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生きること:過去と未来とエスペラントと

"失くした二つのリンゴ”を見て

2008-03-31 10:41:59 | エスペラント
 原作『DU POMOJ PERDITAJ』は中国で出版された VERKOJ DE VERDA MAJO のp.395 に掲載されています。日付は1939年4月。まだ、二人のお子さんが生まれていない、重慶爆撃が始まって数カ月の後のことです。

 ページを捲りながら、この文をを読んだ時の感想を思い出しました。長谷川テルにしては凄く感傷的であると。

 しかし、娘さんの旅から垣間見ることのできるテルは彼女の著作や伝記からは窺い知ることのできない人間味をおびていました。

 栗栖継氏が登場したのもうれしかったです。彼のことはserenaさんがブログの中で触れていました。

http://blog.goo.ne.jp/serena_2005/e/b27aacc51a18bcfd54c72c6c81f600b7

 お姉さんの幸子さんにお会いしたのは赤城山でのエスペラント大会でした。エスペラントを始めて3カ月の私は年齢を聞かれた時、エスペラント歴で3カ月と答えました。その後私の呼び名は INFANO 『幼児』 となり、多分私の本名を記憶している人はいないでしょう!

 テルの人柄を知ることができると同時に、ウン十年の昔を回顧する貴重な時間をいただきました。
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失くした二つのリンゴ・再び

2008-03-30 09:27:39 | エスペラント
 2月に放送された『失くした二つのリンゴ』の再放送が今日あります。

 BS朝日; 15:00です。

 見逃した方はどうぞ!私も今日見るつもりです。

 この前、海外送金について書きました。実ははじめ日本の銀行に行きました。初めて送金をすると言ったら、書き方の見本を出してくれ『私の方はお客様書いたものを打つだけですか…。もしひと文字でも間違っていたら帰ってきます。すると経費が余分に10000円ほどかかることになりますので、間違わないように書いてください』と言われました。

 そこで日を変えることにし、外国銀行の支店に行きました。間違えたら戻るということまでは同じですが、あなたのメモを見せてくださいと言いい、すべて点検し、備考欄にまで必要と思われるものを書き足してくれました。

 このサービスの差を何と言うべきでしょうか。
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エスペラント旅行と資金

2008-03-26 10:50:56 | エスペラント
 子どもが3人大学を出た時夫に申し出ました。土地にしても家にしてもわずかな預金にしてもすべて夫名義これは不公平ではないかと。これからの数年間私が働いた中から残金すべて、将来の旅行資金として貯金しますと。

 これはエスペラントロンドの仲間が私に言ってくれたのです。『自分の貯金しているかい? 将来自分で使う分を貯めておかないと後悔するよ!』彼の助言で私は子供が巣立った後の数年間、旅行用に貯金をすることができました。

 ですから、私はこのお金が底をついた時私の旅行は終わりだと思っています。そんなわけでいつもケチケチ旅行をしています。

 今までは一人で行くのが常でしたが今年は友人も誘いました。航空券も予約しました。大会前にドイツのハルツ山地にあるエスペラント市/ヘルツブルグにも行くことにしました。昨日、銀行で仕送りもしました。
 これがいろいろとコードがあって大変でした。もしコード間違い等で着かなかった時には電話してくれるというので電話が来ないことを願いつつこれを書いています。
 それにしてもインターネットは便利です。参加前にその町にどうしたらたどり着けるかと質問すると翌日には返事がきました。銀行のコード等についても疑問にすぐに返事がきまました。
 もし初めて自分で払い込みをしようと考えられる方、先に銀行から申し込み用紙を貰い、それに沿って、わからないことがあったら質問をするのが良いかもしれません。(余計な老婆心です。)

 私の旅行準備経過をメールで知った友人は『5円、10円の差が合計すると大きくなるのねぇ!』 と驚いていました。

 ちりも積もれば山となる。

 今年も楽しい旅行を夢見ています。
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インドの踊り

2008-03-24 10:40:54 | エスペラント
 これの記事で私のバンガロールでのエスペラント大会の報告は一応終わりたと思っています。

 閉会式が終わり会場を出るとそから賑々しい鈴、太鼓、鉦の音が聞こえてきました。多くは10代後半と思える若者たちが20名ほどが踊っていました。
 両足には鈴のついた足環、両手に鉦。踊りが激しければ激しいほど音も賑々しくなります。座り、飛び、跳ね、激しく動きながら互いの手に持った鉦を打ち鳴らし2重の塔や3重の塔を作ってはとんぼ返りし、激しく踊ります。
 この踊りはベンガロール近郊の農村の伝統的な踊りでカムサリと言うのだそうです。それは村々によって違い内々で行われていましたが、最近、ホテルが観光客のために呼んだりイベント過剰で踊らせたりするようになったのだそうです。
 こうして、若者が都会を訪れ、現金収入を得ることでインドの農村も変化してゆくのでしょうか。

 それにしてもインドの踊りは激しいですね。民族の夕べ『Nacia vespero』での踊りもすべてはげしく、私の写真はまるで駒が回っているような、台風の目でも写したかのようにぶれていました。
 そして、表情はほとんど変えないのに目の動きはユーモアにあふれていました。
 通りすがりのインド人をているとその表情は暗く険しく見えます。ところが話し始めると優しい明るい表情に一変するのです。とても不思議な印象を持ちました。そのことを先日突然ラオスから帰国した息子に話すと、『不思議なんだよね、南アジアの人はみんなそうなんだよ!』と言っていました。

 これは白人による植民地支配と関係があるのでしょうか。

 カムサリの一部分に関する写真がlignpontoさんのところにありました。その激しさは写真からは窺い知ることはできませんが見たい方は訪ねてください。

http://blog.goo.ne.jp/lignponto/e/c72bafa1c883463c2230274feef3e5da
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被爆者救済の永井隆博士の次女

2008-03-19 08:58:54 | 平和
 今朝、毎日新聞を開くと、筒井茅野さん 被爆者救済の永井隆博士の次女 66歳
2月2日死去という文字が目に飛び込んできました。
 この方が私より若かったとは知りませんでした。

 昭和21年、あるは22年、永井博士の『この子らを残して』と言う随筆が新聞に転載されました。多分朝日新聞だったでしょう。毎日転載されたのではなかったかもしれません。母はいつもその文を読んでくれました。小学校に入ったばかりの私は泣きながら聞いていたと思います。中学生になってその本を探して読みました。鉛筆で描いたような線画の挿絵がありました。
 母は戦争反対とか、戦争は悪いとか直截的に自分の言葉でいうことはありませんでしたが、私の中ではかえって戦争への嫌悪が助長されたように思います。
 
 昨日、一昨日と東京大空襲のテレビドラマが放映されました。私は見ませんでした。私の友人のキョウコちゃんはそれより前の空襲で両親を失くし、田舎のおじさんのところに身を寄せていました。5歳の子どもが語る恐怖・悲しみ・怒り・嘆きは子どもの私の心にに深く入り込み、戦争の追体験はもう充分であると私に思い込ませるのです。

 昨年だったでしょうが、教師に引率されて平和展示室にやってきた4年生の女子児童が『私は戦争は嫌だから見たくない』とわめいていました。『事実を知らないで、いやだと言っていても自分がなぜ嫌なのかは分からない。事実を知ったら、自分がなぜ戦争が嫌いかがわかるはず。まず、事実を知ること…。』と話すと真剣に展示物と向き合っていました。
 私の思いはいつもあちこちへ飛んでゆきます。茅野さんから話がそれました。

 私の思い出の中にいる彼女はおかっぱの幼い少女でした。新聞には光を放っているような明るい笑顔の美しい女性の写真が載っていました。

 ご冥福をお祈りします。
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インド的感覚と日本人

2008-03-16 09:56:37 | エスペラント
 エスペラント大会でインドの人と話して感じたこと。

 まず距離的感覚。
 あの広い国では3kmや4kmの違いは誤差の範囲内なのでしょうか。大会申し込みの案内にはどのホテルも大会会場から2.5kmぐらいとありました。ホテルで地図を貰って代表者はこれが徒歩圏内かと驚き、歩いてみたら約1時間、6キロ近かったので歩けないとバスを調達してもらいました。その後、案内してくれる人にホテルから会場までも距離を尋ねると、答えは2kmでした。
 そういえば昔、子どもの頃お使いに出され、知らない田舎道を歩きました。なかなか到着しないので通りすがりの人に尋ねると、すぐそこと言われました。しかし、行けども行けども到着しない。そこでまた他の人に尋ねるとすぐそこと言われる。しかしやはりなかなか到着しないということがありました。あの頃は徒歩で行ける範囲はすぐそこだったのかなと思います。インドではいまだにその感覚が生きているのでしょうか。。

 気温も同じです。今何度ぐらいといつ尋ねても答えは25℃。そういえばこの国の季節は2つしかないと言うことです。暑い季節と、ものすごく暑い季節の二つだけだそうです。
 本来日本は農業国でした。農民たちは暦に従い、細かく温度や天気を気にして仕事を管理し、収穫を得てきたのです。ですから、私たちの生活から、台風とか雨とか、気温とかは切り離せなくなっています。いまではテレビの予報官まで、コートお忘れなく、傘を持ちましょうと余計なお世話と思えるくらい注意を喚起してくれています。常夏の国インドでは気温など気にする必要はないのでしょう!
 彼らは私たちを毎日つまらないことを聞く人たちと思ったかなと今は無意味な質問をした自分を悔いています。
 でもですよ、自分がどのくらいの暑さに耐えているのか知りたかったですね!
    
 
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エスペラント市:ヘルツベルグ

2008-03-13 14:36:06 | エスペラント
 まだ、インドの熱が冷めず、書きたいこともあるのに昨日は世界エスペラント大会参加の大会番号と共に2回目のお知らせも(DUA BULTENO)も受け取ってしまいました。その中にはさまれていたお知らせが、昨年1月20日にこのブログで少しふれたエスペラント市:ヘルツベルグからのものでした。

 今年のロッテルダムでの大会前に7月11日~19日まで文化観光週間と言うのを開くというのです。ここは古い歴史の街らしく中世の遺跡(城)、国立公園、山、あの笛吹きで有名なハメルーンへの遠足などバス、電車代込みで参加費:今月中なら195€(約3,2000円)。宿代も安い。二人部屋なら20€から…。
 私の気持ちはもうそちらに飛んでいました。
 夜は講演も用意されています。この町では小学校から高校までエスペラントの授業があります。普通の市民と歓談できるのです。

 さて問題はどう行くべきかです。
 今朝、早速問い合わせのEメールを送りました。

 また冒険ができそうです!
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お勧め

2008-03-08 19:14:29 | エスペラント
 今年度の雑誌KOMENCANTOが送られてきました。
 昨年末、エスペラント学会の注文書にKOMENCANTOの名が無かったので私も注文しませんでした。
 雑誌エスペラントの3月号に3月末までKOMENCANTOの申し込みを受けるとあります。興味のある方は申し込んでください。編集者はロシアのエカテリンブルグに住んでいます。夫婦で始め10年頑張りました。今年よりロシアエスペラント連盟が援助してくれるそうで、二人の苦労は報われたことになります。
 紙質もよくなりました。結構面白いですよ!原稿を書いて送っても良いでしょう!
年6回発行:誌代は航空便:3400円、船便:3000円です。
A4判:今回は16ページ。ページ数増やしたのかもしれません。

 小さなエスペラント文化の灯を支えるのが私たちエスペラントを愛する者の務めと私は個人的に思っております。

『写真下手ですみません!』
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バラート(インド)の食習慣

2008-03-05 10:45:11 | エスペラント
 講演の中で面白かったのはランガさん(RANGANAYAKUU)のインドの食習慣についての話でした。

 まずインドでは食事を勧められたらはじめは断る。ヨーロッパに行った時断ったら食事を貰えなかった話。同じことが日本でも行われていました。私が子供のころ田舎ではまだそういうう風習があり、東京の知り合いに遊びにいったら食事を貰えなかったなどの笑い話が残っていました。

 面白かったのは牛についての話です。
 私たちは聖なる動物としてインド人は牛を食べないと聞いていました。しかしそれは誤解だというのです。

 インドは多民族国家、その中には無数の種族が存在しています。それぞれに違った食習慣を持っています。しかしインド人は自然界のあらゆるものを利用して生きてきました。ネズミや犬を食べる種族もいます。
 ある地方の農耕種族は正月に3日間お祭りをします。そして1日づつ恵みを与えてくれるもの3つに感謝します。それは、大地と雨と牛です。牛は美しく飾られて農民の感謝を受けるのです。それを見たヨーロッパ人がインド人は皆、牛を神として崇めているとと思いこみ、伝えたのがインド人は牛を食べないという説が流布した原因です。

 みなさんは街の中を自由に歩いている牛を見るでしょう。あれは牛を放牧しているのです。牛は一日中餌を求めて町中を歩き、野菜・果物の皮やくず、また紙など捨てられたものを食べます。つまり街をきれいにします。そして、夕方には自宅に帰り飼い主にミルクを提供します。

 インドの食事は1日2回です。朝と夜に食べ昼は水だけを飲みます。この習慣は仏教が入ってきたころに始まりました。飽食は健康に悪という仏教の考えによものでした。
 今大会で出されている昼食はインドの人の朝食です。カルナタカ地方の味をいろいろ味あって欲しいと少しづつ変化をつけています。

 内容は以上のようなものでした。

 はじめは美味しかったカレーも五日目になると飽きてきました。

 それにしても牛を街で放し飼いにするという話は意外性があり面白かったです。犬も歩道に寝そべって人が近づいても微動にもしない。雑踏の中でさえ人と動物が共生している。互いに尊重し合っているなのか無関心なのか、その辺がわかりかねました。
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アジア大会の各国報告と講演の中から。[3]

2008-03-03 10:39:26 | エスペラント
  UEA(世界エスペラント協会)会長D-ro Probal DASGPIA の講演

 彼はインド人です。彼の発音はインド英語と同じく聞き取りにくい。自分のエスペラント力のなさを棚に上げるわけではありませんが、もしかしたら間違った解釈をしてるかもしれません。この講演を聞かれた方で私の解釈が間違っていると思われる方に訂正していただくために、あえて私の聞き取ったことを書くことにしました。

 エスぺラントはヨーロッパにおいて作られたものであるが、形態において中国語に似ている。そのことはエスペランとに非常に良い結果をもたらしている。
 (中国語を知らない私にはどのように似ているのか全く分からない。機会があったらエスペラントと中国語の比較について聞きたいものです。)

 インドは多言語国家であり、言葉は書かれることなく話し言葉として発展した。多民族がお互いに理解するために言葉を変化させ発展させてきたのです。そこにサンスクリット語が加わり、インド人の考え方に他の考え方を付け加えた。しかしインド言葉は辞書や文法に頼らず話す中で発展した。言葉は会話の中で発展してゆきます。
 一つの文章を多言語に翻訳するとその解釈は永遠に同じことにはならない。しかし書くことは民主的な権利なのです。RauxmoもCO(世界エスペラント協会中央事務局)に影響を及ぼしている。 

 (RAuxmoとはUEAに不満を持ち雑誌 LITERATURA FOILO とか新聞を発行し文化面で活動しているグループを指すと思われます。)

 エスペラントは全く理想主義的言語です。その中に私は夢と不思議な魅力のある言語的同盟があるべきであると私は思います。

 人の生き方には二つあります。
 一つは持つ:つまり所有するということ。
 もう一つはどう存在するかということ:つまり自分の目標に向かって進むということです。
 私は、ものを所有することに向かっている人のその目的をひっくり返すことができるかもしれません! (以上)

 私の聞き取ったことをエスペラントのメモを片手に日本語でまとめてみました。どなたか内容の添削をお願いします。

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アジア大会の各国報告と講演の中から。[2]

2008-03-02 08:41:33 | エスペラント

ネパール・フィリピン・インドネシア

 ネパールでは3年ごとにおかなっているHimaraja renkontigxo 『ヒマラヤの出会い』と言うヒマラヤトレッキングが成功し、ヨーロッパを中心とした国々からエスぺランティストが訪れるようになりエスペラント運動は活気づいている。来年もまた行われるので皆さん是非参加してくださいということでした。
 そのことを若者たちは会う人に私たちがお世話しますので是非と個人的にも呼び掛けていました。

 もう10年以上前のことです。ネパールの青年と文通していました。文面にはいつも、外界への憧れと悲壮感があふれていたように思いました。彼は遂にこのHimaraja renkontigxo で知り合ったドイツ人の援助でドイツに脱出しました。彼の名を言うとkomencanto(初心者)の女性が、今はネパールに帰りエスペラントの活動にも参加していると教えてくれました。

 ネパールの若もたちは明るく陽気でした。カトマンズに飛び、そこからバンガロールまで一緒に旅をしてきた20年来のドイツの友人の話では列車の旅は19時間、その間歌ったり踊ったり楽しかったということでした。
 ところが汽車は国境の町から乗ったものでそこまで数日間バスの旅があったのだと後で知りました。帰りはサイババのところに寄って行くから一緒に行きましょうとネパールの若い女性は私も誘ってくれました。

 ネパールの報告の中だったと思うのですが、フィリピンでのエスペラント講習の話がありました。アメリカのエスぺランティストの紹介で彼の姪のところに4ヶ月間寄宿し、60人ほどにエスペランとを教えたということでした。まだ組織化されていないので発展させたいとのことでした。

 インドネシアにはエスペランティストのガイドがいるそうです。彼を援助するためにグループで旅行しようなどと言う話もありました。

 私の記憶に間違いあった時はコメント欄で指摘ください。情報は正確な方が良いですからよろしくお願いします。

  
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アジア大会の各国報告と講演の中から。[1]

2008-03-01 14:24:30 | エスペラント
 
タジキスタンの場合


タジキスタンにおける問題はこの国が山国であり、外国人と接触する機会がなことにあります。
 まず国の90%が山岳地帯で谷間が10%です。ですから、外国人に見てもらうような観光資源もありません。その上、タジキスタンにエスペランティストがいるということは外国には知られていなかったと思います。
 実は軍隊に属していると、国外の人との連絡は禁止されます。そんな理由で海外と連絡を取ることができませんでした。
 今後、外国の人を呼び入れエスペラントの普及に努めたい。将来、できることなら数年後アジアエスペラント大会をタジキスタンで開催したいものです。ですが、タジキスタンのエスぺランティストだけの力では不可能です。幸いにも隣国ウズベキスタンのサマルカンドには、世界的にも名が知れたエスペラントグループがあります。帰国したら彼らと連絡を取り大会開催に向けての連携を深めたいと思います。

 これが、タジキスタン運動報告の概要です。2年後の大会はモンゴルに決まりましたが、もしかしたら、4年後、大会はタジキスタン、遠足がサマルカンドなどと言う2カ国にまたがった大会が開かれるかもしれません。
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