観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

おのぼりさん 特別展「写楽」

2011年06月14日 | 日記
浮世絵師の写楽には若いときから興味を持ち、徳島で「写楽の会」の立ち上げ時から参加している。
東京国立美術館で「写楽」の特別展があった。仲間から一緒に行こうと誘いのあった5月中の平日は仕事の関係で行けなかった。
開催期間は、6月12日までだったのでどうしようか思案をしていた。そうこう思っているうちに、カメラのコンバーションレンズ
の接点のネジが、シャッターを約2,000回(約3,4日分)くらい切ると緩むようになり、オートフォーカスが合わなくなる
ということが2回続いた。この際、写楽展を見るついでにニコンのサービスセンターへ行こう、おまけスカイツリーも見ようと
6月4日5日の土、日を利用して上京した。
上野での写楽展は9時30分、銀座のニコンサービスセンターは、10時30分にオープンする。東京には4日の朝一番の飛行機
で行く。最初に向かうのは時間ロスがないの写楽展かとも考えたが、スカイツリーの撮影ポイントを詳しく調べていると、どうも
午前中のほうがいいところが結構ある。このために、スカイツリーから出掛けたがこれが誤算だった。スカイツリーなんてそれほど
大したことないと思ってのだが、実物を目の前にすると写真を撮るのが面白くなり、その上、撮影ポイントも多いので、思わぬ時間
がかかった。撮り終えた後、写楽展に行くと、客が多くて館内への入場を制限をしていた。展覧会場の平成館の入り口で待っていたのは
10分ほどだったが、館内に入ると今度は第一会場は混雑しているので、第二会場から入るようにと言う。ところが、第二会場もかなり
混んでおり、見て回るだけでも相当時間がかかった。次に第一会場に入場したが、第二会場の倍くらい混んでいた。
当初の計画では、この日、これら3つの計画をすべて終了し、有楽町駅で家人と5時に待ち合わせの予定だった。銀座ニコンのクローズは、
6時30分である。しかし、家人のほうは、当日、本人の予定が少し早く終わることが分かったようだ。このため、待ち合わせの予定を
早めるべく、私に連絡しようと何回も私の携帯にかけていたらしい。そのことを知ったのが、待ち合わせ予定の10分前だ。15分くらい
遅れると、家人に連絡をしようとしたときだ。電話が通じない。飛行機に乗るときに機内モードにしていたことを忘れていたのだ。
その後の話はまたの機会に書くとして、
写楽展の会場で購入した図録「写楽」の17ページに“平成9年、徳島市の歴史愛好会「写楽の会」により、埼玉県越谷市の法光寺が
齋藤家の菩提寺であることが確認され、同時に過去帳に「辰三月七日 釈大乗院覚雲居士 八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良兵衛事
行年五十八歳 千住ニテ火葬」と記してあることが判明した。”と記してある。
上記の記事には徳島市の歴史愛好会とあるが、これは多分、写真の愛好会でないという意味の程度くらいで書かれたのだと思う。当会は、
阿波の歴史などを広く学ぶために結成した会ではなく、最初から東洲斎写楽が阿波藩のお抱え絵師であることを実証しようと結成した会なのだ。
菩提寺の発見については、写楽の会の創立メンバーの1人で当時PCに詳しかったメンバーが作ったホームページの この記事に詳しい。
写楽の会は、このホームページのトップページに〘私たち写楽の会は、写楽の国徳島に本拠を持ち写楽の謎を研究することや、様々なイベント
を通して写楽を楽しんでいる。〙とあるように、「写楽」で楽しむことが主とした目的だった。しかし、会の発足後数年のうちに世紀の大発見をした。
このため、会の運営については、1997年11月に組織変更をし、今後の会の行動について「東洲斎写楽記念館」の建設という大きな目標を
掲げたものの、写楽イコール阿波藩お抱えの能役者であるということが、ほぼ確定した段階で次第に熱が薄れていった。現在はたまにメンバー
同士で意見交換会を兼ね、以前講師に来ていただいた先生を囲んで懇親会を開くといった程度でほほ休眠状態である。
また、下記の記事を読むと、これまた分かるように写楽の会としては
行政にも働きかけはしていたが、当時の徳島土木事務所を除いては相手にされなかった。現在、藍場浜公園の新町川に沿って陶版が展示されている。


東京国立博物館 平成館前


新町川沿いの陶版(写真の日付は全く違っている。カメラの初期設定?)
 



10年あまり前に「写楽の会」の会員募集用に作成したチラシの一部(現在は募集停止中)