glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

積年の不満が・・・

2009-08-31 09:37:26 | 雑感
 昨夜は遅くまでゲーム感覚で選挙速報を見ていました。そのうち民主党の圧倒的勝利が確実になるにつれ、これでいいのかと恐ろしくなってきました。一度自民党以外の政党に政権を担当させる方が良いと思っていましたが、それにしてもこの自民党の崩落ぶりは驚きです。

 古参政治家が去り、自民も新しい顔になる事を期待していたのですが、朝になると比例区で古顔が返り咲いていました。なんとも悔しい!!

 その点公明党は立派です。小選挙区で立候補した者には比例区で立候補さえなかったのですから。どちらか一つしか立候補できないようにするべきと思うのは私だけでしょうか。

 麻生首相は開票中のインタビュー '自民に対する積年の不満の結果であろう・・・’と『積年』という言葉を繰り返していました。そこには自分の政策に対する自己批判は感じられず不愉快でした。

 外国の反応をみてもこれほどの民主党の圧勝は考えてもみなかったようで驚きと共に期待と言うより今後の政策に対する好奇心が感じられました。

 政権は交代してもこれから、政策実行に当たってごたごたが起るでしょうね。当分(せめて一年間は)ごちゃごちゃ言わず民主党の手腕をじっくり見せてもらう事にしましょう。

 私もこのひと月のんびりムードで過ごしましたが少し張り切らねばと思っています。自分の無気力ぶりを世間のせいにしたいわけではないのですが、社会的経済的停滞感は個人的生活にも影響しているように感じます。
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夏の終わりに

2009-08-24 08:26:34 | 家族・友人・私
 土日と昨年9月亡くなった義姉の法事に出席するために田舎に行きました。途中仙台で下車し、夫の実家の寺で墓参りしました。

 夫の母は昭和25年(1949) に亡くなったのですが夫は60年前の事、もう正確な命日も忘れていました。驚いた事にまさに60年前のこの日夫の母が亡くなっていたのです。

 法事は兄弟姉妹だけで質素なものでしたが、和やかに行われました。両家共兄弟姉妹が多くその上年齢が似通っているので話題に困る事はありませんでしたが、今回の主な話題は選挙になっていました。田舎暮らしの人たちがこれほど熱心に選挙について語る場に初めて出会いました。

 自民系と思われる人は今度自民党が負けると田舎では大量に脱党者がですると心配しながら、それでも一度大敗を期さなければ、自民党の再生は無いだろうと結論づけていました。

 民主が勝つだろうと言う人もその政権運営に期待していると言うのではなくその後の政界再生を望んでいると言う感じでした。

 幸福実現党と公明党については、幸福の科学が創価学会に対抗して作った組織だと言い、しかし、公明党は全員当選するだろういう意見に対し、公明党はいつも強い政党に付く、信用できない。公明党を負かす手段はただ一つ、投票率のあげることだ。日本中の多くの若者が投票するなら、創価学会の青年組織に対抗できるという意見も飛び出してました。

 共産党、社民党に対する意見はほとんど出ず、社民党が没落した原因は村山内閣が大連立政権を組んだ事にあるという分析ぐらいでした。

 郵政民営化がいかに農村の生活体系をダメにしたかと言う話で盛り上がっていました。話は横浜の中田市長の辞職への批判から、大阪の橋下知事への批判にまで及んでいました。

 今まで政治の話などした事のない人たちが熱弁をふるうのを聴いていると、もしかしたら日本は変われるかもしれないというかすかな期待を持ちました。
 政治を変えるには多くの一般人の意識改革が必要ですが、今度の選挙は日本人が自分の事をどれほど自分で考えるようになったか、示す選挙になりそうで、政治嫌いな私もワクワクし始めました。

 もう夏も終わりです。今年もゴーヤをせっせと食しています。保存しておけたらいいのですが、飽きた飽きたと言いながら毎日食べています。

 夏の旅行記も早く終わらせるようにしましょう。
 9月から話題を変えたいですね!
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Roman Dobrzynskiとの会話の中から

2009-08-15 14:13:34 | エスペラント
 ワルシャワの後、私たちはポーランドエス会会長 Halina Komar の主催する1週間のAntauxkongreso el Revojに 参加しました。その遠足にローマン・ドブルジェンスキーがおりました。かれはローマン、ローマンと参加者に呼ばれ、親しまれていました。

 Antauxkongresoについての私の感想や批判は後で書く事にしてローマンとの時折の会話の中で私が感じた事考えた事などそ少し報告したいと思います。

           
 LA ZAMENHOF-STRATO について
 ある時、『危険な言語』の著者リンスがローマンに言いました。ザレスキー・ザメンホフの経験を何とかして書き残せないかと。そこで彼は努力しようとリンスに約束しました。
 ローマンは機会あるごとにザレスキー・ザメンホフに過去を話させようとしました。しかし彼はすべてを忘れていました。過去の苦しい体験を忘れることで生きてきた彼には過去の事は心理的に思い出したくない出来ごとでした。
 彼が自分の過去を語り始めるまで5年の月日が必要だったそうです。一つの思い出を手掛かりにまた一つ思い出すと言うようで、錯覚している事もあるだろうと言うことでした。

 なぜこんな話をするのかなとふと思いました。そして思い出したのは『 La familio Zamenhof 』の著者 Zofia Banet-Fomalowa が雑誌に書いた記事です。ローマン著書 LA ZAMENHOF-STRATO には間違いがある。私がその事を指摘したにもかかわらず彼は答えないと言う事が書かれていました。

 私は彼女の La familio Zamenhof は読んでいないのでどこが違っているかわかりません。
 熊本で開かれた日本大会に彼女が来てこの本の宣伝をしました。私も買おうと思ってその講演を聞きました。彼女は大げさな身振りで自分がどれほど大きな努力をし、調査し、この本をかきあげたかまるで自己陶酔しているかのように語っていました。それを聞きながら私の本を読みたいという気力はすっかり失せていました。
 本を読んで、よくここまで調べ上げたなあと感動する方が、著者の努力を押しつけられるより私は好きです。
 ローマンはこのような非難の存在を意識していたのかもしれません。

 例え事実といくらか違う部分が有ったとしても、私は LA ZAMENHOF-STRATO は狂気の時代を生き抜いた一人の若者の記憶として大切だと思っています。


           
 ザメンホフの墓参り
 私たちがザメンホフの墓に言った事を聞いたローマンが言いました。『実は金曜日に日本人がワルシャに着くけれど、金曜日はユダヤ教の安息日なので、墓地には入れい!』と。

 そして数年前やはり安息日にやってきた日本人がいたそうです。その人はどうしてもザメンホフの墓が見たいと壁を乗り越えて侵入したそうです。

 いくらなんでもあんな高い壁を乗り越えて?と言うとそれでも乗り越えたよと笑っていました。
 その人は自分の宗教の墓地を神聖な場所と考えないのでしょうか。そこに他宗教の人が忍び込んだ時腹を立てたりしないのでしょうか。
 私は宗教人ではありません。が、意図が何であれ同じ日本人として恥ずかしい気持ちになっていました。

 ローマンは私の気持ちを察したかのように『でも、もうそれはできないよ。テロを警戒してガードマンを置いているから・・・。』と言いました。

 私は2度もザメンホフの墓を訪れるとは思ってもいませんでした。他の人たちにも予期せぬ機会が訪れる可能性は大いにあるのです。
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ワルシャワ:エスペラントゆかりの地へ Ⅱ

2009-08-13 11:57:56 | エスペラント
 ユダヤ人たちが絶滅収容所トレブリンカに送り出された鉄道の駅はザメンホフ通りからそれほど遠くはありませんでした。昔は青空の下に貨車が2両置かれていましたが今は記念堂というような感じの建物にありました。そのすぐ横にかってザメンホフが眼科医として働いたヂッカ街があり、その場所から彼の二人の娘ソフィアとリディアもトレブリンカに送られたのです。

 そのことについて『ZAMENHOF』著者Marjorie Boulton はその著の中で次のように述べています。

Sed senkulpa, aminda Sofia, kiu kredis, ke tiu vagnaro portos la judojn nur al la orientaj provincoj, diris, ke kiel kuracistino, ŝi povos helpi aliajn; kaj senproteste ŝi iris al Treblinka. Ekzistas historio, pri kies vereco estas nefacile certigi, ke iu pla esperantisto aǔ eble sveda esperantisto proponis specialan al Lidja, kaj ke ŝi sinofere rifuzis pro alttruisma motive. Povas esti; sed la terura certa fakto estas, ke post du monatoj Lidja, amata de la tutmonda esperantistaro, sekvis sian fratinon en senrevena vojaĝo al Treblinka.( p. 249)


 要訳 その列車がユダヤ人を東の地方に運ぶだけだと信じていたソフィアは医者として他の人たちを助けることができると言って抵抗もせずにトレブリンカに行きました。その話が真実かどうか確かめるのは難しいのが、次のような話があります。あるポーランドかスウェーデンのエスぺランティストがリディアに特別な援助を申し出ましたが、彼女は愛他的理由でそれを拒否しました、それはあり得ることですが、リディアも2ヶ月後に姉に従い帰りのない旅トレブリンカに向かいました。

 私たちはザメンホフ通りから歩きましたがトラムを利用する場合は157番です。


写真の後ろに見える白いアパートはヂッカ街に建っています。


記念堂の壁に書かれた言葉の一部です。


 ワルシャワ蜂起記念碑の横にあったゲットーの地図。数十人の観光客がガイドの説明を受けていました。
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ワルシャワ:エスペラントゆかりの地へ Ⅰ

2009-08-12 10:01:09 | Weblog
'09-7-17
朝から暑くなりそうな気配を感じ、早めにアパートを出ました。トラム180番、停留所 ESPERANTO で下車し、人のない通りを散策しました。全く変わり映えなのしない団地の中の道です。
 ザメンホフ通りも同じような感じです。22年前ワルシャワ市内のバス遠足に参加したのですが、細切れの記憶しかありません。

 ナチスがユダヤ人地区をどれほど徹底的に破壊したかの写真が Marjorie Boulton の著:ZAMENHOFの p.136~137 の間の写真集に載っています。


通りを示す写真は私たちが歩いた事の単なる証明写真です。特に下の写真は光線の関係でどうしてもうまくゆきませんでした。行きどまりは学校のような大きな建物でした。



 ユダヤ人墓地に入るとザメンホフの墓はすぐにわかりました。ただ、妻クララの墓は黒く汚れていて一瞬どこかと迷いました。
 22年前花束をささげた亡くなった友人の事を思い出しました。私は花はささげません。自分の花が枯れた様子を想像したくないのです。取り替えに来れないのですから。
 ビヤリストックの大会でクララの父アレクサンドロ・ジーベルニックの墓が壊れそうなのでと修復のための寄付を求められました。彼の墓もこの墓地にあるそうです。


 
 福祉に携わる多くの人が子どもたちと死に赴いたヤニュシュ・コルチャックの事を知っていると思います。ザメンホフ夫妻の墓以上にこの像に心を打たれます。
 彼はザメンホフのどの弟かと親交が有りザメンホフ家に出入りしていたと聞いたか読んだかした記憶が有るのですが、定かではありません。もしかしたら22年前にここで聞いたのかもしれません。
 どなたか事実を知っていたら教えてください。

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ワルシャワ:ポーランド語は難しい

2009-08-10 09:40:45 | エスペラント
 4時頃だったでしょうか、ワジェンキ公園へトラムで出発。

 朝、アパートの管理事務所でトラムの番号や停留所について、またワルシャワゲットーの地理的範囲等も情報を得ていました。その事務所いた若者二人は私たちのしつこい質問に対しても丁寧に答えてくれましたので、それほど不安も無く地図を方手に出発しました。といっても私は地図が苦手、方向感覚も良くありません。進む先を決める役は方向感覚に優れた姉の役目でした。

 ですが、ポーランド語は難しいですね。文字列が長いからと言って読みが長いわけではないのです。子音数個で一音もあるらしく発音の検討もつきません。友人に聞いたら,例えば'ch’がフ、ところが'f'もフと言うのです。そこで停留所の名前は読まず、Z で始まる長い綴りとか、短い綴りと言うように頭文字と綴りの長さで判断した次第です。

 ワルシャワ大会の際、大会で初めて会ったポーランド人でハンガリーに住むアリーナがこの公園に連れてきてくれました。もちろん歩いて。
 その時は植物園の中を抜けてこの公園に入ったのです。丁度お昼時、水上宮殿の入館受付が10数人並んだ見学者の列を無視して扉を閉じようとしていました。アリーナが日本の客に見せてやれないか、彼女はここを訪れるチャンスは無いと交渉するとみんなが、この人を入れてやれと騒ぎ出し、等々受付が譲歩して靴の上にはくスリッパを出してくれたのです。そして並んでいた人たちもぞろぞろと私の後に続いて入館したのでした。
 ポーランド人はなんと面白い人種だろうと感じました。

 アリーナとは一昨年、パソコンが故障してメールアドレスを失くして以来連絡が途絶えています。社会主義崩壊後、他国で随分と苦労しました。それでもポーランドに帰りたくないと、市場で花など売って生活を支え、友人たちの援助で農園を手に入れ苦しい時期を乗り切りました。子どもは3人いましたが上の二人はポーランド政府の奨学金を獲得しポーランドで大学教育を受けたということでした。
 ポーランド人とはどんな状況でも生き抜く民族と感じたものです。
 
 ショパン像:周りには花々が咲き、ベンチには人々が憩っていました
 
夕暮れの水上宮殿の前庭。写真べたの私には宮殿のような大きなものは撮れない!

宮殿の前庭にはクジャクが多くいて観光客がカメラを向けると自分の容姿を誇らしげに見せびらかしていました。

 帰りのトラムでふと見るとなんと停留所の名にESPERANTOを見つけました。明日はこのトラムで出発です。



『 お勧めの飲み物 → ピーチアイスティー 』

 昼食の時あまりの暑さにアイスティーを頼みました。『アップルティーとピーチティーが有ります。』物珍しさにピーチティーを頼みました。
 さわやかで、そのうえたっぷりの量。のどの渇きをいやしてくれました。

 私の推量ですが:
 濃いアイスティーに少なくとも同量の桃のジュースを加えたらこの味になると思います。甘味もほのかで自然な味。お試しください。

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ワルシャワ:文化宮殿その他

2009-08-09 09:55:03 | エスペラント
 '09-7-16
 エスペラントゆかりの地への訪問は明日と言う事にして18日クラコウ(クラクフ)に向かう時の下調べとして駅に行く事にする。私の記憶によれば旧市街から文化宮殿までは25分ほど、駅はそこかさらに10分ほどの距離にあったという思いがある。

 22年前の私のホテルのレストランから無名戦士の墓が見えました。その横を通り抜けて広い公園に入り文化宮殿で開かれている世界大会に通いました。
 無名戦士の墓はすぐわかりましたが見覚えのある土地には新しいビルが建っていました。公園の木々は茂り暗い森のようになっています。
 新しい広い道路が交差し、すぐ近くと思っていた文化宮殿はなぜか遠く感じられました。宮殿前の広い芝生だった敷地には赤く塗ったまるで貨車のようなバラックが並びいくつもの売店が商売をしているようでした。

 自由主義とはきっとこう言う事も含むのだと感じました。

 なんと文化宮殿の中にもレストランが有り強烈な料理の香りを漂わせていました。以前上る事が出来なかった屋上に上り、ワルシャワの景観を楽しみましたが、22年の歳月は私の脚力にも異変をきたしているようで、足が痛くなりました。

無名戦士の墓

 駅も変わっていました。22年前はシベリア鉄道を使いモスクワへ、そこから鉄道でワルシャワに入りました。ホームは屋根がかかっただけの広々とした場所で、そのまま街に入れたのですが重層的建物になっていました。

 無理は禁物。トラムでアパートへ。昼食の後バスにお湯を張りのんびりと足湯を使い、午後に備えて昼寝と言う事にしました。


 炎天下痛い足を引きづって帰る私たちをしり目、涼しい窓辺で昼寝をする黒猫。ニャーと声をかけたら薄眼を開いてこちらを見ましたが、後は完全無視でした。
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ワルシャワ:アダム・ミツキェヴィッチ

2009-08-08 11:22:03 | エスペラント
‘09-7-15
夕暮れ時、と言っても21時過ぎワルシャワに到着。22年ぶりのワルシャワです。空港には先に到着していた姉が出迎えてくれました。
 トラムに乗って旧市街に向かう。
 私たちは行きに3泊、帰りに1泊旧市街のアパートに泊ることにしていました。
アダム・ミツキェヴィッチの像を過ぎて間もなくトラムの終点となり、石畳の道を旅行鞄をがりがりと引いて宿に向かいました。
 アパートの広さに驚きました。シングルベットが二つある部屋2つ・居間・台所・入り口スペースにもソフアと洋服ダンス・バス付浴室。 広場近くというのに外の喧騒は入ってきません。石作りの建物の利点なのかもしれません。

 アダム・ミツキェヴィッチの銅像はリトアニアもあり、どちらも母国の詩聖と言っているので、彼がポーランド人なのかリトアニア人なのか私には判断がつきません。これが歴史の中で民族が入り乱れているヨーロッパの不思議さなのでしょうか。

 彼の代表作は『パン・タデウシュ』、エスペラント訳は『SINJORO TADEO』です。この本を私は1987年のワルシャワで開かれたエスペラント100年記念の世界大会の記念として買いました。その本の中に11年後の新聞の切り抜きが挟んであります。年末に『パン・タデウシュ』の日本語訳が出版されると書かれています。当時、E-isto でもなくポーランド語も読めない人より早く自分達がポーランドの心に少しは触れることができたことを喜んで切り取ったものです。

 E-istoの多くは知っていると思いますが、エドモンド・プリバーも自著: VIVO DE ZAMENHOF の冒頭に彼の詩を引用しています。

 
  ミツキェヴィッチの写真
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花二輪

2009-08-06 23:53:41 | 平和
横浜市本郷台駅近く
被爆青桐2世が
サクラ並木の中に
ひっそりと立っている

誰が手向けたのか
真紅と濃い紫の花が一輪ずづつ
根元に置かれていた

今日は8月6日
草の上に横たわる花に
手向けた人の思いを見る
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エスペラント界の悪口は言いたくないけれど!(Ⅱ)

2009-08-04 05:40:24 | エスペラント
 U.K.前のポーランド旅行中いろいろと日本では体験できない事を体験したのですが、一番いやことを先に書くことにしました。

 大会中の木曜日(7月30日)朝一番、嫌な会計とのやり取りそ済ませようと会計のもとに行きました。あちらからの請求書を出して支払いをしようとすると、
 
 『あなたおのKONTOには何も残っていません。領収書が無いので後にしてください。』
 『それはどういうこと?』
 『あなたが抗議したので0にしました。』

  後は口を結んで音なしの構え。後ろに10人ほど並んでいるので後日、質問したいと思い引き下がる。
 領収書が無い・・・?
 なんたること。
 参加者全員の宿泊費を下げたのだから少なくとも人数分用意するのが普通でしょう。それに当日参加者のいる事ですし・・・。その事務能力の無さにあきれました。

 翌日昼前、人がいないのを見計らってもう一度行くとお金を返してくれたが宿泊費の差額としては額が多すぎる。質問しようとすると『JUSTA』(正確)としか答えない。
 
 ヴィリニュスの支払いもJUSTAと頑張っていたのでその分を払い戻す事は無いでしょう。そこで一つ思い当たる事がありました。

 実はロッテルダムでもう一つ事件があったのです。ホテル側に一泊分請求され、友人の分と二人分宿泊費を支払いました。私は返還を求めようと思った訳ではは無いのですが、協会のミスかホテルが私たちをペテンにかけたのかどうしても知りたくて、大会責任者に手紙を書いたのですがなしのつぶてでした。
 その費用を返してくれたとしたら丁度計算が合うのですが、全く説明しようとしませんでした。

 私の事情を知っている友人たちに聞かれるので計算書が送られてくるまで正確な事は分からないけれどとあちこちで話す事となりました。

 ある友人は昨年病気になり、支払った分の返還を求めたら支払額よりい多くKONTOに入っていて驚いた。友人も同じだった・・・。以前の会計は決してこんなひどい間違いはしなかったのに・・・と嘆いていました。

 
 実は昨年12月、会計が以前支払った分も私のクレジットから引き落そうとしたので、クレジットを止め、大会責任者、会計、それに事務局長に対して抗議の手紙をだしたのです。それにも、協会の所在地で宿泊費を2重払いさせられとはどういう事かという事ももちろん書き添えました。

 事務局長への抗議が功を奏したというのでしょうか。

 私が知っているだけでも数人のブラジル人が支払いを求められていました。
 あの人たちはどうなってのでしょうね。
 抗議した者だけが得をするそんな事が無いように願っています。

 次はワルシャワ散歩!
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