私が若い頃、社会に出て間もない頃だった。
私の就職した会社の職場に、口やかましくて、無愛想、冗談が通じず、
いつも険しい顔をしているKさんという上司がいた。
Kさんは多くの人に対して不親切な人だった。
ただ、この方は「裏表のない人」であった。
ひとを観て態度を変えたり、
自分の価値基準を物差しにして特定の人に対してのみ
バカにした態度をしたりする事はなかった。
しかしながら・・・
Kさんは大多数のひとから嫌われていた。
厳密に言えば、嫌われていたというより、
「Kさんは、良い人だ」と言う人は誰一人として存在しなかった。
人と人との関わり合いのなかに於いて、
その人の存在が周囲の雰囲気を暗くさせることは
ある意味、罪なことでもある。
私の今までの経験のなかで、
このケースと全く正反対なこともあった。
Wさんという人がいた・・・
Wさんは、愛想が良くいつもニコヤカ、礼儀正しく、親切で、
善意に溢れた言動をする人間であった。
しかしながら、この方は特定の少数の人間に対してのみ、
無愛想、不親切、意地悪、無礼な対応・・・
大多数の人に対しては、愛想よく挨拶するのだが、
ごく一部の人間に対しては、むこうから「おはようございます」
と挨拶してきても、横を向いて無視をする。
この方の特性は、大多数の人に対しては「良い人」であるが、
ごく少数の人に対しては、180度、態度を変える。
この方は、他者に対する独自の物差を持っていて、
何らかの理由で、「バカにしたい相手」に対しては、
他者の見ていない場面で、
徹底的にバカにした態度、対応をする。
こういう方を、「裏表がある人間」と言うのかも知れない。
人間誰しも、他者に対する好き嫌いと云うものがある。
だだし、嫌いな人間に対しても守るべ礼儀がある。
自分に対して牙を向けてくるような相手なら別であるが、
ただ、「アイツ気に食わない」という理由だけで、
無礼な態度をすることは、実にミットモナイ。
建て前だけでも最低限の「礼節」を守るべきであると思う。
これが守れるか、守れないかが、その人の「 品性 」を現す
バロメーターではないでしょうか。
(上記のお話は、あくまで事例をもとにした、
例え話であり、個々の事象をいって
いるのではありません。)
もし、Kさんと、Wさんを、
「 善・悪 」という二元的な視点で判別するなら
どちらが善で、どちらが悪なのか?
この御二方、どちらが徳を積んでいるのか、いないのか?
この問は、非常にナンセンスな問であると思う。
即ち、善行・悪行 の基準など相対的なものであり、
絶対的な事象ではないという事です・・・
徳を積む、積んでいない、などどという事は、
あくまで相対的な比較であり、絶対的なものではないと
いう事です。
ここに、人間の本質・運命の本質・因果の本質・仏法の真髄
を示唆する鍵があると思える。
親鸞聖人は、仏法の極地を凡人に説く為に、
究極の逆説を吐いた・・・
善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
・・・親鸞・・・
訳
善人でさえ浄土へ生まれることができる、
ましてや悪人は、なおさらだ。
それなのに世の人は、つねに言う。
悪人でさえ浄土へ往けるのだ、ましてや善人は、
なおさら往ける。
私の就職した会社の職場に、口やかましくて、無愛想、冗談が通じず、
いつも険しい顔をしているKさんという上司がいた。
Kさんは多くの人に対して不親切な人だった。
ただ、この方は「裏表のない人」であった。
ひとを観て態度を変えたり、
自分の価値基準を物差しにして特定の人に対してのみ
バカにした態度をしたりする事はなかった。
しかしながら・・・
Kさんは大多数のひとから嫌われていた。
厳密に言えば、嫌われていたというより、
「Kさんは、良い人だ」と言う人は誰一人として存在しなかった。
人と人との関わり合いのなかに於いて、
その人の存在が周囲の雰囲気を暗くさせることは
ある意味、罪なことでもある。
私の今までの経験のなかで、
このケースと全く正反対なこともあった。
Wさんという人がいた・・・
Wさんは、愛想が良くいつもニコヤカ、礼儀正しく、親切で、
善意に溢れた言動をする人間であった。
しかしながら、この方は特定の少数の人間に対してのみ、
無愛想、不親切、意地悪、無礼な対応・・・
大多数の人に対しては、愛想よく挨拶するのだが、
ごく一部の人間に対しては、むこうから「おはようございます」
と挨拶してきても、横を向いて無視をする。
この方の特性は、大多数の人に対しては「良い人」であるが、
ごく少数の人に対しては、180度、態度を変える。
この方は、他者に対する独自の物差を持っていて、
何らかの理由で、「バカにしたい相手」に対しては、
他者の見ていない場面で、
徹底的にバカにした態度、対応をする。
こういう方を、「裏表がある人間」と言うのかも知れない。
人間誰しも、他者に対する好き嫌いと云うものがある。
だだし、嫌いな人間に対しても守るべ礼儀がある。
自分に対して牙を向けてくるような相手なら別であるが、
ただ、「アイツ気に食わない」という理由だけで、
無礼な態度をすることは、実にミットモナイ。
建て前だけでも最低限の「礼節」を守るべきであると思う。
これが守れるか、守れないかが、その人の「 品性 」を現す
バロメーターではないでしょうか。
(上記のお話は、あくまで事例をもとにした、
例え話であり、個々の事象をいって
いるのではありません。)
もし、Kさんと、Wさんを、
「 善・悪 」という二元的な視点で判別するなら
どちらが善で、どちらが悪なのか?
この御二方、どちらが徳を積んでいるのか、いないのか?
この問は、非常にナンセンスな問であると思う。
即ち、善行・悪行 の基準など相対的なものであり、
絶対的な事象ではないという事です・・・
徳を積む、積んでいない、などどという事は、
あくまで相対的な比較であり、絶対的なものではないと
いう事です。
ここに、人間の本質・運命の本質・因果の本質・仏法の真髄
を示唆する鍵があると思える。
親鸞聖人は、仏法の極地を凡人に説く為に、
究極の逆説を吐いた・・・
善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
・・・親鸞・・・
訳
善人でさえ浄土へ生まれることができる、
ましてや悪人は、なおさらだ。
それなのに世の人は、つねに言う。
悪人でさえ浄土へ往けるのだ、ましてや善人は、
なおさら往ける。
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