作文を頼まれた。原稿の中で「私は、物事を楽観的に考えるほうだ。だから、世の中楽しい事だらけとまでは
言わないが、人生を自分なりにエンジョイしている。その秘訣は、「諦め」だ。」という一文を書いた。
原稿の依頼主からそこの部分をもう少し長く書いてくれないかと言われたので、次の文を付け加えた。
“「諦」は、仏教用語から来ており、サンスクリット語のサチヤ(satya)の訳で真理の意味である。
それが、何故、思いを断念するという意味で「諦」が使われるようになったのかは、はっきりしてないようだ。
しかし、「真理をあるがままに見極める過程において、自分自身が認識できる範囲を知ることで、己の能力の限界を
悟ることになる。結果、断念するとなったのでないか」という説は、納得できる。
このことを考えると、自分は、「断念ではなく、本来の意味の物事を明らかに究めることが出来たのだから満足」
という事に繋がる。”との文章を加えた。
「これが、あきらめが満足に繋がり、人生をエンジョイを出来る秘訣?」
こんな事を書いてる奴は、脳天気の楽天家で、決して仏教書を熟読して、本人なりに悟ったと結果、とは思わないだろう。
言わないが、人生を自分なりにエンジョイしている。その秘訣は、「諦め」だ。」という一文を書いた。
原稿の依頼主からそこの部分をもう少し長く書いてくれないかと言われたので、次の文を付け加えた。
“「諦」は、仏教用語から来ており、サンスクリット語のサチヤ(satya)の訳で真理の意味である。
それが、何故、思いを断念するという意味で「諦」が使われるようになったのかは、はっきりしてないようだ。
しかし、「真理をあるがままに見極める過程において、自分自身が認識できる範囲を知ることで、己の能力の限界を
悟ることになる。結果、断念するとなったのでないか」という説は、納得できる。
このことを考えると、自分は、「断念ではなく、本来の意味の物事を明らかに究めることが出来たのだから満足」
という事に繋がる。”との文章を加えた。
「これが、あきらめが満足に繋がり、人生をエンジョイを出来る秘訣?」
こんな事を書いてる奴は、脳天気の楽天家で、決して仏教書を熟読して、本人なりに悟ったと結果、とは思わないだろう。