映画「バルトの楽園」のストーリー
1914年。第一次世界大戦で日本軍は、3万の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。ドイツ兵4700人が捕虜として送還され、日本各地にある俘虜収容所に収められる事となる。厳しい待遇が当然な俘虜収容所の中で奇跡の様な収容所が徳島県の板東に存在した。板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、ハーグ条約に則りドイツ人捕虜達の人権を遵守し、ドイツ人俘虜収容所としては例のない寛容な待遇をさせた。ドイツ人の捕虜達は、言語・習慣・文化の異なる地域住民と民族を超えた素朴な人間愛を育みながら収容所での生活を送る。そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する事に挑戦したのであった。(東映の映画紹介から)
この俘虜収容所長の松江大佐の徳島での住居跡に建立したのが、写真の顕彰碑(背後は新町川と眉山)
話は変わり、この碑の中に書かれている「武士の情け」という言葉で有名なのは、浅野内匠頭の江戸城における刃傷騒動「武士の情けで御座る、お離しくだされ、梶川殿」だが、武士の情けとは、新渡戸稲造の「武士道」によると力ある者の慈悲でとある。
所長の松江大佐は、朝敵とされた旧会津藩士の長男として両親が追いやられた青森県の不毛の地といわれた斗南で明治6年に生まれている。旧会津藩士が辛酸を嘗めたことを知っているからこそ、ドイツ人の捕虜の気持ちも理解できたのであろう。
退役後、大正11年から14年まで若松市(現会津若松市)の市長を務めたりし、昭和31年に83歳で死去。
1914年。第一次世界大戦で日本軍は、3万の大軍を送り込み、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。ドイツ兵4700人が捕虜として送還され、日本各地にある俘虜収容所に収められる事となる。厳しい待遇が当然な俘虜収容所の中で奇跡の様な収容所が徳島県の板東に存在した。板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、ハーグ条約に則りドイツ人捕虜達の人権を遵守し、ドイツ人俘虜収容所としては例のない寛容な待遇をさせた。ドイツ人の捕虜達は、言語・習慣・文化の異なる地域住民と民族を超えた素朴な人間愛を育みながら収容所での生活を送る。そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する事に挑戦したのであった。(東映の映画紹介から)
この俘虜収容所長の松江大佐の徳島での住居跡に建立したのが、写真の顕彰碑(背後は新町川と眉山)
話は変わり、この碑の中に書かれている「武士の情け」という言葉で有名なのは、浅野内匠頭の江戸城における刃傷騒動「武士の情けで御座る、お離しくだされ、梶川殿」だが、武士の情けとは、新渡戸稲造の「武士道」によると力ある者の慈悲でとある。
所長の松江大佐は、朝敵とされた旧会津藩士の長男として両親が追いやられた青森県の不毛の地といわれた斗南で明治6年に生まれている。旧会津藩士が辛酸を嘗めたことを知っているからこそ、ドイツ人の捕虜の気持ちも理解できたのであろう。
退役後、大正11年から14年まで若松市(現会津若松市)の市長を務めたりし、昭和31年に83歳で死去。