glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

今日はエスペラントを聞きに!

2015-08-30 08:05:32 | エスペラント
講演会:14:30~16:30
講師: Heidi Goes(ヘイディ・フース)さん。ベルギー西部のオーステンデの出身,1976年生まれです。今はベルギーのブルージョにお住いです。
場所: 地球市民かながわプラザ大会議室(本郷台駅近く)で。
入場料:無料;通訳付き
テーマ:「アフリカのコンゴ王国の言語」

 講演内容にすごく興味があるというわけっではありませんが、近くですのでエスペラントを聞きに行ってきます。

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休暇も便器持参?!

2015-08-28 09:25:50 | エスペラント
 
22日(水)9:出発 →Langeais城(ランジェ城) →昼食‘レストラン:バルザック’ →ヴィランドリー城 →シノン城 →作家フランソワ・ラブレーの生家跡 →グレジヨン

 お城の話は読む人にはそんなに面白くはないと思うので省略しようかと思ったり・・・。





 
二つの写真はランジェ城にあったものの写真です。何だかわかりますか。この城は狩猟の際の休憩所として建てられたものだったそうです。①は衣装を入れて持ち運ぶものです。②は便器です。便器は蓋を開けて座るようになっています。下は引き出し式で用を足した産物を取り出せるようになっています。普段は城には何も置かず、敷物・壁のカーペットもすべて持ち運んだそうです。私は時々くだらないことを考えます。中世ヨーロッパでは貴族たちが便を窓から外に投げ捨てたと聞いております。このような城ではどう処分したのでしょうね!

 どこの城で聞いたのか忘れしましたが、ポーランド王となり10日前後で追い払われた王がいたそうです。娘がフランス王の妃になっていたのでフランスを頼ってきました。フランス王は城を与えたそうです。本人は厚遇されたと喜んできてみたら城には何もなく石の城は冷たくて寒く一冬寒さに苦しんだそうです。本当はパリに置くと世話が面倒なのでフランス王はロワール地方に追いやっただけのことでした。

 ランジェ城には当時の王族の服装が展示されています。そしてこの城だけでなく王侯貴族のベットが残されていますが、すべて丈が短いのです。それは横になるのは死んだときだけ、横になると死んでしまうという考えに支配されていて、夜も座った状態で過ごしたからだそうです。

 

 



 昼食はバルザックと云う名のお店で。バルザックの生まれた土地とのこと。と云うことは私たちはトゥールにいることになります。バスで運ばれると土地勘が無くなりますね!
 写真に写っているのはアントワープから来た家族。夫が常に妻の世話をしています。夫の手に余るような時に見守っている息子が手助けします。右で杖をついているのはドイツから来たアネリエ。古い知り合いです。3年前太もものところに癌ができて摘出。経過が良かったのですが転んでその部分を骨折したそうです。広げると椅子になる杖を借りてきたということでした。ヨーロッパ人は体が不自由になっても出歩きます。私がふうふういうような石畳の道もなんのその、バスで休憩することも無く歩き続けました。 



 シノン城で子どもに野外授業していた女性が突然横を通り過ぎました。もしかしてジャンヌダルクの服装かもと思って写真を撮りました。

 作家フランソワ・ラブレーの生家跡はワイン工房になっていました。彼フランス近代教育の父と云われているそうです。修道僧でモンペリエで医学の修行もしたそうです。フランシスコ・ガブリエルとかいうような筆名で小説(風刺?)を書き権力者に睨まれていたので外に出るときは黒い衣。でもこっそり村の女性との間に子どもまでいたとか・・・暑いなか説明が長すぎました。


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キム夫妻

2015-08-26 03:25:04 | エスペラント
 参加者の中にアメリカに住んでいるキム夫妻がいました。ド・ゴール空港で初めの集合場所からバスのあるところに移動する時二つあるエレベーターの一つが故障していておまけに動く方も小さくて多くの方人が階段で下りなければなりませんでした。キム氏は労を厭わず、何度も階段を上り下りして手助けに奔走していました。考えてみると参加者はどちらかと云えば年配者だったのです。

 その日の夕食同じ食卓につきました。キム夫人はの名はモニカ。彼女はエスペラント話せない、夫が子どもたちに話しかけるのを聞いていただけだからということでしたが、軽やかにエスペラントで話しかけてきます。彼女と話しているとお隣の奥さんと世間話をしているようで日本語で話しているのと同じように気軽に話せました。
 25歳の時おじを頼って夫婦でアメリカに渡ったこと。娘はインド人と結婚し、もうすぐ第一子を出産すること。息子の恋人はスペイン人。夫は子どもたちが韓国人を選ばなかったことに不満なことなどなど。
 3年ほど前に引っ越したがそれまでは多くの若者をホームスティさせたこと。日本人も結構沢山受け入れたということでした。

 翌日(7月21日)夕食最後のテーブルにローソクの付いたチョコレートケーキが運び込まれました。この日はモニカの60歳の誕生日でした。もちろん私たちの食後のデザートもチョコレートケーキでした。

夫妻の世話になった人が見てくれるかも。

 後日談です。私は一緒に行った友人にエスぺランティストは特別な人じゃない。時には人種差別ではないかと思えるような意地悪なことを言う人もいるのよと話してありました。

 その友人が一人でパリへの遠足に参加しました。遠足から帰ってきた彼女の話です。
 彼女は黒とオリーブ色の布で作った帽子をかぶっていました。どこの国かわからないけど白人女性が寄ってきてとても意地悪な感じで云ったそうです。‘あなた黒い帽子かぶっているなんて!家族でも死んだの?’彼女が答えれずにいると、離れたところにいたモニカがすぐにやってきて、‘私はアメリカに長く住んでいる韓国人です。黒い帽子をかぶることもあるけれどアメリカではそんこと聞かれたことはありません!’その女性は無言で友人から離れて行ったそうです。ふと見るとその女性のスカートが捲れあがっていたけれど注意してやる気にもなれなかったと。


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女性は強し!

2015-08-24 10:02:01 | エスペラント
予定:21日(火)8:45出発 →現代タペストリー美術館(ジャン・リュルサ) →昼食(ピクニック) →フォントブロー修道院 →アンジェ城 →グレシヨン

 最初に訪れてのはアンジェ城

元気で饒舌、だが分かりやすい解説をするガイドのカトリーヌ。こんなに話されたらメモもできない、テープレコーダーを持ってこなかったのが残念。


アンジェ城の屋上からはロワール川も見えます。 

 アンジェ地方には100を超す城がありそのほとんどは居城ではなく狩用の城だそうです。ここにはヨハネの黙示録を表した大きなタペストリーがあります。どれだけの職人がタペストリーを織る仕事に携わったのでしょうか。重厚ですが今にも崩れそうな織物にフランスの歴史を感じました。

 現代タペストリー美術館(ジャン・リュルサ)

 この美術館は以前病院でした。ジャン・リュルサの作品の一つです。彼は若くして第1世界大戦に従軍しましたが、精神を病んでしまいました。彼は悪夢の中で抽象画のような絵を描きました。ジャンの母はその絵を後世に残そうと絵を題材として刺繍を始めました。彼の作品の多くは母親の作品でもあるのです。広島の原爆を題材としとした作品もありました。


 ピクニックと称する昼食の準備です。後ろ姿で済みませんがグレジヨンの責任者の一人ジャニッキです。以前はリセの国語の教師だったとのこと。夫と娘グレーテル、外渉係をしているというイザベラ、それにボランティアのナンシー。自己紹介で彼女はフランス人の養子になった韓国人、もし韓国名で呼びたかったらソイと呼んでくださいと言っていました。とにかく働くこと働くこと。城に帰ると休むことなく夕食の準備にかかっておりました。

 
昼食はセルフサービス。にわとりの蒸し肉、サラダ、ヨーグルト、水、甘いお菓子とコーヒー。美術館の庭でみんなで食べました。こう昼食も良い物ですね!

午後はフォントブロー修道院へ
 修道院と云ってもここは普通の修道院ではないらしいのです。広い荘園付きの修道院です。男性用と女性用があります。ここに入れられたのは王侯貴族の子どもたちだったようで、まあ、口減らしのために幽閉された者のようでした。親たちからの養育費はかなりの額があり、修道院はお金もちだったようです。



荘園の跡地を良く歩きました。

修道院にはヘンリー2世とその妻アリエーノのが眠っています。
 
この地にエーノという才色兼備な女性がいました。その娘も母親とよく似て才色兼備でしたので他の(alia)エーノ:つまりアリエーノ呼ばれました。彼女はフランス王フィリップの妻になりましたが、発展家であり、幾人もの愛人を持ちました。それを怒ったフランス王は彼女を離婚しました。ところが彼女はこともあろうか、イギリスの後のヘンリー2世と再婚し、フィリップ王をパリに追いやり故郷に戻ってきたのだそうです。それが100年戦争の発端だったそうです。
 ヘンリーが亡くなった後、もう一度結婚しましたが相手にすでに妻がいたためそれは極秘結婚だったとか。ジャンの母もですが女性はすごい!

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フランス到着

2015-08-22 09:10:59 | エスペラント
20日(月)10:00 シャルル・ド・ゴール空港出発 →シャルトル→昼食(レストラン)→ノートルダム大聖堂 → 宿泊地グレシヨン(お城)
 7月20日4:30。ド・ゴール空港到着。前夜に来て1泊するか悩んだのですが知らない土地で右往左往するのの嫌なので早朝到着を選びました。時間はたっぷりあるのに目印を探すのにまさに右往左往しました。集合場所を見つけ8時過ぎまで隅の椅子に友人と腰掛けてのんびり過ごしました。ところがバス会社がシャトルバスしか入れない場所を指定したものですから、出発時間になってから移動することになり体の不自由な人もいるので大変でした。
 11時過ぎに出発。シャルトルへ。バスの中からノートルダム寺院の二つの塔がが見えてくる。建設時期が違うので一つはロマネスク様式、もう一つはゴシック建築の説明を受けて、あれあれ!1998年モンペリエ大会の時に来ていたことを思い出しました。そんなわけで写真なし。


 グレジヨンの情報は→https://eo.wikipedia.org/wiki/Kastelo_Grezijono


遠足参加者は35名。全員の写真ではありません。日本の方もおります。肖像権侵害と云われた時には削除します。


 食堂からあふれるくらいの人数でした。と云うことは本当に小さなお城です。私たちは裏の部分の塔の中にある日本でいえば3階にあたる小部屋をあてがわれました。
 2階までは内階段がありますが、外のらせん階段で登らなくてはなりません。塔で無いところにはかなり大きな部屋がありコンセントもありましたが私たちのところにはありませんでした。また2階には2段ベットいくつも並べた大部屋もありました。食事は昼食をレストランで食べた以外はすべてお城のコックが腕をふるったもので、美味しかったです。但し、飲み物代は遠足代に含まれていません。グラスワイン・コーヒー共に1ユーロ。
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ご無沙汰しております。

2015-08-21 19:57:25 | エスペラント

 ブログ再開前にしておくべきことがあり、長いことご無沙汰してしまいました。まだ写真も取り込んでおりませんか、大会前遠足の予定だけをようやく書きました。フランス語が読めないものですから日本語で書き表すのに苦労しています。Langeais城は日本語で表すとどう読むのでしょうか教えてください。

大会前遠足ロワール川周辺の城めぐり:7月20日~25日
20日(月)10:00 シャルル・ド・ゴール空港出発 →シャルトル→昼食(レストラン)→ノートルダム大聖堂 → 宿泊地グレシヨン(お城)

21日(火)8:45出発 →現代タペストリー美術館(ジャン・ルサ) →昼食(ピクニック) →フォントブロー修道院 →アンジェ城 →グレシヨン

22日(水)9:出発 →Langeais城(ランジェ城) →昼食‘レストラン:バルザック’ →ヴィランドリー城 →シノン城 →作家フランソワ・ラブレーの生家跡 →グレジヨン

23日(木)9:00出発 →ブロワ城 →昼食(ピクニック形式)→シャンボール城 →グレジヨン

24日(金)9:00出発 →アンボワーズ城 →クロ・リュセ城 →昼食(ほら穴を利用したレストラン)→シュノンソー城 →グレジヨン

25日(土)8:00出発 →ヴェルサイユ宮殿 →昼食(ピクニック形式)→リールへ

 沢山の城をめぐりいろんな逸話を聞かされ、楽しかったのですが、夜は疲れ果てガイドの話ををメモする気力もなく写真を見たら思い出すかもと地名はできる限り写真にとりましたが、思い出せるでしょうか。

 ブログの文字が不揃いになっています。薄くて小さくて読みにくいと言われたので程良い大きさを見つけようと試みた結果です。お許しください。
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帰国

2015-08-09 05:05:20 | エスペラント
 昨日成田空港着9。敬老割引のあるリムジンで帰りしました。渋滞に巻き込まれ帰宅は13時でした。
 空港で若い職員に長旅ご苦労様でしたと言われ思わず笑ってしまいました。余程疲れて見えたのでしょう!

 大会前遠足も大会後の遠足も強行軍。石畳の上を何時間も歩きまわりました。ロワール地方の城めぐりではイングランドとフランスのつまり支配階級の抗争についてたくさん聞かされ、ベルギーではフランス・オランダ・ドイツに支配され、差別されたベルギー人の心の軌跡を沢山聞きました。日中はあまりの強行軍で夜は疲れ、メモを残すことができないので写真をたどることにしようと地名等は写真に残しました。まとめるには時間がかかりそうですので是非後日ブログに載せられたらいいなと思います。

 リールの大会は大変な混みようでした。何しろ最終的参加者は2600名を超えました。満杯で入れない部屋も多かったです。コンサートや演劇は無料ですが制限され、事前に切符を貰わないと入れないものが多く、インフォメーションに貰いに行ったらそんなことは知らないという当番者もいて幾つかは切符を貰い損ねました。予想外の大勢の参加者に混乱した面もあったかもしれません。

 短いですが帰国報告です。
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