glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

国外に出て気付くこと

2014-08-22 07:15:42 | アルゼンチン(エスペラント)
 


 8月2日、大会は無事終了しました。緑星旗はアルゼンチン側からフランスのリール代表に手渡されました。その前にフランスの大使館から代表が出席していることがアナウンスされ、喝さいを浴びていました。

 そう言えば開会式には中国と韓国の大使館員が出席していました。エスペラント世界大会は決して大きな大会ではありません。横浜で開催された時は2000人でしたが今回の大会は700人でした。それでも民間人が自主的に集まる大会です。国の代表が、たとえそれが大使自身でないとしても脚光を浴びます。安倍総理は歴代総理の中で外遊が一番多いと先日報じられていました。しかし、訪問を受けた国の民間人のどれだけの人がそのことを知っているのでしょうか。中国の大会参加者は25名。韓国に至っては9名でした。それでも大会に人を送り自国の存在感をアピールする態度は日本も学んで良いのではないでしょうか。

 大会を進行しているメンバーの多くはブラジル人に見えました。その他遠足の通訳にはドミニカ人もいました。近隣諸国が一致団結して協力しているようでした。それを見ると東南アジアでも、他の国々のエスぺランティストが協力すれば大会を開ける可能性はあるのではと思いました。

 若い人たちの主張や議論を聞いていると言葉の使用についてもこの場を利用して共通認識を持とうと意見を述べ合っていました。日本では社会問題環境問題など突き詰めて議論するという風景を見たことはありませんでしたが、国境を越えて互いに理解すると言う事はこういう事なのだど幾度か感じました。確かにたった700余名の参加者でしたが、彼らが運動の中心に結集した時、エスペラントに違った世界が開かれるのではないかと言う予兆を感じる大会でもありました。

 8月2日、帰国途中、フランクフルトで乗り換えのため移動している時通路の両側に真っ黒な簡易ベットが列をなして置かれていました。どれくらいの人がいたでしょうか。ベットで休んでいる人。抱き合って寝ている人。幼児相手に小さなボールで遊んでいる父親。床に座っている人。異様な光景に驚きました。しかしここで寝起きしていると言う事はドイツ国内に入国をすることを拒否されているのだと感じました。女性たちはスカーフを身につけていませんでしたのでイスラム教徒ではないらしいので『もしやウクライナからの避難民?』と思ったのですが定かではありません。でも、世界の平和はまだまだ遠いと強く感じました。
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落し物

2014-08-20 16:24:38 | アルゼンチン(エスペラント)
 日本人がスリ被害や置き引きにあったらしく、日本での大会(2007年)では会場に忘れ物しても無くなることはなかった。日本は安全だから日本人には警戒心がないのではないかと日本の安全性を褒めているのか、日本人の無警戒さを呆れているのか分からに様な会話が数度聞かれました。スリに警戒が合言葉のようで一人で道を歩いているとなんとなく暗い気分になりました。

 金曜日の夜、広い通り『7月通り』を横断していました。この通りはとても広くて速足でなければ信号2回では渡れません。私の数メートル前を女性が二人両手に2個づつ紙袋を提げて歩いていました。すぐ前に若い男女が・・・。一人の女性の手から取っ手が外れたらしく紙袋が落ちました。前の二人が声をあげましたが急いでいる落とし主は気づきません。私の前の男性が駆けだしそれを拾うと横断歩道を渡り切った女性をつかまえて落し物を渡しました。薄暗がり、そして大勢の人。人込みに紛れてしまえば持ち去っても多分気付く人はいないでしょう。

 小走りに歩道を渡りながらなぜか私の心は安らぎました。ここにも良心が息づいていると感じたからでしょう。でも安心は禁物でした。空港で手首に激しい痛みを感じて思わず『痛い!』と叫んで手首を押さえたら手の中に時計がポロリと落ちてきました。実はプラハで同じ痛みを感じた日時計が無くなっていました。帰ってから時計屋さんに持っていったらピンが折られていました。通りすがりにピンを外し落ちたものを後で拾うという手口だったに違いありません。

ピンが折られた時計。スリ用の安物です。
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ロシア青年アレクセイに会う

2014-08-19 17:38:44 | アルゼンチン(エスペラント)
 開会式の時アレクセイですと声を掛けてきた青年がいました。現在まで会う事もなかったしこの数年便りは書いていませんが私の文通相手でした。彼の初めての手紙は日本語を教えてくださいと言うものでした。当時、共産圏から4~5通の文通希望の便りをもらいました。この度分かったのですが、『Juna amiko』という雑誌がありなぜか私の住所がそれに載っていたのだそうです。私の断りの返事にもめげず彼が幾度も手紙をよこすのでずるずると始まった文通でした。エスペラント文の他にちゃっかりと日本語の意味のわからない所の質問があり、とうとう彼の日本語の学習につきあう羽目になってしまいました。数年前から彼がスカイプで日本人のエスぺランティストと日本語で会話していると噂に聞きました。
 最近ではフェイスブックで彼が世界のあちこちを歩いているらしいことは知っていました。

 その後会場で会う事もなくInternacia Arta vespero『国際芸術の夕べ』で再び会いました。彼は前列で熱心にカメラをを回していました。

 終了後どこかで話さないかと言われましたが、もう9時近く、私のホテルは大会会場から離れているし、若者相手に話をする体力も残っていないので、来年フランス大会で会おうと約束し、10分ほどの会話で別れました。

 彼の記憶によると私たちの文通は1993年に始まったそうです。私の記憶には彼が24歳の時に手紙をよこした記憶しかありません。と言う事はアレクセイはもう45歳、青年と言える歳ではないかもしれませんが、私の思い出の中ではいつも悩み、何かに挑戦しようとしている青年でした。ソヴィエト崩壊後、希望を失った事もあったようで数年便りがありませんでしたが、私からの定期的な便りに自分は世界から忘れらてはいないと感じ、エスペラントの世界に戻ったとの事でした。その間に結婚、父親となり、離婚。彼の人生は決して平穏ではなかったでしょうが、元気な彼に会えたことは嬉しかったです。閉会式の後、彼はウルグアイに行くと言っていました。 'Kvazaux vagabondo!'(まるで放浪者!)と私が言うと『そうです。いろんなものを見たいのです』と綺麗な日本語で答えていました。


 
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半日遠足

2014-08-16 05:14:21 | アルゼンチン(エスペラント)
 半日遠足も色々参加しましたが書くべきネタや楽しさをあまり見つけることができませんでした。バスが通る道路のあちこちはまるで封鎖されているかのように工事現場沢山あるのです。
 例えば方法の足跡をたどると言う遠足。彼が法王になった時、彼はは貧しい人たちの中で活動きたと大々的に言われました。さて司祭の活動とはどんなものであるのか、社会福祉に興味のある私はその活動を知るのも良いかなと思ったのですが・・・。
 中身は彼が生まれた家、洗礼を受けた教会、小学校、初めに司祭になった教会などの訪問でした。ガイドは彼は15歳の時に神に使える決心をしたが、それを自分を指導していいる司祭以外には話さず懸命に勉強をしたと言う話をを繰り返していました。特に感動的活動について話すわけでもありませんでした。ただ、彼がイタリア移民の息子で上流階級の出ではないと言う事。庶民の生活を知っていると言う事を言いたかったようです。


いたるところに工事現場。数10メートル、時には、数メートル、間隔であります。まさかデモ対策ではないかと勘繰ってしまいました。


法王が初めて司祭に就任した教会の内部。


教会の入り口で物乞いする家族。手を差し出している所は写真にできずバスの中から盗みとりしました。
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ガウチョとは

2014-08-15 06:31:51 | アルゼンチン(エスペラント)
 ガイドの説明によるとガウチョはスペイン人男性と現地女性の間に生まれた者たちで、現地語での本来の意味は『孤児』なのだそうです。私はアルゼンチン文学は一度も読んだことがありません。かれは詩人エルナンデスの著書『マルチィン・フィエロ』を読めばガウチョを良く理解できると説明していました。

http://www.geocities.jp/argenjp/genkou/gaucho.html

 さて、食後に現れたのは老ガウチョ。ギターを片手に歌を歌いました。これはもしかしたら吟遊詩人の真似だったかも知れません。彼はマルチン・フィエロのモデルとなったガウチョの子孫だそうです。50ペソで彼のCDを人々は買っていました。興味がないので私は買いませんでしたが、買ってあげればよかったかなと今は思っています。多分、経済の行き詰まったところに暮らす人々に小さいい喜びを与えることはできたでしょうね。

 
その後ダンス。



 
赤い服の女性の踊っているガウチョがマルチィン・フィエロのモデルとなったガウチョの子孫と言われてる老人。10代のガウチョの卵もいましたからこれからそのお伝説は受け継がれるでしょう!


 ガウチョの誇りは馬を飼っていることではなく馬を友として大切にしていることであるとガイドは説明していました。そしてその実演が行われました。馬は飼い主に体をさすられると信頼しきったように身を横たえる。馬をソフアようにして人間が寄りかかってもうまは抵抗しません。ガウチョの生活の基本は野宿だったので、こうして馬に寄り添って暮らしていたのだと。衣服のポンチョは野宿にとって最良の衣類だったと






 確かに野宿をするのが当たり前の社会がアルゼンチンには存在したのでしょうが、今のブエノスアイレスの野宿の人の多さ。オフイスの入り口に寝てる人を当たり前のように若い女性は横を通って、何事もないかのように自分の仕事場に入ってい行く。毎日同じ場所に座っている幼子を連れた家族。それを横目で見る事もぜず人々は歩いている。どこから食料を調達しているのだろう。町が暗く見えるのは季節が冬であるだけではないとに感じました。
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オンブーの木

2014-08-13 12:31:15 | アルゼンチン(エスペラント)

 私たちを迎えてくれたのは馬たちとオンブーの木であった。オンブーは木といっても樹木ではなく灌木だそうです。この農場を開拓したのはイタリア人。1808年のことだそうです。そのイタリア人が植えたのがこの木だそうです。1880年スペイン軍人がこの牧場を支配するも、1937年に撤退。その時に馬牛が残されました。オンブーは樹齢200年以上。灌木にもかかわらず根は大きく育っていました。


 牧場の子どもたちか、それとも冬休みのヴァケーションに訪れた子どもたちでしょうか、オンブーの木の根っこに上り遊んでいました。木の妖精のように。


 オンブー近くで咲いていた赤い花。葉も花もねむの木にそっくりでした。ブエノスアイレスの街路樹は花はつけていませんでしたが葉は同じでした。


農場散策。馬に乗る者、馬車に乗る者。私は4人乗りの馬車に乗りました。このあと美味しいワインを飲みながらの食事でした。


 初めにお皿に載せられたのは親指ほどの大きさのソーセージ。一つはありきたりの物。もう一つはエンジ色を帯びた褐色でした。一目で血入りソーセージと分かりました。この機を逃したら決して口にすることはないでしょう!思い切って味見しました。隣に座ったのデンマーク人が『これは血入りよ。あなた分かっている?』『わかってる!以前テレビで作っているの見たことあるわ。』と私は答えました。彼女は『私たちはクリマスのと来ただけ食べるのよ。』と言いました。デンマークでは高級品のようです。彼女は私と反対隣りのオランダ人が口にしないのを見て、食べて良いかと尋ねて彼女の分も食べていました。

 肉はシンプルな塩味。鳥も牛もそれは柔らかくて美味しいのでした。肉はダメと言っていた私も驚くほど多く食べました。彼らは自然の牧草しか食べていないから美味しいといっていました。こんな美味しい肉は初めて食べました。食べ過ぎかと後悔し、念のため、翌日の木曜日は持参の味噌汁とパンを少々食べ、食事は自重しました。その翌日の朝もコーヒーは飲まず梅こぶ茶。胃が傷みそうな時、日本人には味噌とか梅とかが良いようです。
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7月30日(水):遠足はガウチョ農園へ

2014-08-12 05:35:38 | アルゼンチン(エスペラント)
 9時少々過ぎバスは農園に向かって出発。私は左がは窓側に席を取った。町の中心を抜け郊外に向かう高速道路に入った時赤レンガの奇妙な建物群を見る。壊しかけたがただいま中止と言う感じである。ガイドの説明によるとこれはスラムであった。初めは数10メートルの長さだったが経済が悪化するにつれて建物の長さは伸びに伸び、今は1キロを超えるらしい。ここに流れ着いた人はどこからかレンガを1個づつ盗んできて家を作り続けているとの事でした。カメラを用意していなかったのはとても残念です。帰りに写したかったのですが、反対側の道路からでは建物の上の部分しか見えませんでした。やはり写真を取りなれていない者は機会がうまく取れないと痛感しました。

 途中小さな静かな町で一服。教会の説明など受けましたが、あまり興味なし。隣の席のオーストラリア人女性が面白いものを見つけたというのでついてゆくとなるほど、面白い名のレストランを見ました。

El tokio とは日本出身者の作ったレストランでしょうか。覗いて見ましたが中に従業員らしき人が二人ほど座ったいましたがアジア系の顔ではありませんでした。


抜けるような青空。この時期には珍しいとの事。ガランチョとかいう色が汚いと言われる鳥も見たが写真に取れず残念!


 道路わきの農家。この国には人はいないのかと思うほど人影を見なかった。なぜか侘しい!
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Bankedo: 晩餐会

2014-08-11 08:00:00 | アルゼンチン(エスペラント)


私は肉はあまり食べたくない方です。アルゼンチンの一人分の肉の分量はとても多いので気をつけるようにと家族にも友人にも言われました。どれほど多いものなのか、試したかったのでBankedoを申し込みました。

 席は自分の好きな所に座って良いわけで私は二人の若者が座っている所に席を見つけました。彼らはロシア人。後から韓国人3人。中国系オランダン人の母と娘。日本人が二人座ったので結局はアジア系のテーブルができました。

 韓国系のうち二人はオンボリスモであったかワンボリスモだったか呼び名は忘れましたが宗教関係女性でした。このうちの一人とロシア青年は愚にもないことを喋りまくっていました。本当はこんな時話があまり傍らないように会話を振り分けるのが普通ですがこの青年にはそのような社会通念は通用しないようでしたし、韓国女性にもその気はないようでした。自分の連れに対しても僕が連れて来てやったんだと自慢げに言っていました。

 写真はメーンの皿です。肉の厚さ8センチぐらいでしょうか。柔らかかったのですがとても食べきれる量ではありませんでした。

 
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ブエノスアイレス市内観光

2014-08-09 11:43:07 | アルゼンチン(エスペラント)
 7月28日(月)市内観光に参加する。五月広場から始まり、大統領府を外から眺めた後、タンゴのスタジオの多い狭い通りをバスは移動し、労働者がいであるボーカ地区に入る。家々の色どりの賑やかなこと賑やかなこと。

 ここは今は使われていない港に近い。ヨーロッパからやって来てこの地に住みついた人は自国の国旗の色を自分の家に塗ったので、イタリア風とかスウェーデン風とかの家々が競うようになったのだそうです。観光地ととしては少し侘しい。なにしろブエノスアイレスとか、アルゼンチンとかのロゴ入りも土産物すらないのです。絵を売っている人たちがいたので値段を見たらおやおや3,000ペソ。50ユーロで735ペソでしたから、約200ユーロです。よほどの物好きでないと買わないと思うのですが・・・。

 この地区のほとんどがペロン派に属するそうです。私の記憶では独裁者としてのペロンしかいなかったので驚きでした。因みに今の大統領もぺラン派との事でした。ここから最貧困地区を通って高級住宅街へ。貧困地区では集めたごみを入れた大きな器の中から使えるもの、たとえばプラスチックボトルのようなものをあさっている若者を数人見ました。ガイドはああいう方法でも食べてゆけますと言いました。ちょっと待って!初めの説明ではアルゼンチンは教育は無料、医療も無料、貧乏人には最低の生活保障がされているといっていたのですが。それにしても路上生活やっが多すぎました。

 
ここは高級住宅の一角です


 最後の訪問はペロンの妻エビータの眠る墓所でした。
 

 墓地でエビータについて熱心に語るガイド。エビータが亡くなったのは33歳。キリストが亡くなった年と同じと言う事で神格化されているとのこと。


 
ペロン家の墓所。今でもエビータに花を手向けに来る支持者は絶えないという。
 ペロンについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%B3
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アルゼンチン人は夜遊びが好き

2014-08-08 22:52:26 | アルゼンチン(エスペラント)
 世界大会の開会式や閉会式の会場が大会会場と違い劇場で行われると聞いた時、やれやれ会場探しに行かなくてはと思ったのだったが、ホテルの部屋に入ってカーテンを開けると式の行われる会場は道路の向こうにに立っていました。その並びは1軒だけでなく数元の劇場があるようで、8時を過ぎると人々が集まってきます。もちろん子ども連れもいて9時ころは道路にもあふれるかのように人々が群れます。映画か演劇かは知りませんが10時近くに開演の様です。また3時頃賑やかになるのは上演終了と言う事でしょう。
 大会プログラムがを9時前に切り上げて帰った時テレビをつけてみました。漫画と言うか動画と言うか子ども番組が沢山放映されています。放映時間の終了はいつ?ベットに寝そべってみる事にしました。

 私のベッドはダブルベット。広くて硬からず柔らかからず凄く寝心地の良いベットでした。その上でゴロンゴロンと体操をしながら不思議に国のアリスを見ました。居眠りsくらいしていたかも知れませんが終わったのは真夜中の12時でした。朝、5時前に目覚めたのでまさかこんな時間に子ども番組な放送されてはいないだろうとテレビをつけてまたビックリ。なんといくつも放送されていました。その中にドラえもんがあったので見てみました。驚いたことに画面左上に手話通訳が付いていました。日本で重要な会議の様子や手話ニュース以外にあまり手話通訳を見ることがありません。子ども番組に手話通訳とは驚きでした。

 ホテルでの出来事を一言。
 チップの無い世界で暮らす私たちが悩むのはチップを置くべきか否や。それに置くとしたらいくらです。チップを楽しみにしている貧しい労働者もいるでしょう。お金の再分配とはほど遠いものがありますが、10ペソ(120~30円)置きました。到着した時タオルは使い古しのゴワゴワのタオルだったのですが、次からは真っ白は柔らかなタオルになりました。もしかしたらチップを置いたが人が少なかったから私に柔らかなタオルをくれることができたのかななどと思っています。

劇場前に立っていた床やさんの像。このようなユーモアあふれる像が街中に立っていました。アルゼンチン人は陽気な民族なのでしょう!
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大会テーマと討論

2014-08-08 13:32:25 | アルゼンチン(エスペラント)
 今年の大会テーマは孫が私たち祝福くれるだろうか( Cxu la nepoj nin benos?)、持続可能な社会へ邁進。
 ある会合ではアルゼンチン社会の問題が報告されていました。人口の約半分がブエノスアイレスに住んでいる。しかし経済の仕組みを握っているのはマフィアである。彼らは政治家、警察とも太いパイプを持っているので撲滅は難しいとの事。特にポーランドから女性を連れてきて売春させているが売春宿を警察が襲撃しても事前に知らせが言っているので女性を保護することはほとんどできないという。これは昭和30年代40年代の日本にもあった状況である。

 他の集まりで、それぞれに今後の自分の活動目標なども話されましたが、もはや運動らしい運動に参加していない私には今の自分を維持すると答える以外にこたえられませんでした。

 今まで幾度かUEAの活動方針が知りたくて集会に出ましたが今まではUEAが説明しそれに徴収が質問しUEAが答える式のつまらないものでしたが今度は少し違っていました。世界大会を行うメリット、デメリットを参加者にあげさせ、そこから今後どんな活動ができるかと言う事が話しあわれました。UEAは本当に現状から抜けさせるのでしょうか!進行があまりにも早く列挙されたことを全て書きとめられたわけではありませんが、どんなことが話されたか知りたい方のためにここに載せます。

Kioj estas niaj fortoj
Homoj el multaj landoj
Tre divesaj fakoj kaj kulturoj
Prezentoj kaj spertoj de multaj landoj
Spekti funkciantan lingvon komunuman
Allogas novajn aktivulojn
Plej granda E-kultura festivalo
Altnivelaj strategiaj diskutoj
Facila komunikado
Povos fortigi lokan / rerigian / landan movadon

Lamaĵoj
Malmulte videbla por ekstera publiko
Maljuniĝo de partoprenantoj
Manko de kulturaj aranĝoj
Malĉeesto de retkonektoj
Ne desponebla de prelegoj ekster kongreso (manko de retelsendoj)
Kongreslibro ne disponebla rete
Katenita al situacioj / kapabloj de gastiganta lando
Multe kosta
Tro peza program / ĝenaj koincidoj
Granda amatarismo kaj troa fervor

Ne transdoneblaj de spertoj / avantaĵoj / novaj ebloj
Rete / senpaga PDF de la kongresa libro
Vikipedia versio por ŝanĝo
Viva radia elsendon kunpubliko (ricevu informon per klakoj)
Plin da ebloj / informoj pri unutagaj kongresanoj
Utilaj urbaj ĝemeliĝo kun kongreso
Elpaŝi pri politikaj temoj (kazo de diskriminacio k.sj)
Sistema kontaktado de lokaj organizoj
Klara tebelo de la taga program
Post kongresa enketo

Minancoj
Malmultiĝo de kongresanoj
Konkurenco de E-aranĝoj
Ekonomiaj problemoj tutmonde (pli kostiĝo de flugoj)



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7月26日(土):ブエノスアイレス空港、そして出迎え人

2014-08-07 06:52:32 | アルゼンチン(エスペラント)
 ほぼ定時7時に飛行機は着陸しました。入国管理局に向かう人の波人波。どこからこれほどの人が集まってくるのでしょう。入国に際してドイツ人トーマスが心配になったらしく付き添い代わりに質問に答えてくれました。日本ではこんな付き添い許されないですけれど。妻のマリアに言わせると入国する際の審査は日本が一番厳しいという事でした。

 9時くらいに無事入国。出迎え人にもすぐに会えました。ところが後3人来るので少し待って欲しいとのことでしばらく待つことにしました。やってくるのは二人は私と同じ飛行機、もう一人はパンアメリカンの飛行機です。30分ばかりするとパンアメリカで来た人も出てきました。空気が乾燥しているので喉がカラカラですが現地のお金を持っていません。パンアメリカンできた友人が両替するというのでずうずうしと思ったのですが、出迎え人が当てにないそうもないので同行させてもらいました。友人と同じ飛行機できたフランス人はリールの代表と言う事で少しおしゃべり。あっという間に一時間が過ぎました。幾度か大会で出会った男性がタクシーを呼んだから席もあるし、待つのを止めて一緒に行こうと言いてくれました。あれほど沢山いた群衆もすっかり減り、多くの出迎え人たちが姿を召す中、懸命にプラカードを掲げているこの初老の男性は私が消えた時どう対処するのだろうと興味を持ちました。
 何度もまだ行かないかと言うともう少しと言って動かない彼は、送迎を委託した者が来なくともそれに見合う報酬を置け取るのでしょうか。私が何度も出発を催促し,彼は何度も責任者に電話しているようでしたが、返事はいつももう少し。2時間過ぎても事態は動かないのです。とうとうしびれを切らして私は責任者に電話して!私が話すというと彼は電話をかけて私に受話器を渡しました。
 いつホテルに行けますかと尋ねるともうすこし待ってください。冗談じゃない。私はここに2時間以上立っているのよ。もう少しとはいつまで?もう誰も出てこないのよ!私だけでもホテルに連れて行って!私は声を荒げました。電話を切ってすぐ彼がホテルに行くといって自分の車に向かいました。

 アルゼンチン人は状況を把握し、予想立てたりしない。待てと言わればいつまでも待ち続ける。ある意味では従順。大げさに言えば状況を把握し分析し見通しを立てることができないのかと言うのが私の第一印象でした。ホテルに着いたのは丁度12時。空港から5時間かけた長い旅でした。
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