?』と質問されると私は『空気』と言います。酸素だけでなく色々な要素を含んだ空気です。ですから、エスペラントを続けるということはこの世不正・不平等に目をつむらないこと、未来の子ども達をしっかりと育ててゆくのを手助けすることも入って来ます。

 これからの未来を見据えて、楽しみ怒るブログめざします。


     
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耳をすませば

2006-03-11 11:24:39 | 家族・友人・私
 夕べは宮崎駿監督のアニメ『耳をすませば』を観てしまった。

目を閉じ、耳をすますと私の物語が現われます
好きだった小学校の先生や男の子
級友の待ち伏せからいつも助けてくれた男の子は
おまえには俺の気持はわからないだろうと捨て台詞を残して転校していった
いつもは教室の隅っこにいたのにクラス八分にあった私をガードしてくれ同級生たち
困った時に何故かいつも側にいて助けてくれた上級生

子どもの頃わたしはいつも一人ぼっちと思っていました
でもなんと多くの人が私の回りにいたことだしょう

そんな思いを引き出してくれたアニメでした。

何とか1年間ブログを続けました。
明日より2年目に入ります。


 花いっぱい飾りたいのですが・・・。           

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糸通し

2006-03-09 08:42:34 | 家族・友人・私
展示室で
見学者が試着できる民族衣装に
ほころびを見つけた
なおしておこうかな、ふと思い
善は急げと針箱を調達
糸は太く針穴は小さい
見学中の女の子が声をかけてきた
『私がやりましょうか』

4年生
縫い物は5年生から始まる
彼女の声にみんな集ってくる
先生も見ている
この子の親切さを無にしたくない思いと
失敗させたくない私の思いの中で
糸は二つに割れて
半分だけ通った

おおっ!通った
歓声の中で女の子は不安そうに
『半分しか通っていない』と私を見る
大丈夫と針を受け取り
素知らぬふりで糸を2本にして縫った
女の子は幾度も私の仕事の具合を見に戻り
『私、人の役に立てて嬉しい』と小声で言い
私はありがとうを繰り返した

女の子はキラキラした瞳で
手を振りながら帰ってゆきました

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悲しい!老後は生活保護

2006-03-07 07:32:47 | 福祉と教育
 政府は国民年金の給付額が生活保護費より低いので生活保護費を下げることを検討中という。本末転倒ではないかと思う。
 年金給付額を上げる努力をして欲しい!本当に財源が無いのでしょうか。家庭だったらもっとやり繰りするでしょう。

 それにしても年金に未加入で老後は生活保護で暮らそうと考えている人が政府を動かすほど多かったとは悲しいことです。
 実は昨年、友人からその友人が働いたお金は全て趣味に費やして生きている話しを聞き、彼女と共に憤慨しました。その友人は年金は生活保護費より低いから馬鹿らしい、老後は生活保護で暮すつもりと話していたそうです。

 保護費が多くの人が支払った税金から出ていることを知らないとは思えません。自分さえ良ければ、楽しければそれで良いという考えはあまりにも悲しく、本人は豊な人生を送っているつもりでも心貧しい人に思え哀れみさえ覚えます。
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馬頭琴にさわった!

2006-03-06 07:31:30 | 家族・友人・私
馬頭琴は不思議な楽器
椅子に座り膝でささえる
モンゴルは騎馬民族の国
“馬に乗るので膝の力が強いのですか”
案内の人に尋ねると
かれは“分りません”
と答えた

弓の持ち方も難しい
弦は押さえず指で上にあげて音程を出す
音は力強くかすかに震える
“三味線とも違うわね”
眺めていた見知らぬ婦人がいいました
疾走する時モンゴルの風は
耳元で唸るのでしょうか

老人がモンゴル服を試着している
帯を結ぶのを手伝う
大きなモンゴル靴を履き
金糸の刺繍の青い帽子を被り
展示されたゲルの前で記念写真
“うまく撮れましたか”“ええ・・・”
老人はデジカメを見せてくれた

この写真誰に見せるのでしょうか
家で待っていた夫人に
“良く撮れているだろう・・・
 おまえも一緒だったら良かったのに
 楽しかったよ”
と言うのでしょうか

老人は嬉しそうに会釈して
帰ってゆきました


       

詩は書けませんが今日のブログちょっと散文詩風に書いてみました。

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Kondolenco 【追悼】

2006-03-02 09:47:03 | エスペラント
 世界エスペラント協会の発行している revuo Esperanto 2月号はかなり前に手にしてい、たのですが忙しくしていて、隅々まで読んでいませんでした。
 昨日、なくなった方々の名前の中にオラフ(Olav Bjernsrdo) の名前を見つけました。彼には1991年のベルゲン大会の時にとてもお世話になりました。4泊ほどさせてもらい障害者のディケア施設に遊びに行ったり散歩したりしました。
 彼の住んでいた町コングスベルグはオスロがまだ首都でなかった時、首都の役割をしていたとかで、可愛らしい、商店街もありました。

 オラフは私のために模様織りの本を用意しすべてエスペラント訳した付箋を付けてて贈ってくれました。平織り一本やりの私はまだその本を活用していません。
 彼の家には4畳ほどの冷蔵室があり、凍結を避ける為に野菜などのすべてをこの部屋に貯蔵していました。自分で作ったと言うピンポン球ほどのじゃが芋のたくさんありました。家々の垣根はハマナスで、秋には好みを収穫し、中の種を取り除き - と言っても種を除くと皮だけになりますが、これを微塵切りにしてジャムを作り1年中食べると言うのです。ビタミンが豊富なので、北国の住民にとってはビタミンC補給の貯めに欠かせない食べ物だそうです。

 2004年、エーテボリの大会の際に私を泊めてくれたドーリーはオラフの女友達でした。
 夕暮れは10時頃、昼は2時間昼寝し、3人で午後は芝生のテーブルでお茶を楽しみながらゲームをしたり散歩したり、ゆったりと時間を過ごしました。朝の散歩では亜麻の花を見ました。美しい空の色。エスペラントでLAZURA とはこんな色ではないかと思いました。
 その時2階3階で暮していた娘さんは15年程前になくなりました。その後孫娘が同居し、曾孫達の写真をよく送ってよこしました。

 彼から手紙が来なくなってからも数年前まで、挨拶状を出していたのですがもう出さなくなっていました。せめて最後まで便りを出し続ければ良かったと思っています。
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