哲ノート

gentle heart!! ヤサシイココロ・オトナノココロ

街のお風呂屋さんにて

2016-06-01 00:30:08 | 思い浮かんだこと
高円寺の小杉湯さんの湯船にどっぷり浸かりながら…。

“満員御礼”の浴室内では、ごく自然に“ゆずりあい”の雰囲気がどこそこにも…。

常連さんも、顔は知ってるだけの人も、一元さんも、オトナも、コドモも、先輩後輩も、近所のおじさんも、偉い人も、外国人も、カラダに絵が描いてある人も…。

み~んなここでは平等だし、お互いのマナーを守って、気配りをもって、でも“(ここでの)しきたり”を守って、同じ湯船に入っているんだよな。

今回の入湯だって、外国人の方とちょっとコミュニケーションしたり、湯船に入る時も場所をゆずりあったり…と。

見知らぬ人がお互いに声を掛け合い、アイコンタクトしたり、そこには社会生活の一端である礼儀作法があって、この銭湯の中で自然に成り立っている。

そういえば自分も子供のころはまだ内風呂(この言葉は死語かぁ)がなくて近所の銭湯に行って、こんなことを自然と学んだと思う。

近所のおじさん・おじいちゃん・同級生・見知らぬオトナの中に混じって、社会生活に必要な“人とのつきあい”“コミュニケーション”を…

つまり子供ながらにこれが「社会生活デビュー」というものを「銭湯」というコミュニティで果たしたわけだ。

今は風呂があるのが当たり前で、しかも“ひとり”で入って、自分しかいないから気配りなしの“自己流”で、内向き内向きにならざるを得ないことになってしまっている。

もっと家族・身内・友人だけでなく、社会というコミュニティの輪を広げるという体験を重ねないと、人と人とのつながりに順応できなくなってしまうのではないか。

最近気になるのが、スーパー銭湯でカラダを洗う時に、周りへの気配りができてなくて自分にだけあてるシャワーの湯を(自分は知らずに…)他人にかけ放題なんて場面。

(むかしはシャワーなんてなくてさ、ケロリン桶で石鹸を流していたけど、最近はシャワーがあるのが(この世に生まれてから)あたりまえなんで…よけいに自己中になってしまう。

こんなことを街中の銭湯でやったら、まず(見ず知らずの他人であっても)怒られるだろうなぁ「なにしやがんだい…」ってね。

そんなことを体験したり、学ばないでオトナになっちゃった人が多くなっているのが、とっても気になるのだが…。

小杉湯さんの湯船に浸かりながら、そんなことを“ポカ~ン”と考えてました。(あっ、場所ゆずらないと…)
コメント
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