――埼玉での公共交通アクセスの改善のシンポジウムを読んで――
これは埼玉で社団法人の総会後に記念シンポジウムとして行なわれた記録を読んでの感想である。埼玉の越谷市には、2009年06月末に呼ばれて行ったことがある。そのときのレジュメ案はこのweb siteにも掲載している(「労働行政と福祉行政との分断を超える地域での取り組み」としてである。)。それだけに懐かしい。というよりも、紙上で再現されたシンポジウムの発言などに刺激されたためでもある。2009年05月24日に社団法人・埼玉障害者自立生活協会の第17回総会と記念シンポジウムが行なわれたそうである(社団法人・埼玉障害者自立生活協会が編集・発行している『通信』第142号、2009年06月26日)。記念シンポジウムは「くらし『交』わり『通』いあう街へ」と題して行なわれた。これは、私の関心に沿った文章にした。他の特集記事「一緒に学ぶ」や「多世代で解く自立支援法」なども大いに楽しく読める。お勧めである。
■ 雑多にいろんな人がいると楽しい駅の風景
パネルディスカッションのコーディネーターの役を行なっている辻さんの話に、おもわず、そうだと思った。最近は駅にある路上を含めて適正管理が徹底していることを感じるそうだ。辻さんの話は「移動目的以外に駅で、佇むこともぼーっとすることも許されない。ストリートミーュジシャンの若者、野宿者、電車好きの人、そういう人たちを含めて駅の風景だと思うが、電車で移動する人以外は排除されていく」と現状の変化を描いている。
もちろん、障害のある人と移動する辻さんであるから「私たちは、誰でも円滑に移動できるバリアフリーを求めている。しかし、その運動が合理化とか適正化とかに加担している」という。過去にはバリアフリーとかなくて乗客がワイワイとみんなで車椅子を担いでいた風景があった。それは「寂しいな」とも感じるそうだ。
■ 障害を持っているが故の風景という批判も
この雑誌の面白いところは、シンポジウムの記録とは別に「感想いろいろ」で数名の人たちの意見が寄せられている。その一つに「健常者は特に移動するときに誰かとふれあったり、とかはないんですよ。」という正当な意見を記録しているところだ。辻さんの意見に対して批判している旨、明記してはいない。私がかつてに対比して並べただけである。
確かに障害のない人は、自由に行きたいところに行ける。降りたい駅で降りることができる。そのときも誰かと触れ合ってはいない。まぁ、乗客たちが関わっているのは、乳母車を利用している人が乗り降りする援助をしている場合がある程度かな。
そこで、思う。確かにかつてのワイワイと車椅子の周りに皆が集まって、一緒に持ち上げたり、下げたりすることは見かけなくなった。一見寂しい風景だと思う。
そこで感想の筆者は「障害者から健常者も含めて、もっと一緒にふれあっていこうよというのなら、わかるとおもうけど」という。障害者から人々のギスギスしてきた人と人との関係を変えていこうと呼びかける。それを「障害者がバリアフリーを求めているから、合理化や適正化に加担している」というのは、言いすぎだと記述している。
障害者にばかり「自立生活」を求める社会の流れと一致するのだと、あわてて反省する私であった。障害者が弱々しく頼っているように見えるから、あえて「自立」を要求するのだと気づかされる。同様に障害者が自由に移動できないからこそ、皆が集まってワイワイと車椅子を担ぎ上げる必要があるのだ。過去の風景に閉じ込めておけば、それでよいのだ、と思う。
■ 誰の介助も借りずに一人で乗り降りしたい
DPI日本会議の今福義明さんは「駅員の介助主導のシステムではなく、一人で乗り降りしたいというのが、我々の究極の悲願ですよね」とスパッと言いきっている。運動の立場から「嫌がられても、自分たちで『安全に円滑に乗れるものを作れ、走らせろ』と絶えず言っていくことが大事です」とか「安全で円滑に人の手を借りずに乗れることが基本」と端的に表現している。
さらに運動家らしく「バスならバスに何がなんでも乗る。用事を見つけてでも乗る。・・・あらゆる乗り物に乗る。利用して初めは不便だけれども、利用していったらよくなるというのも正直な話」とさえいう。施設や親元の家をでて地域で一人暮らしをする場合も、雇用先に就労する場合も同じだ。初めから意欲があり、すべてが準備されているということはない。とりあえず現場に飛び込むことを教えてくれている。
今福さんの面白いところは「事業者は直す。そしたら『よくやってくれたな』ってほめるという風にする」で顕著に表われている。ほめることが大切だという。これが効果があがることはわかっているのだが、実行は難しい。ついつい、けなすことばかりを言う場合が多い。
■ 障害者から社会を変える
たしかに「健常者にも呼びかける」というのは正論だと思う。でも健常者の社会は「合理化」「効率化」をくいとめるのは難しい。となると、障害者の社会から改革を進めていくのも方法の一つだろう。
障害者と関わっている人たちが、人海戦術を行なっていたかつての時代を振り返り、今の社会がおかしいと気付くこともありうる。障害者とその周辺の人々が先頭にたって改革を進める方法もある。どこから手をつけるかと問われれば、とりあえず、障害者に関わる社会からという道もある。
いろいろと考えさせられる会場からの意見であった。意見をきちんと紹介したのかどうかについても、私には自信がない。どの立場が社会を変革する上で、より有効なのか、分からない。とりあえず、読んでほしい。
これは埼玉で社団法人の総会後に記念シンポジウムとして行なわれた記録を読んでの感想である。埼玉の越谷市には、2009年06月末に呼ばれて行ったことがある。そのときのレジュメ案はこのweb siteにも掲載している(「労働行政と福祉行政との分断を超える地域での取り組み」としてである。)。それだけに懐かしい。というよりも、紙上で再現されたシンポジウムの発言などに刺激されたためでもある。2009年05月24日に社団法人・埼玉障害者自立生活協会の第17回総会と記念シンポジウムが行なわれたそうである(社団法人・埼玉障害者自立生活協会が編集・発行している『通信』第142号、2009年06月26日)。記念シンポジウムは「くらし『交』わり『通』いあう街へ」と題して行なわれた。これは、私の関心に沿った文章にした。他の特集記事「一緒に学ぶ」や「多世代で解く自立支援法」なども大いに楽しく読める。お勧めである。
■ 雑多にいろんな人がいると楽しい駅の風景
パネルディスカッションのコーディネーターの役を行なっている辻さんの話に、おもわず、そうだと思った。最近は駅にある路上を含めて適正管理が徹底していることを感じるそうだ。辻さんの話は「移動目的以外に駅で、佇むこともぼーっとすることも許されない。ストリートミーュジシャンの若者、野宿者、電車好きの人、そういう人たちを含めて駅の風景だと思うが、電車で移動する人以外は排除されていく」と現状の変化を描いている。
もちろん、障害のある人と移動する辻さんであるから「私たちは、誰でも円滑に移動できるバリアフリーを求めている。しかし、その運動が合理化とか適正化とかに加担している」という。過去にはバリアフリーとかなくて乗客がワイワイとみんなで車椅子を担いでいた風景があった。それは「寂しいな」とも感じるそうだ。
■ 障害を持っているが故の風景という批判も
この雑誌の面白いところは、シンポジウムの記録とは別に「感想いろいろ」で数名の人たちの意見が寄せられている。その一つに「健常者は特に移動するときに誰かとふれあったり、とかはないんですよ。」という正当な意見を記録しているところだ。辻さんの意見に対して批判している旨、明記してはいない。私がかつてに対比して並べただけである。
確かに障害のない人は、自由に行きたいところに行ける。降りたい駅で降りることができる。そのときも誰かと触れ合ってはいない。まぁ、乗客たちが関わっているのは、乳母車を利用している人が乗り降りする援助をしている場合がある程度かな。
そこで、思う。確かにかつてのワイワイと車椅子の周りに皆が集まって、一緒に持ち上げたり、下げたりすることは見かけなくなった。一見寂しい風景だと思う。
そこで感想の筆者は「障害者から健常者も含めて、もっと一緒にふれあっていこうよというのなら、わかるとおもうけど」という。障害者から人々のギスギスしてきた人と人との関係を変えていこうと呼びかける。それを「障害者がバリアフリーを求めているから、合理化や適正化に加担している」というのは、言いすぎだと記述している。
障害者にばかり「自立生活」を求める社会の流れと一致するのだと、あわてて反省する私であった。障害者が弱々しく頼っているように見えるから、あえて「自立」を要求するのだと気づかされる。同様に障害者が自由に移動できないからこそ、皆が集まってワイワイと車椅子を担ぎ上げる必要があるのだ。過去の風景に閉じ込めておけば、それでよいのだ、と思う。
■ 誰の介助も借りずに一人で乗り降りしたい
DPI日本会議の今福義明さんは「駅員の介助主導のシステムではなく、一人で乗り降りしたいというのが、我々の究極の悲願ですよね」とスパッと言いきっている。運動の立場から「嫌がられても、自分たちで『安全に円滑に乗れるものを作れ、走らせろ』と絶えず言っていくことが大事です」とか「安全で円滑に人の手を借りずに乗れることが基本」と端的に表現している。
さらに運動家らしく「バスならバスに何がなんでも乗る。用事を見つけてでも乗る。・・・あらゆる乗り物に乗る。利用して初めは不便だけれども、利用していったらよくなるというのも正直な話」とさえいう。施設や親元の家をでて地域で一人暮らしをする場合も、雇用先に就労する場合も同じだ。初めから意欲があり、すべてが準備されているということはない。とりあえず現場に飛び込むことを教えてくれている。
今福さんの面白いところは「事業者は直す。そしたら『よくやってくれたな』ってほめるという風にする」で顕著に表われている。ほめることが大切だという。これが効果があがることはわかっているのだが、実行は難しい。ついつい、けなすことばかりを言う場合が多い。
■ 障害者から社会を変える
たしかに「健常者にも呼びかける」というのは正論だと思う。でも健常者の社会は「合理化」「効率化」をくいとめるのは難しい。となると、障害者の社会から改革を進めていくのも方法の一つだろう。
障害者と関わっている人たちが、人海戦術を行なっていたかつての時代を振り返り、今の社会がおかしいと気付くこともありうる。障害者とその周辺の人々が先頭にたって改革を進める方法もある。どこから手をつけるかと問われれば、とりあえず、障害者に関わる社会からという道もある。
いろいろと考えさせられる会場からの意見であった。意見をきちんと紹介したのかどうかについても、私には自信がない。どの立場が社会を変革する上で、より有効なのか、分からない。とりあえず、読んでほしい。