blog.mcnj

花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

戦後75年の記憶、松代象山地下壕(のんきさんの過去ログ)

2020-08-15 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------

 

ブロ友の、のんきさんの過去ログです。

お許しを頂いて、こちらでアップさせていただいております。

 

のんきさんの過去ログ。

自分の備忘録とはいえ、長い旅の記録を連日お付き合いくださってありがとうございます
旅行記最終です

今回ご一緒した友人ご夫婦が、以前尋ねらたところで、私の全く知らなかったところに、案内していただきました

DSCN7181

太平洋戦争の遺

ぁ・・・・すごい所でした
東京から遠く離れたこの松代に、太平洋戦争の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘裏にこんなことがなされていたんです・・・
象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。
皆神山地下壕に備蓄庫。
舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転することになりました。
3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶんだそうです

着工は昭和19年11月11日午前11時
当時のお金で2億円の巨費と300万人の労働者が強制的に動員され、工法も、旧式な人海作戦を強いられ、1日三交代の徹夜作業だったそうです
そのころの日本は、若い者、元気な者はすべて戦地に出向き、この地下壕に携わった労働者の多くは、朝鮮の方たち。
食糧事情も悪く、辛い作業に、多くの方が犠牲にもなられたと聞きました
全行程の75パーセントのところで、終戦となり、工事は中止となりました

東京から遠く離れた長野県松代の地に、このような歴史的事実があったことを知り、胸が詰まるような思いでした

DSCN7180

 

DSCN7182

 

DSCN7208

 

「中は寒いですよ」と言われ
あわてて上着を取りに車に戻っていただきました
DSCN7208
地下壕は総延長5,853m。
そのうち、500メートルを長野県が整備し公開しています
遠くに見える赤いものは、壕の補強です
横上を走るのは電源用のケーブルです
DSCN7191

削岩機ロッドで穴をあけ、ダイナマイトで掘り進んだそうです

岩盤が堅くて抜けなくなったロッドが今も残っています

 
DSCN7194

DSCN7195
 
一定の間隔で照明が設置されているので完全な暗闇ではありません
非公開部分は、柵が施されています。
IMG_4527
労働者の出身地でしょうか「大邱」と書かれています
遠く故郷を離れ、強制的に重労働を強いられた思い。。
考えるとつらいです
DSCN7213
 
トロッコで採石を運んだ跡
DSCN7212
9
刺さったままの木片
当時、木片の先にガイシを通して電線を通したといわれる

壕の内部の様子など、写真に上手く撮れませんでした

この工事による朝鮮から労働に来られた方の犠牲者の数も
明らかにされてはいません
またこの近所に「慰安所」があり、
朝鮮から連れてこられた若い女の人たちの
無念をも思ったことでした
この地に住む住人の方々の突然の退去命令。
詳しい話も聞かされずに家を追われた地元の方々
そのすべての方が戦争の犠牲者です


私は戦争を知りません

広島。長崎の原爆投下による甚大な被害は聞き及ぶところですが
この地下壕が機能されることなく終戦を迎えたことは
これ以上の被害を出さずにすんだことに他なりません

沢山の方が犠牲になられた戦争の悲劇の一端を知るためにも
見ておくべき遺跡だと感じました

 

のんきさん、ありがとうございました。

是非とも、後世にひきついで頂きたいと思います。

皆さん方よろしくお願いいたします。

皆様、コメントは、のんきさん宛てでお願いします。

 http://nonkinako-3.dreamlog.jp/archives/51990709.html

 

 

 


泣きっ面に蜂、土用干し

2020-08-14 12:00:00 | 学問

暑い最中、汗びっしょりになりながら、庭の草取りをしていました。

もう、止めようと、エアコンの室外機につかまって立ち上がったところ、左親指に、激痛が走りました。

見ると、アシナガバチが止まっていました.。

刺されたようです。

慌てて、そばにあったアロエの葉っぱをちぎって、汁を塗ってシップしました。

時計を見ると、8時前でした。

まだ、馴染みの皮膚科はやっていません。

10時からです。

様子を見ていると、親指の付け根の部分まで腫れてきました。

手のひら側も、腫れています。

10時になって、皮膚科で診てもらいました。

アシナガバチの針は、抜けないから、大丈夫だが、暫くは、腫れて痛いから、痛み止めと、感染症防止の

薬三日分を処方して、塗り薬とともに、出してくれました。

二日目は、かなり腫れて、親指全体と、手首の周りに、痛痒い症状がでてきました。

三日目には、腫れは引き始めましたが、痛痒みは依然ありましたので、もう、4日分の飲み薬を出しても

らいました。

現在自宅療養中です。

昨日、庭に出て、草取りをしていたら、アシナガが数匹、室外機の傍にうろうろしていましたので、さて

は、この中に巣を作っているなと、感づきました。

早速、アースジェットを持ってきて吹き付けたところ、中から、兵隊蜂の大群が攻撃してきました。

こちらは、アースジェットがありますから、勝負になりません。

この通りです。

敵を取ってやりました。

 

 

 

 

家内の梅干しです。

 

 

 

 

 


戦後75年の記憶、大日本帝国憲法

2020-08-13 12:00:00 | 学問

もう直ぐ、75回目の、終戦の日がやって来る。
70年の区切りとして、5年前に、幼かった、昭和の戦争の語り部の記憶を、まとめてシリーズでアップ
した。
忘れてはならない、あの忌まわしい記憶を、後世に伝えるべく、またここで、アップして置きたい。

昭和の戦争の語り部の一人としての使命だと思っている。

 

ミヤサン、ミヤサン、

オンマノマアエデ、ヒラヒラスルモノ、ナンジャイナ

トコトンヤレナ。

 

アアレハ、チョウテキ、セイバイセヨトノ

ニシキノミハタジャ

シラナイカ

トコトニャレナ。

 

鳥羽伏見の戦いで、薩長土肥に破れた、徳川家喜は、海路、江戸城へ逃げ帰ります。

錦の御旗を貰った官軍は、幕府軍の残党を、追討しながら東進して、江戸城の、無血開城に成功して

政奉還に成功します。

1968年、官軍は、天皇を立てて、明治政府を設立します。

まだ、基盤が軟弱だった政府は、天皇を中心とする、大日本帝国憲法を制定して、天皇に主権を与えを、

国民をそれに従わせる

天皇主権国家を設立しました。

聡明な天皇が、全権を把握して、政事を行えれば、国民は、幸せになれたれたでしょうが、天皇を取り巻

いて、権力を握ろうとする集団が、不穏な動きを始めました。

その、最悪の事態が、軍部による、太平洋戦争でした。

彼らは、天皇制を利用して、国民を食い物にしたのです。

やがて、戦争に負けて、戦勝国側から、新憲法のところでも制定を迫られている、新しく制定したのが、

↓で述べた、日本国憲法でした。