不妊が忌避される時代をどう考えるか
強制不妊の「救済法」成立
2019年4月24日、旧「優生保護法(1948~96)」の下での障害者らに対して行われた強制的な不妊(男女の生殖の能力を奪うための外科手術や放射線照射)に対する「おわび」と一時金320万円の支給を行うと定めた救済法が可決成立した。
強制不妊は法的には「優生手術」と呼ばれていたもので、その目的は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」と書かれている。
これは20世紀初頭に、「日本民族」の遺伝的な質を改善するためには、遺伝病と決めつけられた精神・身体・知的障害者に子孫を残させないようにすることが必要だとする「優生学」の考え方から生まれたものだ1。
この意味での優生学は現在では科学として否定されている。
マスメディアでも、本人の意志を無視し、時には麻酔を使ったり(盲腸の手術と)騙したりしてまで強制的に生殖能力を奪った日本政府の過去の行為は許されない、という論調一色だ。
だが、ここで振り返ってみる必要があるのは、なぜそんな常識的に考えて非道なことが1996年まで(実際の手術は1992年まで)合法的に行われ続けてきたのか?という点だ。
強制不妊に関わった行政職員も医師もわざわざ障害者を苦しめようと思っていたり、不妊手術で喜びを得るサディストだったりしたわけではない。
むしろ、法律に従った福祉の業務の一つとしてこなしていたはずだ。
じっさい、1970年代までは「人権意識」の高いはずの欧米先進諸国でも、障害者に対して強制不妊や事実上の強制的な不妊が行われていた。
つまり、障害者に対する強制不妊を国が責任を持って行うことは、20世紀のかなりの期間、ある種のグローバル・スタンダードだったのだ。
1 そもそも障害の多くは単一の遺伝子だけで定まっているものではない。また、仮に遺伝子と関連した障害であった場合でも、そうした遺伝子の突然変異は自然に生じることがあり、その遺伝子があっても発症していない人もいる(劣性(潜性)遺伝の場合)ため、障害者の生殖能力を不能にすることは、その障害の根絶にはつながらない。
「国民優生法」の時代
「優生保護法」の前身は戦時中の「国民優生法(1940年)」だった。
この法律は、優生学の立場から障害者に対する強制不妊や妊娠した場合の中絶を政策として推し進めるために、厚生省(当時)によって1937年から提案されていた。
だが、戦時中には「産めよ、殖やせよ」と出産が奨励されていたため、いかなる理由であれ不妊手術や中絶手術を法的に認めること自体に強い批判が議会で浴びせられ、最終的には中絶の規制が中心の法律となったという。
そのため、「国民優生法」での強制不妊は実際には500件程度だった。
強制不妊が積極的に行われたのは、民主化されたはずの戦後1948年にできた「優生保護法」以降である(確認されるだけでも16000件程度と言われる)。
戦後は、植民地の喪失による多数の引き揚げ者の存在や兵士の復員によるベビーブームなどのため、過剰人口が問題視されており、人口政策の中で強制不妊や中絶は受け入れられやすかったのだろう。
そして、優生学は非科学的でしかも障害者差別だとの批判が1970年代から存在したにもかかわらず、1996年まで「優生保護法」は漫然と存在していた。
世界の強制不妊
日本の優生政策の直接のモデルはナチスドイツの「遺伝病子孫予防法(1933年)」だったとされる。
ただし、こうした立法は第二次世界大戦での枢軸側のファシズム国家だけに特有なものではなかった。
同じ20世紀前半に、障害者に対する強制不妊の法律は、米国、カナダ、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドなどで成立していた。
優生学的な立法の最初は米国インディアナ州の「不妊法(1907年)」であり、1920年代には米国の多くの州で障害者に対する強制不妊が立法化されていた。
そして、強制不妊にもっとも野心的だったのは、最初の不妊法を1909年に制定したカリフォルニア州で、ナチスドイツの「遺伝病子孫予防法」のモデルともなった。
米国の最高裁判所が、1927年に州法に基づいた強制不妊を合憲とみとめた有名な判決(バック対ベル判決)では、次のように述べられている(S・トロンブレイ、藤田真利子訳『優生思想の歴史』明石書店、139頁)。
欠陥を持った子孫が罪を犯しそれを処刑したり、自らの痴愚のために餓死するのを手をこまねいて待つよりも、明らかに不適な人間が同類を増やすのを社会は防ぐことができる。強制ワクチン接種と同じ原則が、卵管切除の場合にもあてはまる。
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いま読み直すとひどく差別的で驚くが、当時はこれが社会改良のための進歩的で人間的な手法(しかも低コスト)だったのだ。
しかも、こうした優生学はイデオロギーとはあまり関係なく、第二次世界大戦で連合国の中心となった米国と枢軸国の中心となったドイツの両方が推し進めている。
優生学は(当時の)「科学」に基づいた政策として、どちらかというとリベラルないし左翼側に支持されていた。
とくに注目すべきは社会民主主義だった北欧諸国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)でも、先進的な福祉政策とセットで1970年代まで障害者に対する強制不妊が積極的に行われていたことだ。
ちなみに、ナチスドイツは敗戦までに40万件以上の強制不妊を行っていたとされ、戦後の旧西ドイツ政府は被害者に補償を行っている(1980年に一時金、1987年からは年金)。
スウェーデンでのスキャンダル
強制不妊の被害者への補償の問題が国際的に大きく取り上げられたのは1997年、福祉先進国として知られるスウェーデンで、1935~1975年に行われていた強制不妊(およそ6万人)を告発する記事が新聞報道されたことをきっかけとしている。
このとき、とくに問題となったのは、強制不妊の「強制」の中身だ。
つまり、法律として強制になっているかどうかではなく、本人の同意がある場合でも実質的に強制だったかどうかが問われたのだ。
具体的にいえば、次のような脅しが政府職員から障害者に対して行われていたという。
貧困者やマイノリティに対して、不妊手術に同意する申請書を書かないなら、手当や住居を取り上げる、と脅す。
シングルマザー女性に対して、申請書を書かなければ親権を取り上げて子どもと引き離す、と脅す。
中絶希望する女性に対して、申請書を書かなければ中絶を許さない、と脅す。
障害者や子どもという弱者に「優しい」はずの福祉国家が、「親となる資格がない」と判断された人びとに対して、事実上の不妊を強制していたことがスキャンダルとなったのだ。
強制不妊に対するスウェーデンの国としての対応は素早く、1999年には補償と謝罪を行っている。
リプロダクティブ・ヘルス/ライツ
日本での「優生保護法」改正には外圧の影響が大きかった。
1994年にカイロで行われた国際人口・開発会議で、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(すべてのカップルと個人が性と生殖に関して自ら決定する権利を持つという考え方)が打ち出された頃から、「優生保護法」の時代錯誤に対する批判は国際的に高まったからだ。
その結果、1996年には「不良な子孫の出生防止」という優生学的な条項を削除した「母性保護法」に改訂された。
だが、その際には「当時は合法的な措置だった」との理由から強制不妊の被害者への補償や謝罪は議論されず、その後、補償や法的救済を求める国連人権委員会からの勧告(1998年)があっても日本政府は動かなかった。
事態が動いたのは2018年、宮城県の60代女性が国家賠償訴訟を起こしてからだ。
さまざまな問題を積み残してはいるが、それなりのスピード感で2019年には「救済法」が成立したのが現状である。
「強制不妊16000件」という数字の記録ではなく、一人の人間が苦しみの経験を語る生々しい記憶こそが、人びとの共感を呼び、社会を動かしたのだ。
不妊が忌避される時代
だが、社会学者の習性かもしれないが、私は、2010年代の日本で強制不妊を悪と見なす風潮が高まったところに若干の気持ち悪さを感じている。
もちろん、優生学による強制不妊に対して弁護すべき点は皆無だ。
だが、強制不妊がネガティブに見られる時代とは、(不妊を含めて)子どもを産まないことがネガティブに見られる時代と一致するように思えるのだ。
子どものない夫婦が白眼視された戦時中、優生学的な強制不妊や中絶は(戦後に比べて)あまり行われていなかったことはすでに指摘した。
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2010年代の日本では、国民全体での「産めよ、殖やせよ」は否定されているが、個々人のレベルで、不妊はカップルや個人の努力で克服すべき病気としてネガティブにとらえられている。
じっさい、不妊症の治療として体外受精で生まれた子どもは18人に1人となり、(主に女性が)妊娠に向けて体調管理に気をつける「妊活」という言葉も市民権を得ている。
生殖技術=生殖補助医療の存在によって自分と遺伝的につながった子どもを持ちたいという欲望が増強され、妊活や不妊治療への努力が奨励される時代だからこそ、不妊を強制された被害者に共感が集まっているのではないだろうか。
さらに、障害者に対する強制不妊が否定されると同時に、出生前診断が一般的になり、体外受精では障害児が生まれないように細心の注意が払われている時代が現代であることを思うと、なんとも複雑な気分になってしまうのだ。
2019年5月6日 livedoor