glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

生き切るということ

2006-08-30 14:20:48 | 家族・友人・私
 昨年より何度か会いたいと言ってくれた夫の義姉が再入院しました。
1月に入院した時、抗がん剤を使い体力を激しく消耗したのでもう抗がん剤は止め、成り行き任せで生きると電話をくれたのが3月でした。

 もう78歳ですがいつも元気な声です。彼女が夫と共に起した会社は8月で40年を迎えました。彼女は弟妹が多く、舅、実父、姑、実母を看取り、夫の兄弟の家族もよく面倒を見てくれました。私は兄弟姉の連れ合いの誰からよりも彼女の世話になりました。いつもカラカラと笑いながら、私を含めた兄弟姉妹の面倒を見てくれました。そんな訳で彼女の双子の妹達とも私は忌憚なく話す事ができます。

 見舞いに行く夫に同行しました。

 ベットの上の彼女は痩せたであろう身体にタオルをかけていましたが、外見上表情も穏かで皮膚の艶もありました。身体は痩せて皺くちゃだというので、私はイタリアの暑さで体内の水分がみんな抜けた気がしたこと、そしたら、見えるところも見えないところも皮膚が小波を打ったように小皺になっていたと腕を動かして皺をを見せると義姉は噴出して笑っていました。

 彼女の命はもう先が見えていることは明らかです。しかし、この歳になると誰が先に逝くかなどということは予測できません。もしかしたら私が先かも・・・・。
 私はこういう場合に慰めの言葉を考えるのがとても苦手です。ですから、下手な慰めを言うのはやめました。彼女が会いたいといった息子の家族の写真をもって出かけました。互いの息子たちのこと(互いに息子が3人です。そして孫たちはみな女性です。)孫たちの愉快な話しをして笑いました。

 私達は殆んど自分達の現状には触れませんでした。子どもや孫の話は未来へと続く話です。それでよかったかな?とも思います。

 ”義姉さん、本当に遊びに来て欲しかったけど・・・また来るね”というと”そうね、また会いたいわね“といつもの快活な笑顔を見せてくれました。

 (無用な註ですが、1時間の面会の間夫は殆んど口を挿めませんでした。二人でピーチクパーチク喋っていたのです。)

 翌日彼女はホスピス病棟に入る事になると言っていました。”75歳迄元気に過ごせたのだから後悔していないし覚悟も出来ている”と彼女は言っていました。夫の会社が軌道に乗ってからは保険の仕事をいていたのですが、外交はしないのにお客が次のお客を連れて来ているのでしごとがやめられないと7年前、初期ガンが見つかるまで仕事を続け、実母がなくなってからは、姉妹の中心として姪も引き連れて母が残した琴の会の運営までしていたのでした。

 生を全うするということは大変なことです。それでも彼女は自分の意志を貫くだろうと私は感じています。
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ヴェネチァも暑かった!

2006-08-24 10:33:03 | エスペラント
 ヴェネチァの話の前に

 以前ゴーヤを植え、二階のベランダまで綱を張った事を書いたと思うのですが、これは伸びに伸びて、今ベランダの手摺を占領しつつあります。緑の葉は隣家との間に緑のカーテンを作りとても気持が良いです。ところがです。気付かないうちに2階からも一階からも手の届かない所に大きなゴーヤが2本なっていたのです。

さて、どうしましょう? 

針金でできたハンガーを伸ばし、1、5Mほどの棒に結び付けかぎに引っ掛けて収穫しました。
  してやったりと満足しています。でも2本のゴーヤをどう調理して食べるか。このところゴーや入りの炒め物続きなのです。

 ごま油で炒め、少々甘辛く佃煮風に調理しました。ご飯に合うと好評でした。ゴーヤの成長は本当に早いです。収穫が多くて悩んでおられる方お試しください!!  


       

7月25日(火)
 いよいよヴェネチァ遠足の日です。朝、ノルマからまた電話があり、朝8時半出発、駅へはアルホンソ氏が連れて行ってくれ、後は他のエスペランテイストが案内し、その他万端私の日程は整っているのでヴェネチァを楽しんでくるようにと言われました。

駅にはレオナルドが待っていました。
 パドパ―ヴェネチァ間 5ユーロ。時間にして30分~40分。快速、鈍行といろいろあるようです。

 交通費と昼食代位は支払うつもりでしたが、彼はそれではと私の分だけ受け取りました。ヴェネチァの駅は運河に面しており、そこからサン.マルコ寺院までぽんぽん蒸気船で移動。5ユーロ。

サン・マルコ広場は大勢の人でごった返しています。その多くが、寺院の見学者です。並ぼうかとレオナルド。陽射しをさえぎるものなどない空間に多くの人が並んでいます。2~3時間並ぶ事になるでしょう。私は内覧をやめ、ヴェチァの雰囲気を楽しむことにしました。サン・マルコ寺院近くの寺院の入り口を入りました。 (名前を忘れました) この寺院に祭られている聖者は病人の為に尽くした人なので、今は病院として使用されているそうです。礼拝場所は人の出入りが禁じられており、黒い猫が1匹、冷たい石の床に心地良さそうに寝そべっていました。ここで、出入りを認められているのはこの猫だけで監視員が厳重に見張っていました。患者たちも決められた狭い通路を通っていました。かれは正面に飾られた絵を私に見せようとつれては行ったのですが、ラファエロとか、ダ・ビンチとかの絵があちこちに散らばっているイタリアの製作者の名前は、芸術的センスの無い・・・と言うより知識の無い私には記憶しておくことは難しいことでした。

彼は大運河が海に流れる方まで歩き、それから町を散歩しようといいましたので、それに従うことに.その前によりたい所があると言うので、人の波をかき分けかき分け港の方歩きました。なぜこんなに人がいるのかと思えるほど炎天下の中を、多くの人々が黙々と歩いているのです。小さな運河がある度に階段状の橋を渡って流れを越える。ただ、段差が低いので階段を越えるのは楽ですが・・・。地元の人は何百年もこの環境が1番暮らしやすい環境であると考えて生きてきたにちがいありませんがかなり厳しかったです。

レオナルドが寄った建物は入り口は小さく看板には Marina Militareと書いてありました。彼は私は年金暮らしだけれど元船員でここは船員達の立ち寄る場所だといいましたが、海軍関係のクラブようでした。

 その近くにある船博物館に入った時は本当にホッとしました。でも入り口には3メートルぐらいの大きな魚雷がありました。人が座るところがあったので人間魚雷かと思いました。後でロナルドが説明してくれたのですが、座席は二つあり前者が戦艦に向って突っ込んだ時、後者がボタンを押して二人とも魚雷から離れる仕組みになっているのです。人間と共に突っ込んでゆく日本の特攻は本当に異常で人命軽視も甚だしいものだと感じました。

3階で日本から贈られた半被と帆船の模型を見ました。半被には
『東神倉庫株式会社神戸支店』
とありました。イタリアとどんな関係があったのでしょうね。

 船の博物館で丁度一時、彼は先ほどのクラブに引き返しました。ここで昼食の予約をしておいたのでした。

建物の奥にはどっしりとした木作りの食堂があり、食堂の天井は板張りというより、昔の日本家屋の梁のような太い柱を並べた重厚なものでした。広い中庭がありその奥は宿泊施設で関係者とその関係者は安く泊まれるけれど予約は結構大変だと話していました。 

 食前にaperitivoをバ―でのみました。辞書にはアペリチフとあり、これは KIEL LA AKVO DE LA RIVERO と言う小説にでてきていたので、どんな食前酒かと興味を持ったものでしたが、実はアルコールは含んでおらず、とても甘くちょっと樹脂のような香りがしました。もちろん味も複雑です。
 『また、雑学が一つ増えた。しめしめ』と思った私でした。 

 食事はペンネ(?)魚料理、サラダ、果物でした。
食事が来る前に、ウエーターが現われて私に頼みがあると言うのです。自分の名前を日本の文字で書いて欲しいと言うのです。彼の名はジュリアでした。女性の名かと思いましたが、本人の名前でした。食事はとても美味しかったです。
 食後に彼がまた現われて今度は6人分お名前を書いて欲しいと・・・。

食後のコーヒーは玄関近くのバーで注文。レオナルドが言うことにはこのコーヒーはジュリアのおごりになっていたということでした。

 午後は狭い路地を歩き、裁判所とか有名な建物を見て歩きました。日の射さない路地は涼しかったです。午後になるとレオナルドのエスペラントが怪しくなりました。彼はエスペラントを話しているつもりでイタリア語を喋っているのです。それでも何とか分るのですが、想像できない単語を聞き返すとえっと驚いていました。途中、彼の奥さんから電話が入りました。挨拶すると私はエスペラントは喋れないの、楽しんでくださいと言っていました。


 私もイタリア語は喋れないのにどうして分ったのでしょうね。
 彼女は歯医者さんで、世界大会が終った後に休暇を取り二人でポルトガルに2週間旅行するのだそうです。
 ここだって充分に暑いのになぜとポルトガルなんだとかれは苦笑していました。

 途中でアルホンソ氏から電話が入り旅行カバンがついたと言うことでした。これでひと安心です。

ヴェネチア、7時間の散歩。あまりの暑さに日は高いけれど帰ることにしました。

帰りはパドパの一つ手前の駅で下ろされましたが、アルホンソ氏がホームで待っていてくれました。彼らの連携の良さには脱帽です。


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アルホンソ夫妻

2006-08-19 07:50:02 | Weblog
 私の宿泊先はアルホンソ夫妻のペンションでした。10畳ほどの部屋にベットが二つとソフア、テーブル、机、テレビもありましたがほとんど寝ただけの生活でした。浴室は二つあるので一つを自由に使ってよいという事でした。
 アレッツでも困ったのですが浴室にドライフラワーが飾ってあった事です。この為か顔が腫れて痒くなり、今、ヨーロッパは気温が高く、普段よりいろんな花粉が飛んでいるから気をつけた方が良いと息子が持たせてくれた市販の薬を服用しなければならなかったのです。

 庭は広いし、金属製の鶏とかフクロウが品良く配置され、苗木を守る為に置かれた底の無い大きな花瓶状のものまでユーモラスな人の顔が描かれていました。玄関の取っ手は鋳造された母子像、中国の古文書を描いた絵画その他美術品に溢れていました。
後で聞いたのですが、それらは友人たちの作品で贈り物としていただいたものだそうです。

 夫妻は共に元大学教授で、子どもが6人、子ども達が巣立ち、定年後家があまりにも広いのペンションをはじめたと言うことです。

 到着してすぐ、私が着替えが無いと分ると、アルホンソ氏はまだスーパーが開いていると云いノルマと私を乗せて車を走らせてくれました。

 ノルマの動きの早いこと、閉店まで30分と言うのに歯ブラシ、歯磨き粉、下着、Tシャツ、パンツなど私の身体に合わせて選び、その後Tシャツの材質が気に入らないとワゴンをひっくり返しより上質なものと取り替えてくれ、『良かった良かった、良い買いものができた。』と喜んでいました。

帰宅すると今度はノルマの友人の車でピザ店へ。アルホンソ夫人と私も含めて6人。店は車で5分ほどの所にあり、中庭全体が木陰になるように木が植えられていて気持ちの良い店でした。

 私はビ-ルと無難なところでマルガレータを注文しました。そのピザの大きいこと。皮は薄くてカリカリに焼けていました。直径30センチ以上あろうかと思う代物を皆さんおしゃべりをしながらパクパクと平らげてゆくのです。放射状に食べて行く人もいれば、真中を先に食べ、外側のよりカリカリした所を指でつまんで食べる人、とにかく早いのです。昼食を食べそこなった私でしたが、必死で喰らいついて、みんなが、おしゃべりをはじめてもまだ食べ続け、とうとう残してしまいました。その後皆さんは甘いものを注文して食べていました。アルホンソ夫人があまり勧めるので - こんな時遠慮しすぎると雰囲気がギクシャクします - 彼女の分を少し味みさせてもらいました。

 この5人は教会のボランテイアグループに所属し、長いことブルガリア、南アフリカ、パキスタン、など4カ国の貧困児童の援助をしているのだそうです。突然ノルマが熱弁を振るい出しました。

 エスペラントを使って国際協力を推し進め、理解を深ければもっと平和に貢献できると言うようなことを云っています。それから私を見て『イタリア語でごめんなさい。今エスペラントの宣伝をしているのよ。』と云いました。『云っている内容が良く分る。』と私が答えると彼女は大いに満足して再び熱弁を振るい、友人達は穏かに聞いていました。

 さて支払いの段になると中座したアルホンソ夫人がもう支払いを済ませていました。その夜の食事は彼女のおごりでした。

 私の宿泊費は一泊40ユーロです。2晩で80ユーロ。つまり私の宿箔料はこの食事で消えたのではないかと思われます。
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パドバにて

2006-08-16 08:57:43 | Weblog
 ああ~、またまたブログ休んでしまいました。無くて七癖と言いますが、私は無数の悪い癖を持っています。長い社会生活の中でコントロールができる様になったと思うのですがそれでも時々出てしまうのです。今回も本を1冊読み終わるまでブログが書けなかったのです。
 子どもの頃は夕食になっても読書が止められなくて、罰として何度も夕食が貰えませんでした。でも母が戸棚におにぎりを作って隠しておいてくれるのでこれに味をしめ・・・。

      

 実はパドパでの2日間の計画を立ててくれたのはノルマでした。本職のガイドで今はボランティアでガイドをしているそうです。夫はブルガリア人。弟は日本人の妻を持ちブラジル・サンパウロに住んでおり、両親もブラジルに渡ったと言うことです。彼女とはメールで2~3回交信したでけの仲なのです。

 ノルマは小柄ながらがっしりとした体格の女性でした。良く来たと親しみを込めて挨拶してくれました。
 パオラが来ました。あれ?私の知っているポオラとは違い大柄でゆっくりとものをいう若い女性です。
 カバンが出来ないと言う私の訴えにノルマは証明書を見て、早速空港に電話そしてくれました。私のカバンは積み込まれなかったか、あるいは他の飛行機に積み込まれたかまだわからないという事だったので、係員が2時迄勤務だと言うからそれまでに所在を確かめ自分の携帯に電話するように言ったと云うことでした。一人旅だったら、私はどうしただろうと彼女の手際のよさにただただ感謝しました。

 私の知人のパオラは小柄で威勢が良く早口です。そこで思わず聞いてしまいました。
 <あなた、本当にパオラなの?>
 <私はアリーア・パオラ(他のパオラ)なの。>とゆったりと笑いました。ノルマからエスペラントを習い、今一人教えているのだそうです。

 ノルマは今日の案内はパオラに頼んであるけれどと車を走らせながら、旧市街を巡る運河沿いにクルマを走らせ、町の外観を見せてくれました。旧市街には車は乗り入れできなと言うことで、コペルニクスやガリレオ・がリレイが学んだという大学も運河の反対から見学しました。あの塔からコペルニクスはリンゴを落として、地球が丸いということを確信したのだとも。

 <この大学は世界で2番目に古いのよ。但し、当時のヨーロッパ人は世界はヨーロッパだけと信じていたけれど・・・>とも付け加えました。

 古い町を巡り、教会に入りコーヒーを飲み午後の時間はゆっくりと過ぎて行きました。やはり圧巻はScorvegni Chapel でした。1度に10数人しか入れないので待たねばなりませんでした。天井の色は澄んだ青。そこに描かれた聖人らしき人々の絵はまるで空に浮かぶ星々のように綺麗でした。
 見学者はほとんど無言でした。後でひとりが絵を指しながら係員に質問していました。そのような会話が分らないのはやはり残念なことです。

 6時過ぎ、私の身柄はノルマに引き渡され、彼女の友人でエスペランティストではない人の運転する車で宿に向かいました。

 ノルマは、空港の係員から連絡もこないし、まだカバンも届かないと憤慨していました。
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旅行カバンが出てこない!

2006-08-10 10:10:17 | Weblog
 イタリアへ行く前に息子の所による。5泊3日。

 息子のところからミラノまでわずか2時間。朝8時15分ミラノ到着。ヴェネチアに近い町のパドバのエスペランチストの世話になることになっている。
ミラノ、パドパ間は異動時間約2時間。
ミラノ発12時過ぎの電車に乗ると世話役のエスペランティスト、ノルマにメールしておきました。

7月24日、定時ミラノマルペンサ空港に着く。国内線並ですから乗客も少ないし荷物も少ない。ベルトは空回りしている。それでも私のカバンは出てこない。ベルトが動かなくなり乗客もいなくなった。残されたに荷持の中に私のカバンが無い。

 どうする、どうする。 
係員の下へ。こちらは英語はダメ、もちろんイタリア語も。でもちゃんとカードがあるのです。カバンの形とか色とかが載っている。
 係員が私の札を持っていなくなった。自分で調べに行ったらしい。戻ってきて滞在場所を聞かれる。旅程表を示し、出てきたら送ってもらうことを約束。証明書を書いてもらう。今度はバス乗り場を捜さなくては・・・。

 空港は2ヶ所に分かれていて市内へのバス乗り場は他の場所。
ようやく無料バスを探して移動、市内へ。所要時間4時間とってあったのに時間は瞬く間に過ぎてゆく。帰りのバス停を確認し、今度は切符売り場を探す。

 お昼です。弁当も欲しい。でも、弁当は先にお金を払い、レシートを見せて買うらしい。昼時なので列が出来ている。弁当無しで汽車に乗り込みました。

 バックに入っていた日本からもってきたハイチュウ1個と水だけで2時間の汽車の旅となりました。まるで山で遭難した人みたいです。 

 外はトウモロコシ畑とブドウ畑が続いています。また牧畜用の草の束も。どこか日本と似た風景でした。  
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乾燥人間!

2006-08-09 11:15:37 | 家族・友人・私
 引越しその他で随分とご無沙汰しまました。そんなglimiのブログを何回も訪れてくださった方おられました。感謝感謝です。


 7日、無事イタリアから帰国しました。暑かったですね。成田で空港の外に出た時は、日本の空気は肌に優しいと感じました。

 イタリアの空気のきつい事。私の化粧水は、アロエの絞り汁にアルコールを混ぜた単純な物。昨年と同じ量もって出たのに、減り方が早いと思ったらなんと水蒸気と化していたようです。途中で気付き、湯冷ましを足したのですがすぐに無くなりました。スアランオイルもです。ベビーオイルは付けても付けてもすぐに乾燥してしまいます。
帰国の途中、飛行機の中で自分の顔を見たら乾燥芋のように白い粉を吹いていました。

帰宅後ゆったりとお湯に入り、濡れタオルで顔を蒸したら、粉は無くなったものの顔は赤く腫れていました。

おかしかったのは体脂肪。久し振りに標準値に戻りました。喜んだのもつかぬ間、お湯につかり、夜中に何杯も水を飲んだら翌朝・・・昨日のことですが・・・元に戻っていました。脂肪がなくなったのではなく水分が無くなっただけのようです。太腿などの萎びた皮膚も数日で元の張りに戻るでしょう!

エスペラントのことは皆さんつまらないでしょうから、明日は旅の経験を書こうと思っています。

       
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