はじめに、この写真を見てください。死刑囚によって描かれた「獄中切手」という作品です。
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一瞬、ほのぼのとした和室が描かれているような印象を受けますが、実際には死刑囚によって描かれた大阪拘置所の独房なのです。
こうした有名なアーティストとは一線を画した、伝統や社会規範にとらわれない“アウトサイダー”たちによって作られたアートを、「アール・ブリュット作品」と言うそうです。囚人だけでなく、精神病患者、障害者など、一般社会とは異なる独自の世界観をもつ人々が発表した作品全般を指します。
2月1日、こうしたアール・ブリュット作品を見るため、広島県にある鞆の津ミュージアムに行ってきました。冒頭で紹介した死刑囚の絵も、この美術館で展示されています。
まず、ミュージアムに入ろうとするところで、少し驚かされました。いきなり入り口で、よく分からない巨大なおじさんの写真が出迎えてくれます。正直に言うと、「誰!?」という印象です。
そして、中に入ると障害者の方の声のような音が聞こえてきます。この演出に私の頭は「???」で埋め尽くされました。この写真の方は、あゆみ苑という障害者施設の寮の入り口にいつもいる方だそうです。つまり、このミュージアムに来た人が、まるであゆみ苑に来たかのような体験ができる演出ということなのですが、かなりシュールで衝撃的です。「この美術館、大丈夫か?」と1度目に思った瞬間でした。
こうした演出がされているのは、今回の展示の監修をしている著名な芸術家・日比野克彦さんが、あゆみ苑に行き、入居者の方々と今回の展示の為の共同制作などを行って来たからなのです。こうした演出の意図について、ミュージアムの方の話を聞いてみたのですが、最初はさっぱり意味がわかりませんでした。しかし、どうやら展示物を見るだけでなく、なぜその展示物が存在するのかを考える、という楽しみ方があると説明されているように感じました。そう考えると、最初は「大丈夫か!?」と不安になったものの、少しこの美術館の楽しみ方が掴めた気がしました。
次に、玄関をあがります。なぜ、こう書いたかというと、靴を脱ぐ必要があったからです。そこに、写真のようなメッセージが書いてありました。
この壁のメッセージの下に、本当の輪ゴムが置いてあります。私は、「いくら何でも、大人は輪ゴムを通れないでしょ!」と思い、この作品を壁のメッセージと共に輪ゴムが置いてあるというだけの展示物だと考えました。ですが、これも実際にチャレンジするために置いてあるそうです。そして、実際に試してみると、輪ゴムを通り抜けることできるようです。体験した人の洋服の繊維が輪ゴムに付着していました。
「近代アート」というと、よく分からない展示物だらけだったりします。ですが、アートの真髄は、この輪ゴムの展示でもよく表されているようです。つまり、ここで言う「アート」とは、他の人が考えないような視点を、世の中に発表するということのようです。こうした視点で物事を考えると、「近代アート」を少しだけ齧ることができた気分になってこないでしょうか。私もこの美術館の玄関を通じて、少しだけアール・ブリュット作品への接し方の要領がわかった気がしました。なので、今回はとことんポジティブに、そしてアート側に媚びるがごとく、楽しみ方を会得することを自分のテーマとして作品を鑑賞することにしました。
続いて、肝心な美術館の中の展示について、書いていきたいと思います。
この美術館、本当に大丈夫か!?
美術館に入るまでの間にも、アール・ブリュット作品の洗礼を受けてきました。しかし、中に入ると、もっと凄いことが続きます。このミュージアムの監修者である、アーティストの日比野克彦さんが館内の作品を解説をしてくれました。
入り口を入ってすぐの展示物の、次の絵をご覧ください。
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入り口付近の展示物で、何となくこの美術館におけるアートを理解した気分になっていた私でしたが、直感的に「この美術館、大丈夫か!?」という言葉が再び頭をよぎりました。さっき思ったよりも、何十倍も強くです。
しかし、作品から受ける印象や直感だけでなく、なぜ作品が展示されているのかというストーリーが重要です。今回はとことんポジティブにアートを受け入れるということをテーマにしたので、パンフレットにある作者のプロフィールに注目してみました。
「高橋重美 (たかはし・しげみ)
18歳で精神疾患を発症した後、入退院を繰り返しながら半世紀近い入院生活を送る中で、B5版の大学ノートに、好きになった女性患者との性行為の場面などをボールペンで描くようになる。長期にわたる閉鎖的な環境が、彼を表現世界に導いたものと思われるが、当の本人は意外なほど明るく、大学ノートの表紙を使って奇妙な仮面をつくり、いつもその仮面をつけて暮らしている。仮面をつけることで、退屈な日常世界のすぐ『隣』にある奇妙な世界に入り込み、独自の楽しみを享受しているのかもしれない。」
ミュージアムでは、展示されている絵の上にモニターがあり、そこで高橋さんが仮面を付けながら絵を描いている瞬間の映像が流れています。
そして、ここで日比野さんが、今回の展示物の「陸から海へ」というコンセプトを改めて説明してくれました。「陸」とは、一般の人々を指す言葉。そして、海は主に障害者や囚人といった“アウトサイダー”の人を意味するそうです。
一般的に人は社会生活を送っていく中で、同じような価値観を持ってしまいます。要するに、常識人になっていくということでしょう。一方で、アウトサイダーの人々は、日比野さんの言葉を借りると、「ひとがはじめからもっている力」を失わずに持っています。その人間の本来の持っている力を再認識するという意味で、「陸から海」がテーマとなっているそうです。
こうした考えを踏まえると、この絵が展示されている意味が分かってきたような気がしました。しかし、それでも違和感は拭えません。
私なりにいろいろ考えてみましたが、確かに、“陸”の人間は、男女の性行為について、作品を描いた高橋さんのようにストレートに絵を描いたりはしません。ですが、突き詰めて考えると、人間の行動の動機というのは、高橋さんが描き続けているような性欲が根元にあるだけなのかもしれません。
例えば、子供が頑張って勉強したり、大人が真面目に仕事に励むことは、良いこととされています。それが何故なのかと考えれば、収入の高まる可能性が上がるからだと言えるでしょう。お金を稼いだ方が良い理由は、収入がある程度ないと良い家庭を築ける可能性が狭まってしまうと考えられているからです。つまり、いやらしい言い方ですが、稼がないとモテないし、結婚も出来ないから頑張れと、世間では言われていると言い換えが可能だと思います。それでは、モテて彼氏や彼女が出来たり、結婚するというのは、何を意味するのでしょうか?嫌な言い方ですが、定期的に性交する社会的に認められた相手がいるという言い方もできるわけです。
屁理屈のような論理ですが、そう考えると陸の人間は様々なオブラートに包んでいるだけで、結局は高橋さんの描き続けている海側の世界と見ているものは同じなのかもしれません。我流に過ぎませんが、ここまで考えてみて、この絵を楽しめた気がしました。もちろん、最後まで、この絵に対する何らかの不気味さはありました。おそらく、それは私が海側の人に今でも残る「ひとがはじめからもっている力」を悪として、それを捨てようと努力しながら生きてきたからなのかもしれないとも思いました。
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人間が展示物!
次に、このミュージアムの目玉についてです。
この木の小屋の中で、あゆみ苑成人寮で生活されている、上野昌道さんという障害者の方が実際に作品を作るというパフォーマンスを行います。上野さんは、この写真の中でも持っているような、木片の集合体のようなものを作るのが作風のようです。
さて、この展示のコンセプトは「陸から海へ」ですが、このブースでは「海から陸へ」という隠れたキーワードもあるのだと、ミュージアムのキュレーターの方が語っていました。つまり、陸側の人々が上野さんの創作風景を見るだけでなく、海側からも一般の人々が創作活動をどんな目で見ているのかというのが観察出来るようになっているということだそうです。
上野さんは、登場するなり自由に創作活動を始めました。いきなり木を切ったり、釘で打ちつけたり、行動は相当ランダムのように見えました。そして、会場の作品の説明をしていた、日比野さんとの共同制作セッションが始まりました。日比野さんの顔を見ただけで、上野さんは「おー!」と嬉しそうな声を上げて、自由度はさらに高まっていきました。上野さんは日比野さんに嬉しそうに、そしてセカセカした感じで、次々と指示を出します。
上野さん「にいちゃん。これで、木を切って。」
日比野さん「これ?ああ、分かった。」
(木を切り終わって、上野さんに木片を渡す日比野さん。そして、次の木片を作ろうとする。)
上野さん「もう、いい。これで作って。」
日比野さん「もういいの?この木は硬いよ。」
上野さん「じゃあ、これ使って!」
(別のノコギリを探しに、館内を動き回る。そして、裏から新しいノコギリを持ってくる)
こんな感じで次々と、上野さんと日比野さんは木片を釘で合わせた作品を作っていきます。この時、日比野さんが「『作品を作るための行為が楽しい!』ということが非常に重要だ」と観客に向かって語っていたのが非常に印象的でした。
何故なら、最初は木片の塊を見ることの面白みが理解できなかったのですが、“アートとしての行為”に楽しみがあると聞いてから作品を見ると、少し見方が変わった気がしたからです。木片に残るノコギリの跡、釘を一度打った時にあいた穴、何だかよく分からないけど、何か別の物に見えなくもない。それらを見ていると、自分が子供の頃に積木で遊んだ時のようなワクワク感が湧いて来て、その行為を体験してみたくなるような感じがありました。私にとっては、この作品は童心を思い出させてくれるような価値を感じました。
アートは正解・不正解じゃない
そうこうしているうちに、突然、上野さんが観客に向かって「これを買いませんか?」と、作品を販売し始めました。そして、数百円程度で、この作品を買ったお客さんがいました。その時、日比野さんが「作品っていうのは、誰か一人でも評価してくれる人がいれば、それで良い」と解説しました。
それを聞いて、上野さんの作品に対する私なりの「子供の頃の興奮が思い出される」という解釈も、特に間違っていないのだと思うことができました。そもそも、こういう解釈が正解なのか不正解なのかと考えること、これ自体が“陸側の理屈”なのかもしれません。どんな作品であれ、誰かがどんな視点であっても面白いと思えば、そこに作品の価値があるというのが、こうした作品の楽しみ方なのだと私は解釈しました。
同時に、上野さんが観客と接することで、「海から陸へ」という視点を楽しむことが出来た気もしました。というのも、上野さんは終始マイペースで、緊張している様子もまったくなく、会場に人が大勢いても自分のやりたいように過ごしています。どんな事に対しても「これやって!」など、短い言葉で一瞬のうちに表現し、頭の中に湧いた衝動を正直に外に出しているようです。
一方、上野さんの創作を観察する観客に注目すると、真逆です。例えば、もう少し前で見たそうにしていた人は、周りの様子を伺って前に出るのを遠慮している様子でした。あるいは、上野さんに「あなた買いませんか?」と自由に勢い良く声を直接かけられた人は、断りたかったようですが、色々なことを気遣い、必要以上に笑顔になったりしていました。淡々と売ろうとしていて、断られても何も気にしなそうな上野さんとは対照的なリアクションでした。この陸と海の違いにも、どちらが正解・不正解ということはないのでしょう。ただ、その違いを楽しめればアートということで、この展示を自分なりに咀嚼したということなのかもしれません。
アートを楽しむには否定的な考えを捨てるということ!?
今回、この様に鞆の津ミュージアムという所へ行って、今まで紹介した作品の他にも、様々なアール・ブリュット作品を見ました。
それを通じて感じたことは、これらの作品を楽しむには、とにかく一度肯定的に作品を受け入れてみるということです。私を含めた“陸側”の住人は、何かあると常識や社会観念で物事を判断しようとします。
動物の内臓が飛び出ているグロテスクな作品を嫌だなと思う人もいるでしょう。あるいは、普通のダルマの目が落ちているだけだったりすると、「ちょっとありきたりかも」と感じる人もいるかもしれません。実際、私も日比野さんやミュージアムの方の解説を聞くまでは、やや否定的でした。
しかし、そのネガティブな考えというのが、どこから来ているのかと考えると、自分の本当の心の声ではない気もするのです。大人になる過程で自分自身に叩き込んできた、常識というルールで、そう判断しているだけの可能性もあるように思います。
なので、ひょっとすると「自分がはじめからもっている力」という価値判断だけを研ぎ澄ますと、最初に違和感を覚える作品にも面白味があったりすることに気づくかもしれません。また、その違和感というのは、自分が自分に対して嘘をついているから起きる違和感なのかもしれません。
私は今回、このミュージアムで作品解説を聞きながら、じっくりと作品を鑑賞したことで、そんな新たな自分の一面を見た気がしました。もちろん、肌に合わなかったり、最後まで受け入れる事の出来ない作品もあるかもしれません。しかし、一度はこういうアール・ブリュット作品に目を背けずに、受け入れようとしてみるのはいかがでしょうか。陸側の人間として直感的に「この美術館、大丈夫か!?」と思うような作品に、あえて浸ってみてください。そうすれば、ひょっとすると、あなたも、そこに何らかの楽しさだったり、自分自身や人間に対する自分なりの発見があるかもしれません。
2015年02月13日 BLOGOS