無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海人物伝・松森胤保

2023-11-24 16:32:32 | 歴史



飽海地域史研究会の新しく始まった「人物講座」の初回は、松森胤保だった。






折しも、松森胤保とは縁の深い旧松山町の松山文化伝承館では、彼の特集が12月8日から開催される。
丁度よい機会であると共に、復習するのにモッテコイでもある。



小野寺先生の講座は、NHK朝ドラ「らんまん」」の牧野富太郎氏の話から始まった。彼は植物を丁寧に写生し分類した。
しかし松森は江戸時代にそれを行っているが、彼の興味は植物だけではなかった。
タキタロウの写生、月山で拾った龍ノ荒ラシ子、動物から昆虫、果ては人魚まである。彼の学問に対する姿勢は幅広く、民俗学から歴史まで詳しい。


さて、すると彼は学者なのかと思えばさにあらず、武士としても素晴らしく活躍をしている。
年表をみてみよう。文政8年(1825)に鶴岡の二百人町も長坂家に長子として生まれている。13歳で致道館で学ぶ。
19歳で酒井忠発に謁見し、致道館の句読師当分となる。この後武術を極め39歳で物頭になり弓砲隊23人を預かり、松山藩の付家老となる。
40歳で江戸に出、様々な役を申し付けられるが、庄内藩自体が江戸の警備を命じられている。
写真は江戸での41歳の頃のものである。





43歳の頃、江戸の薩摩藩邸の焼き討ちに参加する。
と言っても上の年表の下の方の薩摩藩邸の配置図があるが、斜め斜線が松森が率いた松山藩が焼き討ちした箇所で、庄内藩の物よりも多い。
戊辰戦争の火蓋を切った張本人とも言える。


44歳で松山に帰るが、それからが戊辰戦争である。
9月で庄内藩は負けを認める。


それからは東京、松山、鶴岡を移動しながら学問の道に進む。
48歳で松嶺の里仁館(藩校から学校へ)の大教授や松山の区長ともなる。
著作は多々。66歳で飛行機を設計するなんてもある。

人魚は人造物。魚や動物を繋げて作ってあるようだ。彼はこの人魚を自分の自画像、人生としてみていたようだ。



松森の写真は5人で撮した物のあった。写真の価格が書いてあったが、5人で2両(20万円)一人4万円もかかったのか。
現代のスマホでパチパチを見たら、松森は何と云うだろう。




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