2022年7月8日の安倍晋三襲撃事件、それから1年が経過した。
しかし美しい国では、この事件の本質とは異なるところで反応。
軌道修正がされないまま、晋三は神棚に祀り上げられようとしている。
作家の髙村薫さんは、見逃してはならない事件の要を次のように指摘。
まず、今回の被疑者のような立ち位置を捉える。
親の入信で家族と自分の人生を破壊された宗教二世の存在。
それは、こうした事件が起きて初めて社会の眼に触れる。
今の社会は、貧困・宗教・病気等で疎外された人びと。
彼らが、這い上がれる社会ではない。
追い詰められて事件を起こして初めて、私たちは・・・。
ようやくその苦しみを発見するだけだ。
こうした底辺に注がれる政治の眼は冷たく・・・。
そもそも見ていないという方が正しい。
長く政権の座にあった安倍首相の国会答弁の姿が何よりの証拠。
野党の質問をのらりくらりとかわしてまともに答えない。
突っ込まれて逆切れし、薄笑いをしながら野次を飛ばす。
国会での質疑は、一言一句議事録に残り後世に伝えられる。
だが、そんなことは知ったことではない人間が、一国の首相だった。
そして、国民の代表が集う国会でそんな答弁に終始した者。
彼らの眼は、徹底して国民を見ていなかった。
いわんや宗教二世の苦しみなど眼中にあったはずもない。
国民の苦しみに背を向け続けた者が、国葬とは何の冗談かと思う。
いやぁ、髙村さんの指摘は、とても重みがある言葉だなぁ。