「四半世紀近く前に感じた感激や興奮が、鮮やかによみがえりました。トップアスリートの驚異的なスピードや、重い障害がある選手が精いっぱいの力を振り絞って歩みを進める姿は、世界各国の多くの人々に、勇気と感動を与え続けてきたと思います」
平成22年11月14日、天皇陛下は大分市で催された第30回記念大分国際車いすマラソン大会の閉会式で、こう述べられた。
四半世紀近く前とは、昭和63年のことだ。陛下はこの年の第8回大会も観戦し、当時圧倒的な強さを誇っていたカナダのアンドレ・ヴィジェ氏(故人)に、お声をかけた。
ヴィジェ氏は後に著した回顧録に、陛下との交流を記したという。
■パラの父が結ぶ
皇室と障害者スポーツの縁は深い。結んだのは、大分県別府市出身の整形外科医で、日本パラリンピックの父と呼ばれる中村裕氏(故人)だった。
中村氏はイギリスでスポーツを取り入れたリハビリテーションを学び、障害者スポーツを日本で広めようと決意した。
昭和39年に予定されていた東京五輪の後に、パラリンピックを開催しようと奔走し、実現した。
東京パラリンピックの名誉総裁を務められたのが、当時の皇太子、今の上皇さまだった。上皇ご夫妻は式典はもちろん、何度も競技を観戦された。
閉幕後、大会関係者を招いた慰労の席で、上皇さまは「身体障害者の方々に大きな光明を与えたと思います。国内でも毎年行ってもらいたいと思いますし、身体障害者の福祉向上のためさらに、いっそう努力されることを希望します」と述べられた。
お言葉通り、昭和40年に全国身体障害者スポーツ大会が始まった。上皇さまは毎年のように出席された。
上皇さまは、中村氏が別府市で創設した社会福祉法人「太陽の家」の活動にも、ご理解を示された。
太陽の家は、障害者に自立を促し「保護より、(働く)機会を」との中村氏の理念が結実したものだった。昭和41年10月の昭和天皇、皇后を皮切りに、同年11月の上皇ご夫妻、43年11月の常陸宮ご夫妻など、皇族が何度も足を運ばれた。
上皇さまは、平成27年10月にあった太陽の家創立50周年記念式典にも、出席された。
この時、上皇さまは「ちょっとやりましょうか」とお声をかけた。相手は両手両足に先天性のまひがある卓球選手の宿野部(しゅくのべ)拓海氏(27)だった。
ラケットを握られた上皇さまは、卓球台の隅を狙ってボールを打った。
現場に居合わせた県生活環境部審議監の高橋基典氏(58)は「上皇さまは、全く手加減なしで打たれているように見えた。相手を一人のアスリートとしてとらえる。そのお姿に、感動した」と話した。
2人のラリーは長時間続いたという。
■「必ず見せたい」
大分国際車いすマラソン大会を発案したのも、中村氏だった。同大会は昭和56年、世界でも初の車いす単独国際マラソン大会として始まった。
中村氏は、障害者が一人のアスリートとして限界に挑戦する姿を追い求めた。上皇ご夫妻は、中村氏の思いを理解し、次代につなごうとされた。
元県庁職員で、大会運営に携わった池永哲二氏(62)は、先輩に聞いた話として、こう打ち明けた。
「昭和60年の第5回大会に、上皇ご夫妻にご臨席いただいた。この時、上皇后さまが『息子たちに必ず見せたいと思っています』とおっしゃった」
お言葉通り、天皇陛下だけでなく秋篠宮さま、黒田清子さんの3人全員が、大会を観戦されている。
陛下は平成30年6月、東京でリオデジャネイロ・パラリンピック女子マラソン(視覚障害)銀メダリストの道下美里選手の伴走を務められた。
29年11月の園遊会で道下氏が提案したものだった。陛下は「私自身も理解する良い機会」として快諾された。
陛下は31年2月の記者会見で、伴走を振り返り「自然な形でパラリンピックの競技を体験できたことは、本当に自分にとっても良かった」と述べられた。
国内では、令和2年の東京パラリンピックに向け、障害者スポーツへの関心が高まる。大会では、皇室の方々も大きな役割を果たされるだろう。
同じ年、大分の車いすマラソンは40回を迎える。池永氏は「節目の年に皇族の方に出席いただければ、大会や障害者スポーツに光が当たる。これほどの幸せはない」と語った。
2019.5.5 産経ニュース